↓一人でも多くの方にモラハラを知っていただきたくて、リンクを貼りました。
5月2日の出来事について、鮮明に思い出そうと思って、2年前の記事をめくってみた。
2005年5月3日桜の木の下でという記事である。
当時の私は、この記事で、次のように離婚届の提出を語っている。
「その日は、さわやかによく晴れていた。
相手方弁護士を通じて、当方弁護士に渡された離婚届には
見慣れた夫の筆跡と、ずっと私が預かっていた印鑑の、印が押してあった。
A型の夫が、右手にティッシュを持って、手帳を下敷きにして
その印を押したのだろうと、ふと連想した。
こんな風に、時折、いらないときにいらないはずの情報が脳裏に蘇る。
その日は、極めて当たり前に始まった。
子供達に朝食を急いで摂らせて、息子を送り出し、娘を保育園に連れて行った。
そのまま車を走らせて、夫と住んでいた隣町の市役所へ行く。
何も余計なことは考えまいと思っていた私は、ipodを聞きながら車を走らせた。
いつもより大きな音で、音楽に聴き入ろうとしていた。
選んだわけではなく、鬼束ちひろが流れていた。
「市役所へいく」ことしか頭になかった。
他の事は考えられなかったし、他の音は聞こえなかった。
市役所へ到着した。
市役所の入り口には守衛室と、隣に駐車場の案内係のブースが設置されている。
その守衛室の横に、夜間の諸届け受付専用ポストがあって、
それは、邪魔になるほどの大きさの桜の木の下に設置されていた。
夫は桜が大好きで、桜の写真集まで持っていた。
だから、桜の季節に結婚したかったらしい。
8年と1ヶ月前にここで「婚姻届」を二人揃って出したとき、
この桜の木の下で、満開の桜の下で、夫と記念写真を撮影した。
二人が夫婦になった証の戸籍を、二人で持って、
守衛のおじさんにシャッターを押してもらった。
一生残る写真だからと、カメラ目線の作り笑顔の私に対して、
夫は、顔中をくちゃくちゃにして、こぼれそうな満面の笑みを浮かべていた。
のちに、「嬉しそう過ぎ」と、その写真をネタにふたり随分笑ったもんだった。
また、いらないときにいらないはずの情報が蘇るもんだなぁと思った。
階段を10段上がって、役所の窓口に着いた。
ここには、住民登録をしに来たし、
私が産後に実家でお世話になっている間に、
夫が「出生届」を出しに来たし、
4通の母子手帳ももらいに来た、よくお世話になった市役所だった。
それももう、最後なのだろうと思った。
連休の中日だからか、窓口はなかなかに混んでいた。
私の横の人は、出生届を出しに来ていたし、
死亡届を出しに来ている夫婦もいた。
皆がざわざわする中、私のところだけ時がとまったように静寂に包まれているような気がした。
離婚届を裸で持ってきたことを後悔した。封筒かなんかに入れてくればよかったと思った。
きっと私は離婚届を持って、ひどい顔をしていただろう。
「106番の方」と呼ばれて、窓口に行って、離婚届と自分の印を差し出した。
窓口の方は極めて事務的に、
「奥さんの方は、元の籍に戻られますか?」と聞いたので
「あ、新しい戸籍を作るでお願いします。」と言った。
「それでは、どこでもいいので、戸籍の住所を置きたいところをここに記入してください。」
と言われ、その通りにした。
私は旧姓に戻すことに決めていたが、子供達の姓については決めかねていたので
その旨を話すと、
「あ、それはいつでも大丈夫なので、変える場合だけこの書類に書いてある通りにしてください。」
淡々と事務手続きが進む。
「身分証明書になるものをお持ちでしょうか」と言われ、免許証を出す。
今住んでいる役所に電話してもいいかと問われ、いいですよと言う。
「ご主人の方には、離婚届の通知がハガキで届きますから」と言われる。
「それでは手続きが完了しました」と言われ、弁護士に報告したいから
「あの、届出の完了した証明なんかはもらえますか」と尋ねると
「受理証明が上げられますから、この申し込み書に記入して①番でお待ち下さい。」
と言われた。
①番に座って待っていると、8年と数ヶ月ぶりに、旧姓のフルネームで名前が呼ばれた。
「はい・・・」と言いつつフラフラと立ち上がり、200円を支払い、受理証明をもらった。
「離婚届の受理証明書ですね」やけに大声で、窓口の男性が言ったので、
もう少し小さい声で言ってくれたらいいのにと思った。
その書類をふと見ると、夫の籍から、除籍という形で、私の籍が抜かれていた。
しっかり見る気にもならずに、窓口の横にあった封筒に押し込み、
早々とその場を立ち去った。
旧姓で呼ばれたことで、離婚をはっきりと意識した。
8年間ずっと名乗った夫の姓と、こんな数分で決別したことに
戸惑いを感じていた。
旧姓は懐かしいような、古臭いような気がした。
先ほど呆然と上がった階段をまた呆然と10段下りた。
あの桜の木の前で、足が止まった。
今はもちろん桜は咲いていないが
8年前の、ここに立っていた私達の姿を、
鮮明に思い出してしまった。
ここから、二人で始めた生活。
ここから、二人で始めた人生。
