電脳アニメパス

アニメ及び周辺文化に関する雑感

劇場版『AIR』とTV版『AIR』・作画編

2005年03月19日 | アニメ
 以前から気になっているのは、劇場版はTV版に比べて作画が良くないという言説が当然のごとく語られていることです。確かに劇場版は各手法毎にまるでデザインが違うかのごとくキャラが統一されていなかったり、何より止め絵が目立つという特徴があるから、お世辞にもアニメーションとして満足できる作画ではないかもしれません。
 一方、TV版なのですが、こちらは「キャラを崩さない」劇場版のような様々な表現方法を交えることなく、オーソドックスな二次元アニメであるという点で、確かに統一感はあります。しかしながら、それ以上でもないのです。TV版の絵は確かに崩れてないけど、逆にいえばキャラを崩してまで表情を描こう、芝居をさせようという作画の主体性もありません。キャラの喜怒哀楽は恐らく設定書に描かれた表情集の範囲は超えてないだろうし、あえて乱暴に言えば、パターンごとの表情を切り替えつつ繰り返し用いているゲームのキャラと同様です。
 いわば、こういう顔をすればキャラは笑っている、こういう顔をすれば泣いているというお約束でキャラクターの感情を表現してるだけにすぎなく感じます。その範囲を超えて感情のほとばしりを画面上に描くようなものはありません。感情のほとばしりあるとすれば、そこはもっぱら声優の演技力で補うしかないというところでしょう。

 もっとも、作品全体としてTV版は感情を抑えた淡々とした作品になっています。おそらく原作のゲームからしてこういう雰囲気なのでしょう。もっとも、萌えという感情表現自体が抑え気味の愛情表現だから、こういう世界では感情のほとばしるままに描いたベタな表現は、むしろ無粋と言ったものでしょう。
 しかしながら、劇場版においては大きくその点で相違があって、この作品において出崎監督の目指したものは自然な(というか、映画的にリアリティのある)感情表現によって描かれたキャラクターの物語でしょう。
 確かに全体的に統一感の取れていない劇場版のキャラですが、その一方で、ここぞという部分の作画はTV版の作画よりも生き生きとして輝いています。観鈴と往人が2回目に廃校舎に行くシーンで、観鈴がくるくると回りながら踊ってるカットの絵……これだけきらきらと輝いて美しく見える観鈴は、おそらくTV版には期待できない種類の絵だと思います。

 ここ10年ばかりの傾向ですが、昨今のTVアニメではデッサンの崩れていないキャラの統一性が優先して作画に求められているようです。キャラクターの絵がきれいならキャラ目当てのファンにはビデオソフトが売れるだろうと見込んでの、メーカーサイドからの要求からでしょうが、一方で作画スタッフによるキャラの個性が目立たなくなってきました。
 それ以前はというと、あの『セーラームーン』でさえ只野和子作監の回と安藤浩作監の回ではキャラがまったくの別物というくらいなのが当たり前で、もっと遡ればキャラクターデザインなんて回が違うと変わってくるぐらいの作品も普通に存在していました。だからって、それがイコール作画が悪いという結論にはなりませんでした。なぜなら、キャラクターの統一や、さらにはキャラがきれいかどうかということ自体が作画の良し悪しの判断基準とはイコールじゃなかったからです。
 もちろん、昔のアニメ業界のレベルではキャラの統一自体が困難だったと言う側面もあるでしょう。でも、それ以外の部分に価値観を見付けるだけの視野の広さがあったわけです。キャラクターの動き、キャラクターの表情……それこそアニメーターが渾身を込めた表現でそれで何を視聴者に訴え掛けるかというのも、作画に求められているものなのです。そして、出崎監督はそういう作品を多く手掛けてきた人です。
 昨今のキャラの絵が統一されてる作品は、それだけが作画のすべてで終わってしまってるものも多く思います。アクションシーンなのにキャラが動かない、感情のあふれるシーンなのにキャラが決まったパターンの表情しか見せない……いくらキャラがきれいでも、こういうのを作画のいい作品とはあまり呼びたくありませんね。