前潟都窪の徒然草

折々の社会現象に対する所感、随筆、アフリエイト

消えた年金問題と政治家の発言の軽さ

2007-12-24 13:11:03 | この意見に共感


 政治家の言葉が無責任で軽すぎることを鋭く突いていて女史の所論に賛意を表したい。消えた年金問題の責任のとり方として社会保険庁職員や厚生労働大臣が年末の賞与を全額返上し、けじめをつけるということがあってもいいのではないか。



今年鬼籍に入った政治家

2007-12-24 12:36:06 | ニュース雑感
 今年鬼籍に入った政治家の中に宮沢喜一がいる。自民党政権を守り切れず野党の日本新党・細川護熙に政権を明け渡した首相であり、天皇訪中という朝貢外交の先例を残す愚挙を演出した総理でもあった。

 また宮本顕治江藤隆美藤波孝生横山ノック等黒い噂がつきまとい晩節を汚した政治家が多い。

以下はウイキペディアからの引用である。

総理大臣就任
1991年、海部首相の退陣にともなう自由民主党総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した。保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。在任中の施策としてはPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、1992年8月の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助を示唆したが、官庁や経済団体、そして金融機関自身の強い反対にあって実行に至らなかった。

折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念、1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党分裂により成立、解散して総選挙を行うも日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川護熙に政権を明け渡す。宮澤は自民党長期支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。