前潟都窪の徒然草

折々の社会現象に対する所感、随筆、アフリエイト

【変わりゆくブータン~桃源郷の今】

2011-01-24 08:56:58 | 海外旅行
2011.1.24日付けの産経新聞に【変わりゆくブータン~桃源郷の今】という記事が掲載された。筆者の紀行記を紐解き目次を作成した。

神秘の王国ブータンの旅N013・・・遊牧民の踊りと歌のビデオクリップ
神秘の王国ブータンの旅No12・・・マスクダンスのビデオクリップ
神秘の王国ブータンの旅No11・・・民族舞踊のビデオクリップをユーチューブにアップした
神秘の王国ブータンの旅No10・・・ピカサでウエブアルバムを試作
神秘の王国ブータンの旅No9・・・纏め
神秘の王国ブータンの旅No8・・・聖地タクツァン僧院
神秘の王国ブータンの旅No7・・・国是であるGNHの実現に励んでいる国
神秘の王国ブータンの旅No6・・・プナカ~ウオン デイボダン
神秘の王国ブータンの旅No5・・・ ティンプー の観光名所巡り
神秘の王国ブータンの旅No4・・・テインプーの市街
神秘の王国ブータンの旅No3・・・パロの弓場と野菜市→テインプーの宿
神秘の王国ブータンの旅No2・・・バンコク空港~パロ空港
神秘の王国ブータンの旅 ブータンの伝統建築は究極のエコロジーハウス


バングラデッシュ周遊の旅をした

2009-12-18 16:25:18 | 海外旅行
暫くこのブログの更新をさぼってしまった。旅から帰宅しても紀行記を纏めたり写真をピカサアルバムにアップしたりビデオをユーチューブへアップしたりしていたためである。



以下に簡単な概要を書いておくことにしよう。

 2009.11.21~2009.11.29の期間バングラデッシュ周遊の旅をした。入国経路は成田→クアランプール→ダッカ。主たる訪問地は
【ダッカ】ショナルガオン(イスラム、ヒンズ-)、オールドダッカ(ヒンズーの廃墟)、ショドルガート。【フルタラ村】グラミン組織の民家訪問
【クルナ】シュンドルボン国立公園、バーゲルハットのイスラム教史跡、【ラジシャヒ】ラロン聖者廟、ヒンズー教遺跡、【プティア】ヒンズー教寺院群、
【ラングプール】カンタナガールのヒンズー教寺院、【ボグラ】バハルプールの仏教遺跡、マハスターンの仏教遺跡、【タンガイル】紡織工場。

 28日がバングラデッシュの年一回の祭日(牛祭り)にあたるため満員バスの屋根上にまで乗客を満載した帰省ラッシュの光景と道端で牛をし解体する光景を至る所で目撃した。同行者男9名、女4名。主催者は西遊旅行。

 この日の成田空港は異常な混雑であった。イスラム圏の国へ帰国するモスリム達が多いせいである。
 メッカのハッジの日が11月27日であり、バングラデッシュでは28日が大祭礼なのでこの日に照準を併せて帰省するモスリム達が多い。






38度線で聞いた銃声・・・北朝鮮から引き揚げの旅

2009-10-02 15:48:48 | 海外旅行
学生時代の友人から北朝鮮鎮南浦の地図の写しと日本鉱業の鎮南浦製錬所の巨大煙突の写真コピーを貰った。



大東亜戦争前に鎮南浦で生活した人々の親睦会で入手したのだという。

父が日本鉱業の鎮南浦製錬所



で分析技師をしていた筆者は鎮南浦で出生し、敗戦の8月15日には小学1年生であったが大煙突のことは
よく知っていたのでとても懐かしく思った。また地図には筆者が産声を上げた道立病院の位置



