
越中利波郡の西部に在った室町幕府御料所【越中五位庄】。
五位庄赤丸村の「赤丸城」には、「越中守護畠山持国」の名前が在る。
(※大阪府羽曳野市資料叢書「畠山文書」)

●「五位庄石堤村」の『西光寺縁起』に見られる藤原氏の「越中井口氏」と「足利幕府将軍足利義材」の越中中郡放生津での滞在記録。(※「足利末世記」、「畠山家記」)


[赤丸村隣地の高岡市石堤に在る「西光寺縁起」に、井口氏と越中吉岡庄地域との関わりを示す痕跡が見受けられる。「西光寺」は赤丸浅井神社の至近距離に在る。]
◎「西光寺縁起」
応安元年了順の開基にして初め天台宗なりしが明応年中真宗に帰し今は本派に属す。廣谷山と号し西光寺の名を綽如上人より賜る。了順の俗姓は鎮守府将軍藤原秀郷五世の孫光義 康平七年三月越中守源義家に従ひて當國に下り礪波郡井口郷に住し井口三郎光義と稱す 光義五世の孫光成は俵藤太(※「藤原秀郷」:田原に住み、大ムカデ退治の武勇伝が在る。)を縁り養藤蔵人と號す 光成九世の孫光高後に蔵人成綱と改め井口城に據る 元弘二年名越時兼に攻められ戦死す 年三十九 嫡子倉之助逃れて隠處を求め礪波郡山川村 石堤村山川村也 の開祖となる 倉之助の無常を悟り剃髪染衣して応安元年天台宗に帰依し法名を了順と改め草庵を結びて出家す。 大骨、四辻 山川地内、と轉遷して後ち廣谷 石堤村西廣谷瑞京寺干場 に一宇を建立せり。亨徳二年麻生谷 石堤村麻生谷現境内 へ移転したり、明應の頃将軍足利義材越中に逃れ一向宗徒に據り當寺に陣止せし事あり 永正二年義材 義植と改 再び将軍となるや麻生谷村山岸領分の寄進を受け 永正二年、永祿六年直安、景直より墨付 たりといふ 了秀の世延寶八歳秋十五日、十日市九郎兵衛の寄進せる鉅鐘成る 工人加州金澤住人河江長兵衛作 元禄十三年六月八日堂宇類焼に際し鉅鐘敗れたり 了淳元禄十五年に堂宇 今の本堂 再建せり 了照 現住 明治四十五年庫裏を改築せり
一説 鎮守府将軍藤原利仁の後裔井口三郎ともあり
累世左の如く養藤の姓を冒し檀家三百有餘あり
定紋 圓に三俵は秀郷百足退治の功により龍宮より賜はりたる大豆栗米(永世祿)の三俵に縁りて票示せりと傳ふ
以下省略 (※「石堤村史」参照)
【※「応安年間」は南北朝時代の元号の一つで北朝方にて使用された。1368年から1374年迄。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。足利義満により越中吉岡庄は京都の相国寺(金閣寺)に寄進されている。西光寺は当初、南朝側として戦ったが、足利氏が支配するに及び北朝側になったと云う。足利義満が将軍となり越中国を管領畠山満家に委ねた時に、越中国は八郡に改編され、「越中国利波郡五位庄赤丸城」には満家の子供の畠山持国が越中守護として在城した。➡常時は羽曳野市に在住。】




