赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【光釜山西大寺】「観応の擾乱」で「吉岡庄(後に五位庄)」で散った南朝の武将「桃井直常」の三男が赤丸村に高岡市木町の「西大寺」を開いた !!

2021-04-15 | å¯Œå±±çœŒé«˜å²¡å¸‚福岡町赤丸村





●後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」に従った「桃井直常」は「太平記」・「花営三代記」に拠ると、観応元年(1350年)10月、越中守護であったが、同族の足利尊氏と敵対した弟の直義派に加わり尊氏方と戦った「観応の擾乱」が起きる。応安4年7月28日、足利尊氏方の斯波氏・能登の吉見勢との「後い庄(五位庄)の激戦で直常は敗れた」(越中志徴)が、桃井直常の首を取られるのを恐れた家臣は遺体を富山市の興国寺に埋葬したと云う。長男の直和は松根城等を拠点としたが長沢の戦いで敗れた。直和の子の幸若丸は越前朝日町に生まれ、後に幸若舞を創始したと云う。直常には9人の子が有ったと云われ、次男は砺波市秋元の光福寺を、三男の直弘は元赤丸村舞谷に在った高岡市木町の西大寺を、妙寿寺は五男の開いた寺と云われ、それぞれ「二羽の雁」「三羽の雁」「五羽の雁」を寺の紋としている。又、本門法華宗の流祖日隆は桃井直和の子で大門町浅井城城主桃井尚儀と斯波義将の娘益子との間にでき、1429年に京都の本能寺を開いたが、本能寺はその後数回の建替えを経て、当時は織田信長の京都での宿舎として要塞化し、織田信長の鉄砲入手も裏で支援していたと云う。織田氏も元々は斯波氏の被官であり、信長は幸若舞をこよなく愛して本能寺で光秀に殺される前にも幸若舞を舞ったと伝承される。富山県には直常の弟の直信が立山の芦峅寺衆に協力を求めた書状が残る。系図に見られる弟の直弘は元々直常の3男だが弟にしたと伝わる。

◆応安四年(1371年)、「観応の擾乱」で足利尊氏の弟「足利直義党」の中心として活躍した「越中国前守護桃井直常」が兵を挙げた。「飛騨国司姉小路家綱」は「桃井直常」を支援するために越中に出兵したが、「越中守護斯波義将軍」との【越中後い庄(※後院領から五位庄に転化したと見られる)の戦い】で大敗し、飛騨国司姉小路家綱の舎弟らが降参あるいは生け捕られた。その後の桃井直常は飛騨へ落ち延びた共、越中で討ち死にした共言われ、飛騨国司姉小路家綱の動向は詳らかではない。(※「花営三代記 群書類従」、「飛騨国治乱記」)





飛騨国の戦記には、「飛騨国治乱記」が在り、「姉小路家」の動静が載る。


■元赤丸村舞谷の清水山の麓の麻畑地内に在ったという西大寺は、その後、高岡市一之瀬の近く佐野地内の紅屋という場所に移り、更に高岡開町の時前田利長より寺地1500坪を現在地の木町に賜わった。寺の伝承では、西大寺の開基は南北朝期に南朝の側で戦い、五位庄の戦い以後所在不明になった足利一門の名将桃井直常の幼い3男が、直常敗走と知り奈良の西大寺に預けられたが、成長して一人前の僧になり、西大寺よりその寺号を頂いて、父直常の縁の越中に赴き、初めは倶利伽羅山の越中側に寺を建立したと云う。その後、寺は舞谷村に動き、更に高岡市の紅屋という場所に動いたが、その地に「光釜」という泉が有り、その池の中の沈んだ釜に蛇が絡んでいた事から「光釜の伝説」が有った。その為、この寺は「光釜山西大寺」と名付けられて、前田利長が高岡を開町した今から400年程前に、前田家に呼ばれて現在地に動いたと云う。現在地は小矢部川沿いにあり、伏木と高岡の間に有り、小矢部川と千保川の合流点の木町は前田家の防衛拠点としての意義も有った様だ。西大寺の門徒に赤丸村舞谷に古くから多くの門徒がおり、越後から南朝の後醍醐天皇第八の皇子の宗良親王に従って吉岡庄(後の五位庄)に入り、後には「下加茂社」の神官を務め、長く「越後どん・越後さん」と呼ばれてきた名家の越後家(本家は北海道に移転)等舞谷村20軒中12軒がこの寺の門徒であり、今も麻畑地内の奥山には約15,000坪の山林が有り、此の山からは長い間、西大寺の燃料や正月の松飾り等が賄われていたと云う。西大寺は今も、住職が「桃井」を名乗る。
(※「高岡市史」は創建を高岡市佐野としている。この歴史的経過は実際に西大寺、門徒衆にヒアリング調査し西大寺山の登記関係も調査したものである。)

■「西大寺」の末寺の【越中国分寺】と越中の「西大寺」の創建
【丹後、尾張、加賀、越中、因幡、伯耆、周防、長門、讃岐、伊予、奥州の各国分寺が室町時代には西大寺末寺と成っている。】(※「西大寺末寺帳」→羽曳野市史第一巻本文編)に見られる様に、南北朝時代には至近距離の高岡市伏木に在った「越中国分寺」が、西大寺末寺と成っていた事も在って、室町時代には「利波郡」に属した二上山に在った「越中国分寺」の末寺として赤丸村の舞谷村に現在の「光釜山西大寺」が創建されたと見られる。







■「赤丸村の史跡」





■「西大寺」は赤丸村舞谷の永賢寺後ろの麻畠島に在ったと伝わる。
■この跡には一時期、現在高岡市瑞穂町の「聖安寺」が在った事が「由緒」から解る。
【石川県七尾市湯川西得寺境内聖安寺旧跡地碑】
『南無阿弥陀佛
天正九年利家公の命に召されて河北郡北中條大坪村より当地に移住す、後石動山兵乱の節兵火の為め党宇を亡し慶長十四年利家公の誘引に任せて越中砺波、舞の谷、中谷内、富山を経て高岡に至る。 昭和五十二年春建之』
⇒「越中砺波郡舞の谷」は高岡市福岡町赤丸村舞谷の事で、「中谷内」とは「赤丸村寺谷内」の事の様だ。「聖安寺」は石川県河北郡大坪村に創建され、七尾市に動き、更に赤丸村に動いて、後に高岡市瑞穂町に動いた。

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