も記されており、感慨一入であった。

と同時に思い出すのは38度線を突破して父祖の国日本へ引き上げるための逃避行の苦しい旅のことである。

父は出征していた。銃後には7才の筆者を頭に4才と1才の二人の幼女が残され食料難の中を母は悪戦苦闘していた。

内地への引き揚げは子供3人を引き連れて母子4人が38度線を突破しての難儀な逃避行であった。
敗戦の日から引き揚げ決行の日までの一年強の期間は敗戦国民として祖国へ帰還することのみを待ち続ける忍従の竹の子生活であった。

経路は鎮南浦港から船で大同江を渡り対岸の村へ。船を降りてからは南北国境の38度線まで山野を野宿しながらの徒歩。
38度線越境、米軍のジープで開城のテント村へ収容、仁川のテント村へ米軍のジープで移動し収容。仁川港から貨物船で佐世保港へ、
佐世保港より国鉄線を乗り継いで郷里へ。

昭和21年10月20日に父母の故郷である岡山県の早島町へ母子4人が生還することによって引き揚げの旅は終了した。

この時の様子は自分史の一節に以下のように記録している。

自分史の骨格5・・・38度線で聞いた銃声 早島 潮
                                
国境近くに来た時は警戒も厳しくなり、夜陰に乗じてこれを突破することになった。
昼間山中で仮眠し、暗くなってから腰までつかる浅瀬の川をじゃぶじゃぶ歩いて渡った。
このとき私は母親と妹からはぐれてしまったが、隊列から離れないでついて行けば、家族にはまた会えると必死で衰弱した体で足を滑らせながら浅瀬を渡った。このあと、続けて三十八度線の国境を渡った。この時も私一人で母達の所在は不明であった。
国境警備兵が威嚇射撃をしたため、その銃声は国境突破の一行に悲壮感を与えるのに効果充分であった。

 私が母や妹とはぐれたのは、突然聞こえた銃声が原因となった。
「川を渡ったり、国境を越えるときには、遅れないように、大人の男の人の後について歩くんですよ。和子は母さんが、手を引いていきますからね」
と母が言っていたので、私は知り合いの後藤さんの小父さんの後ろについて、一生懸命歩いた。

そこへ威嚇射撃ではあったが、銃声が聞こえて隊列が乱れ蜘蛛の子を散らすように、岩陰へ隠れるグループや構わずにどんどん行進を続ける
グループとに分かれたのである。私がついて行った後藤さんは行進派だったので私も後藤さんの後ろについてどんどん歩いた。ところが、一時岩陰に身を寄せた母は私達のグループから遅れをとったという次第である。

 国境を無事突破して、小休止したとき母と妹に再会した。私はあまり心配していなかったが、母の方は私の体がマラリヤのために衰弱しているので、私が、皆から落伍してしまったのではないかと、私の顔をみるまでは心配で心配でたまらなかったそうである。

母はこのとき私を日本へ連れて帰れないかもしれないと覚悟したと後に述懐している。

 後年今は亡き母の法事でその時の様子を妹の和子が語って聞かせてくれたが、髪を振り乱して「たかしはおらんか。たかし返事をしなさい」
と発狂したようにあちこち人混みの中を駆けずり廻っていたという。年配の人になだめられて漸く、隊列に戻ったらしい。 

 国境を越えてからの旅は恵まれていた。米軍のジープやトラックが国境線近くに待ちうけていて、次々に開城のテント村まで運んでくれた。
テント村に入る前に頭からDDTをふりかけられて体中真っ白になった。このテント村には一週間抑留された。
テント村は北朝鮮から脱出してくる日本人引き揚げ者を船便の手配が出来るまで収容しておく米軍経営の難民キャンプであった。

 アルマイト製の食器を与えられ、朝、昼、晩と決まった時間に給食があったが、とうもろこしのスープに大根の切れ端や葉っぱが申し訳程度に浮いている粗末なものであった。ほかにも食べ物が支給されたのかもしれないが、私の記憶に残っているのはとうもろこしのスープだけであった。

私達一家は女子供だけの家族であったから、荷物が少なく鎮南浦を出るとき用意した干し飯や煎り豆などの食料は食べ尽くしていたので、給食を有り難く食べるしか術がなかった。しかし、男手のある家族は米や豆をまだ持っており、携帯した飯盒で炊いて美味しそうに食べていた。
それを遠くから羨ましそうに眺めているだけであった。 いじましい話だが、米を持っているグループが座っていた場所の筵の目の中にこぼれて入り込んでいる米粒を叩き出して、二粒、三粒の生米をかじったこともある。

 七日間のテント生活は、殆ど雨に降られたため、テントに閉じ込められて生活したように思う。鎮南浦出発以来、入浴していないうえ、野宿したり、川を渡ったりしたので、着衣は垢と汗で臭くなっており、DDTで入村時に消毒されたにもかかわらず、腰のバンドの下に虱がわいたのを覚えている。

テント生活の中では夜になると、退屈凌ぎに歌合戦をしようと提案する人があり、順番に一家族ずつ得意の歌を披露することになった。

お国自慢の民謡や小学唱歌が多かったが軍歌を勇ましく歌う人もいた。我が家の番が廻ってきたときには、私が小学唱歌の子馬の歌を音程を外して歌い、背筋に冷汗をかいた。何才になっても歌を歌うことだけは苦手である。戦時中に音楽は「ドレミファ」ではなく「ハニホヘト」で教えられ、感受性の強い時期に音楽的な環境に縁遠い生活を余儀なくされていたせいであると自らを慰めている。それにしても、歌が人前で物怖じせずに歌える人が羨ましく思える今日この頃である。

 藤原ていさんの著作「流れる星は生きていた」に比べると私達の国境までの逃避行はまだ、恵まれていた方である。日本鉱業の従業員とその家族を主体としたグループであったから、比較的統制のとれた行動ができたせいか、道中、無法者に略奪暴行されたり、婦女子が凌辱を受けるという悲劇もなく落伍した一家族を除いては、全員無事に国境を越えることができた。朝鮮人の中にも親切な人はいるもので、田舎道で空き馬車を引いていた
「アボジ」が、子供達や荷物を荷台へ乗せて二里程の道のりを無報酬で運んで呉れるということもあった。

我々引き揚げ者のグループが何人いたのか正確には覚えていないが、現在薄れかけた記憶を辿って当時の隊列を思い出してみると四~五百人の人数だったのではないかという気がする。

国境線で落伍した児玉さん一家は丁度我が家と同じような家族構成で、若い母親が三人の幼小児をひきつれていた。

逃避行という異常な状況の中では誰しも自分のことだけで精一杯になり、落伍しそうな家族があっても、せいぜい声をかけて励ます程度のことしか出来ず、悲しく情けない思いをしたのは、私だけではなかったであろう。児玉さん一家もこのときは落伍したが、何か月か後には無事内地までたどりついたという噂を聞いた。

「児玉さんが、落伍したときには、どんなことがあっても、子供達だけは無事内地へ送り届けなくてはならない」と内心決意を新たにしたと後日、母は述懐しているし、内地へ先に復員していた父は、「多分一番下の信子は生還しないであろうと思っていた」と漏らしたことがある。

また、母は私の家内にも晩年、何も財産らしいものは残せなかったが、3人の幼子を誰一人欠けることなく日本へ連れて帰って来たことが母の誇りであるし母の無形の財産であると語ったということである。

 開城のテント村から仁川のテント村への移動も米軍のジープとトラックで行われた。
威嚇射撃をしたり、賄賂を要求する「ロ助」と比較すれば、さらに七日間の徒歩による逃避行のことを思えば、乗り物に乗せて内地へ確実に一歩ずつ近付けて呉れる米軍はまさに地獄に仏の存在であった。

開城から仁川へ向かうトラックを運転していた兵士は黒人で、チューインガムをむしゃむしゃ噛んでいる唇の合間に見える白い歯が、非常に印象的であった。また仁川のキャンプ村へ近付いたとき、通り抜けた茶色い切り通しの崖のうえに仰いだ、雲一つない青空は私の人生の中で感じた最も美しい色の一つであった。

港の海面も太陽に眩しいばかりに輝いており、紺碧の色は苦難を乗り越えて、父祖の国へ確実に近付いている引き揚げ者の明るい気持ちを象徴しているようであった。

 後日、機会があって韓国旅行のとき自由時間に仁川の港を訪問したことがあるが、生憎くの雨で海の色はどす黒く沈んでおり、切り通しの崖も見出すことが出来なかった。

 仁川でもまずDDTの洗礼を受けてからテント村へ入った。ここでは三日間の短い日数であったから、記憶に残る思い出はない。

 停泊中の貨物船に乗り込んで佐世保の港まで玄界灘の荒波に悩まされながらも、一行の気持ちだけは寛いでいた。
しかし、引き揚げ船の中で片桐さんの生後三、四か月の嬰児が栄養失調が原因で死亡するという悲しい出来事があった。
苦しい逃避行の中でもそれまで死者はなかったのに、祖国を目前にしてついに犠牲者が出てしまった。
貨物船の薄暗い船底でお経をあげ、水葬にするという侘しくも悲しい弔いであった。

 佐世保港へついてからも直ちに上陸が許された訳ではない。検疫のため、肛門に注射器ようのものを挿入されて便を採られた。
さらにDDTで消毒されたので、下船までには随分時間がかかった。やっと踏みしめた祖国の大地であった。
このあと港の倉庫で引き揚げ列車の順番を待ったり、帰国手続きのために一晩をあかすことになった。貨物船も狭い場所へ大勢の人がごろ寝をしたが、体を横にして手足を伸ばすだけの場所はあった。ところが、上陸したとはいえ、一晩を過ごした倉庫の中は手狭で、横になるだけのスペースがないため、床に腰を降ろして立て膝をしたまま仮眠するのがやっとの状態であった。積み重ねたリュックサックに背中をもたせかけて、立て膝を両手で抱えこんだ姿で鼾をかきながら一行は、安堵の夢を結んだのである。

 港から倉庫へ移動するとき、妹の和子が風邪をひいて咳込み、苦しがっているので、私が背中を叩いてやったが、なかなか直らず、ぜーぜー咳をしながら泣きじゃくっていた姿が強く頭に焼き付いていて忘れられない。

 厚生省の援護局から内地の紙幣を支給されて、佐世保駅から上り列車にやっと乗り込むことが出来た。博多の駅や下関の駅につくごとに、土地の婦人会の人達が湯茶の接待をして下さっり、「長い道中、御苦労様でした」とねぎらいの言葉をかけて下さったので、やはり祖国はいいなとしみじみ思ったものである。

 引き揚げ列車であったから、佐世保の駅を発車したときには乗客は引き揚げ者ばかりであったが、着く駅ごとに引き揚げ者は少なくなり、一般の乗客が乗りこんできた。一目で引き揚げ者と分かるので、いろいろ話かけてくる人もあり、話を聞いて涙ぐむ老婆もあった。

途中の駅で駅弁を売っているところがあり、早速母が支給されたばかりの内地の紙幣でこれを求めた。中身は稲荷寿司なので、久し振りに御馳走が食べられると喜んで、かぶりついたところが、油揚げの下からでてきたのはお酢のよくきかせてある「おから」であった。
内地だから、稲荷寿司には当然米の飯が使われているものと早合点した私達のほうに内地の経済事情についての認識不足があった。

 爆撃を受けて、生産施設に壊滅的な打撃を受けた日本の経済はまだ復興の緒についたばかりの段階で、米の配給制度は厳然として行われており、駅で売られる弁当に米が使われるような状態ではなかったのである。そのときやはり内地も敗戦国の苦しみを味わっているんだなということを認識した。

 宇野線の早島駅に昭和二十一年十月二十一日未明に到着し駅前で畳表や茣座の卸問屋を営んでいる母方の伯母(母の実姉)宅へ辿りつき、苦しかった北朝鮮鎮南浦からの引き揚げは終わったのである。この日は早島の秋祭りの日であった。母子四人が無事生還できたのは、ひとえに母の頑張りのおかげである。このあと栄養失調に陥っていた母子四人は一か月程の静養の後、健康を取り戻したのである。 


 

チベット・ラサは今

2009-09-24 10:10:18 | 海外旅行
チベット・ラサは今no1.
チベット・ラサは今no2.



写真は青蔵鉄道車両内に掲出される走行地点の海抜である。

産経新聞2009.9.22付けの表記記事に触発されて思い出したことが二つある。

その一つは青蔵鉄道でチベットへ流入する漢民族の乗客達の傍若無人な振る舞いとマナーの悪さである。

二つ目にはチベットの独自の伝統文化とダライラマを渇仰する宗教心の篤さは中国共産党政権の意図に反して弾圧されればされる程強固になるであろうという思いである。

その一つについては青蔵鉄道試乗記に以下の如く感想を記述している。


平成19年5月22日(火)                
 今日は今回の旅行の目玉である青蔵鉄道でゴルムドからラサまで1142kmを駆け抜ける列車の旅である。
まだ暗い中をゴルムドの駅に到着すると駅舎の中では撮影禁止だと言う。添乗員の説明では写真撮影可能と聞いていたのでがっかりする。見渡しても撮影禁止の標識はどこにも見当たらない。
 制服制帽に身を包んだ駅舎係員の気分で今日は撮影禁止にしたのではないかとの疑念が湧いてくる。公務員の権威主義を見る思いであった。

7時13分に到着した電車は7時33分には発車した。ポーターの若い男性3人が汗を流しながらスーツケースを運び込み昇降口のあいた空間に24個の荷物を積み重ねてくれたので助かった。
 硬座の指定席なのに我々の座席の上の網棚は大きな荷物で占領されており手荷物を置く隙間もない。
それでも現地ガイドのペルマさんが喧嘩腰で目にあまる大きな荷物を三個程移動してくれたので手荷物をやっと網棚に乗せることができた。

列車が発車すると給湯室へ水筒やカップラーメンを手にした現地人乗客たちの往来がひっきりなしに始まる。        
 窓側の席には小さなテーブルが設置されているがここもカップラーメンの容器や水筒で占領され尽くしていて、外国人は使用できない。
 更に手洗いに行くために隣の車両を通り抜けようとすると勇気がいる。座席に寝転んで足を投げ出しているものや通路に足を投げ出して平然としている。しかも向日葵の種やその他の種類の皮を所構わず吹き捨てるのである。
 公共施設を利用するマナーが全然できていない。中国人民の公徳心の欠如にはほとほと驚かされてしまった。こんな状態で北京オリンピックが開催できるのであろうか。出発して暫くは窓の外の景色はかすんでおり、残念ながら玉珠峰(6178m)や崑崙山脈や崑崙峠(4767m)はかすんでいてはっきり目撃できなかった。
それでも午後からは雲一つない紺碧の空が現れ名も判らぬ山々を隋所に見ることができた。
まだ雪の残っている荒野や砂漠を駆けぬけながら、夕闇迫る頃電車はラサ駅に滑り込んで15時間に及ぶ青蔵鉄道の旅は終わった。
この間食堂車で昼と夕と二回の食事を摂ったが、時間帯を予め決められた予約制になっており、追い立てられるようにして食べる食事は美味しいものではなかった。

この列車の印象はもう二度と乗りたくはないとの一言に尽きる。

二つ目については次の三個のURLで記述し掲載している写真にみられる民衆の篤い宗教心である。


掲載した写真に見られる如くお寺に参集した善男善女の宗教心には篤いものが窺われる。

 ポタラ宮の観光は1日2300人(グループ1800人+個人と信者500人)に制限されており見学時間も当局の指定した時間内で終了しなければならないからこの機会を逃したら二度と見学することが出来ないと言う思いも心に拍車をかけた。
ガイドの話によれば入場券を闇で販売するダフ屋も横行しているらしい。
 ポタラ宮に入場して先ず驚いたのは顔を覆面で隠し、杖を片手にお題目を唱えながら小刻みに動いている現地人信者の集団である。
そこには宗教的な熱気のようなものが迸りでていた。   

 チベットは様式文化の国であり個性の発揮は疎んじられる。タンカの制作は定められた通りの形状に定められた通りの描法で描かなければならない。
 チベットに伝えられるタンカ等の芸術的な名作には作者の署名がないので誰が作成したものか不明のものが沢山ある。
 個性が疎んじられるからチベットには伝記が残されていない。そして墓がない。
 遺体は鳥葬に付され骨は土に混ぜて土偶にし峠などに放置され土に返るのを待つことが多い。
 遺体は川に流されることもあるので、魚は遺体を食べていると信じており魚を食べることを嫌う人が多い。
 空気が乾燥しているので入浴の習慣がない。
 中国政府はチベット人民を奴隷社会から解放したと宣伝するがチベット人の本心は政治・宗教の権限を持つダライ・ラマ制度の復活を心密かに待ち望んでいる。 



2009.9.14の産経新聞にグルジアの記事が掲載された。

2009-09-16 07:38:00 | 海外旅行
2009.9.14の産経新聞にグルジアの記事が掲載された。この国へは2年前に訪問している。観光旅行なので観光地を訪問するだけでこの記事のような一般市民の内情にまで立ち入ることはできなかった。グルジア訪問の旅日記には以下のように記述されていた。

 グルジア最後の日はマーケットを見学してから国立博物館を見学した。マーケットには庶民の生活振りを窺わせる生活物資が並んでいる。野菜、果物、肉、魚などの生鮮食品が豊富に並んでいて買出しの人や納入の商人達で賑わい喧騒を極めていた。そこにはソ連時代の統制経済から市場原理経済に移行して自由な経済活動の恩恵を享受している庶民の素顔を見る思いがした。

 道路を隔てた対面にも中国人の経営するマーケットがあったがこちらは閑散としていた。何故そうなるのか理由はわからないが面白い現象である。マーケット内を一巡すると買いたいものがあるわけでもないので与えられた自由時間を持て余してしまう。 

 次に見学した国立博物館には考古学的な発掘物が展示されていたが特筆に価するものはなかった。強いて言えばBC7世紀~BC5世紀の頃の墓地から発掘された貴婦人の装飾品の金細工と前3世紀の馬の飾り物であろうか。撮影は禁止されていた。 

 テレビ塔のある丘からトビリシ市内を展望した。遠くにコーカサスの山々がかすんで見えていた。

   

2009.9.14産経新聞の記事1
2009.9.14産経新聞の記事2





アルメニアの旅の追憶

2009-09-02 10:55:11 | 海外旅行
2009.9.2付けの産経新聞にトルコとアルメニアが国交を回復するという記事が載った。
コーカサス三国を旅したのは2007.4.1~4.9であった。アルメニアの首都エレバンでは虐殺記念館も訪問しその惨劇の記録写真や物証の展示物に胸の潰れる思いをしながら見学した記憶が蘇った。
アルメニア訪問の旅日記を繙いてみたが大虐殺については記述していなかった。

トルコ人によるアルメニア人の大虐殺の詳細はウイキペデイアに記録されている。






ヨセミテフォール

2009-08-29 05:46:20 | 海外旅行
アメリカは規模の大きな国であることが今更のように実感できる。グランドキャニオンを飛行機の上から見学したり、砂漠に作り上げた歓楽街ラスベガスの不夜城に驚いたりした旅はヨセミテ国立公園の見学で終わった。当時の旅日記を繙いてみたら以下のように記述していた。


ヨセミテとはインディアン語で灰色熊という意味である。ここには年間300万人が観光に訪れるそうだ。樹齢2000年のセコニアの木が枯れるので電気自動車での観光を検討中であるという。

広大な公園の山中を走行中、山火事にあった一角を通り過ぎた。相当広範囲に焼け焦げた立木が並んでいた。この山火事の時には延焼防止対策だけで消火活動は一切せず、自然鎮火に任せたという。いかにも広大な国土を保有しているアメリカならではのおおらかな発想だと感心した。

切り立った断崖エルキャプテン、ハーフードームや女性的な滝ブライダルフォール、雄大かつ豪快な滝ヨセミテフォール等を見学。コヨーテを見ることもできた。高原のせいかとても涼しく空気が爽やかである。それに木々が芽を一斉に吹き出し緑が濃淡さまざまに色鮮やかであった。

ブライダルフォール
ヨセミテフォール






ブリクスダール氷河とジョスフォッセンの滝

2009-08-28 09:04:30 | 海外旅行
ノルーウエーでフィヨルドのクルージングをした時は北の最果ての地へはるばる来たものだとの思いに捕らわれた。
周囲の山々は氷河に削られて荒々しい山肌を見せている。その山肌にへばりつくように民家が只一軒建っているのを望見すると人間の意志と営為の逞しさを感じる。

氷河の水が溶けて作り出したジョスフォッセンの滝を見学した時の印象は以下のように綴っている。



ホテルから目と鼻の先の船着場から朝早く観光船に乗り込んでヘルシルト村まで約1時間のフィヨルドクルージングを楽しんだ。

スタート時は山間の朝なので日の光も乏しく何となく薄暗い感じの光景であったが船が進む程に太陽も山の上へ顔を出し、水面を碧翠色に変えていく。

切り立った崖の岩肌を洗うように流れ落ちる滝も幾条か目にはいる。

そうこうしているうちに切り立った断崖絶壁の僅かな空間にへばりつくようにして民家が一戸建っているのが目に入った。
ここで農業を営んでいるのだという。よくもこんな厳しい環境条件のもとで生活できるものだと人間の営為の素晴らしさを知る思いである。

次々に変わっていく景色に見とれているうちにあっという間に一時間のクルージングは終わってしまった。

ヘルシルト村から再びバスに乗りブリクスダール村までやってきた。氷河を見学するためである。

ブリクスダールからはフィヨルドポニーの曳く馬車に乗って登り道を約15分間走行すると、氷の巨大な固まりが山になっている所へ到着した。

ブリクスダール氷河の河口である。河口へ至るまでの道の周囲には樹木や草も青々と繁っている。そして氷河から溶けて流れる川が近くには白い飛沫を上げながら流れている。段差のある箇所ではこれが滝となってその雄姿を誇らしげに顕示して水しぶきを雨の如くふりまいている。

氷河の河口には山頂から流れてきた氷塊が5~6メートルもの高さでうすら青い色を帯びて白色の天然の造形美を見せながら堆積している。一見テープがカールしたかの如き断面を見せているところもある。

我々が見学したブリクスダールの氷河はこの時期には活動しておらず、静止した状態で氷塊となっている河口を見学することができた。ブリクスダール氷河は海抜436メートルのところにある長さ100キロメートル厚さ100メートルにも及ぶヨステルダール渓谷の氷河から流れてきた支流である。



この町で二時間近く時間待ちをしてからミュルダール経由オスロ行きの電車に乗った。車両の横幅が多少広いのか座席は横に五人腰掛けられるようになっている。列車には三つの大きな団体客が競合したが全て日本人であった。

車窓には白樺、から松、樅などの木立が続いていて、時々岩肌を滑るように流れ落ちる滝を散見できる。

また線路に迫っている岩山には岩石の崩落の跡が認められその下には明らかに崩落したと思われる岩石が堆積している。

屋根に草を生やした平屋の木造建築もちらほらと見え隠れする。
トンネルを幾つか通り抜けると途中Kジョスフォッセンの滝の見える所では停車して乗客に写真撮影の時間を与えてくれる。

駅ではないがプラットフォームが設けられていて下車撮影が可能なのである。
乗り継ぎ駅のミュールダールでは再び時間待ちをしてボス行きの電車に乗った。

フィヨルドクルージング
ブリクスダール氷河
ジョスフォッセンの滝






トムソンフォール

2009-08-27 08:46:16 | 海外旅行
ケニアへ野生動物を見に行ってから既に約10年が経過した。野生動物の生態を観察しながら草原を四輪駆動の車で駆け巡った頃が懐かしい。
トムソンフォールを見学した時、執拗に民芸品を買って欲しいと迫ってきた赤い衣服を纏った若い女性の逞しい商魂を思い出した。




 結局このロッジで観察した動物は象、ブッシュバック、バッファロー、ぶちハイエナ、犀、狒(バブーン)、いぼ猪、ジャッカル等である。


 七時五十分に出発して途中ニャフルルのトムソンフォールを見学した。あまり大きな滝とは思えなかったが東アフリカでは最大で中央アフリカではビクトリヤフォールズに次いで二番目の大きさであるという。

 ここでは、全身に真っ赤な衣装を纏った女が馴れ馴れしげに話しかけてきて、石彫りの動物像を売りつけようとつき纏うので閉口した。一般にアフリカの売り子達は客の気持ちを考えないで、ただひたすら強引に売りつけようとするから敬遠されて、客は終には品物を見ようともしなくなるということ等は意に介さない。つかず離れずという売り子とお客の間に発生すべき心理的な関係の機微にまでは考えが及ばないようである。

トムソンフォール






ヴイクトリアの滝

2009-08-26 05:38:41 | 海外旅行
  少年時代にリビングストン探検記を夢中で読んだ記憶がある。当時は終戦間もないこともあって、日本人が外国へ観光旅行するなどとは思いもよらぬ時代であった。
 憧れの探検家リビングストンの足跡が残るヴイクトリアの滝の畔に立っている自分を思い感無量であった。ヴイクトリアの滝の見聞記は以下のように綴られていた。
 

 時間がきてヴイクトリアの滝を見学に出かけた。ここの滝は対岸の道路から眺めるロケーションになっており、見晴らしのよい所に何カ所も観瀑台が設けられているが滝壺の近くまで船で出かけて観察するという仕掛けはなかった。船を浮かべるような池そのものが形成されておらず流れの早い川が谷底深いところに流れているだけなので無理からぬ話である。滝は専ら対岸の通路から眺めるしかない。

 この滝のある川はザンベジ川でアンゴラの奥地に水源を発っし、ザンビア西部を縦断してから、ジンバブエとザンビアの国境線を形成して、その後モザンビーク海峡、インド洋へと注いでいる。滝の最大幅はおよそ1700mあり最大落差は108 mである。
ヴィューポイントは、デビルズ・キャタラクト、メイン・フォールズ、ホースシュー・フォールズ、レインボー・キャタラクト、アームチェァー・フォールズ、イースタン・キャタラクトの6個のパートに分かれている。

 これらのヴィューポイントの観瀑台はそれぞれ光景の異なった滝が観察出来るように設置されている。端から順番に約2時間かけて滝を見物しながら歩いた。今は乾期にあたり滝の水量が少なく岩肌を露出している個所もあったし、滝自体が幾条もの流れに分かれて落下していた。 

 リビングストンが木の刳り抜き舟で渡ったというリビングストンアイランドは鬱蒼とした木々に覆われていてその横を滝が流れ落ちていた。

ヴイクトリアの滝No1
ヴイクトリアの滝No2
ヴイクトリアの滝No3
ヴイクトリアの滝No4