あの時は二人とも幸せ一杯で、希望に満ちていた。
いつも手を繋いで、同じ歌を聞き、同じ歌を歌い、
会社に一緒に出社して、一緒に退社していた。
あまり仲が良すぎるので、上司から、一緒に通勤するのはやめるように言われたほどだった。
二人で望んでいた赤ちゃんがすぐに出来、私は13年勤めた会社を退職して、
長男を出産した。長男が1歳の時、長女を身ごもった。
元気でかわいい子供達は、すくすくと成長したし、
私も含めて義父母にも愛されて、隣人にも愛された。
大きな中古の一戸建てを購入し、北欧の輸入住宅調にリフォームした。
「結婚って幸せよ、結婚ていいものよ。誰もあえて言わないだけで。」
その頃私は妹に頻繁にそう言っていたらしい。
どこで何が狂ったのだろう。
何が悪かったのだろう。
どうして、こんな風になってしまったんだろう。
いつまでも木を見上げていてはおかしいので
車に乗って、ゆっくりとエンジンをかけて、駐車場を出た。
悲しいわけではなく、辛いわけではなく、悔しいわけでもなく
ただ、突然大粒の涙があとからあとから瞳から溢れ出た。
涙がポタポタポタポタ落ちた。
決して、こうしたかったのではない。
これしかなかったのだ。
他に道がなかったから、こうしたのだけれど
どうして私はこんなに泣いているのだろう。
市民センターの前を通った。
夫の上の師範をしていた先生が、市からスポーツ貢献賞として表彰された会場で、
私は夫とともに出席していた。
師範、先生、門弟代表も含めた写真撮影のとき、夫が珍しく私の肩を抱き、
「俺の表彰の時もこうして映してもらおうな」と笑った。
これもいらない記憶だと思った。今日を限りに捨ててしまおう。
果せなかった約束は、この限りではない、
二人の、家族の、あったはずの未来をどれだけホゴにしただろう。
説明のできない涙が大量にこぼれたけれど
自分が泣いている理由に、これという理由は見つからず
また追求できる気分でもなかったから、
ただ流れるに任せていた。
そのうち止まるだろうと思いながら、車を走らせた。
声を上げて、泣いた。
鼻をかみかみ、運転した。
窓口で椅子にかけて待っていたとき
8年と1ヶ月だと何日だろうと、携帯についている電卓で計算した。
おおよそ2950日、夫婦だったんだなぁと思った。
別れを切り出した私でこんなに辛いのだから
世の中の離婚を切り出された方というのはもっと辛いだろうなぁと思った。
そしてふと、長い間想わないようにしていた夫を想った。
ハガキを受け取ったら、夫はどう感じるだろうと思った。
私にとっては辛いことのいっぱいあった結婚生活だったけれど
2950日もの日々、妻で居させてくれてありがとうと思った。
結果は失敗に終わったけれど、「妻」という経験ができて、
有意義だったし嬉しかったし、楽しかった。
それに確かに心の底から「幸せ」と感じた日々があったから、それに対して
ありがとう、と思った。
人生の多くの出会いの中で、縁があって2950日も夫婦でいたのだから
どうか、元気で、少しでも幸せで居て欲しいと思った。
私は夫を愛していた。
カッターシャツにアイロンをあてるとき、
夕飯の支度をするとき、
ヘインズのTシャツを畳むとき、
部屋の掃除をするときもいつも
夫を慕い、愛していた。
子供の世話をしながら
公園でママ友と愚痴を並べたりしながら
義父母と夕飯を共にしながら
夫の愛した車を手洗い洗車しながら
夫を思い、愛していた。
人生を賭けた片思いが、今幕を閉じる。
人生を賭けた大失恋だから、泣いているのかもしれない。
鬼束ちひろの「月光」が流れた。
「こんなもののために生まれたんじゃない。」繰り返されるこのフレーズに
自分の人生を重ねた。
私は、モラ母から逃れて、モラ夫と一緒になった。
育った「家庭」、自ら作った「家庭」の中で、いずれも理不尽な多くの傷を負って来た。
でも、私は、愛する人に傷つけられるために生まれたんじゃない。
だから、母から夫から、離れた。
離れるしかなかった。
別れるしか、なかった。
忘れるしか、なかった。
考えるのはやめて、涙を流し続けた。
早くたくさん出せば早く忘れられると思った。」
ずいぶん悩んだけれど、
離婚届の頃の当時の自分の感情について、
修正加筆するのも変だと思ったので
このまま掲載することにした。
あれから2年が経過し、
この離婚に関し、当時と全然違う感情を抱いている自分が居る。
でもあの日の私は、とにかく悲しかったし、
考えられないぐらい泣いた。頭が痛くなるほど泣いた。
離婚は、何かを達成したお祝いでもなんでもなくて、
誰かを自分の中で失った、お葬式のようなものだと当時の私は語っているが
まさにそのとおりだと思った。
経験しなければわからないものである。
離婚は、そんなに嬉しいものでもめでたいものでもなく、
ただ莫大な喪失感と絶望感、もう一人なんだという孤独感、
そしてこれからどうやって生きていこうという不安感、
それらのネガティブな感情にどっと苛まれるものだと思う。
ふっきれてせいせいして嬉しくて前を向ける人も中には居るが
私はそんな強さを持ち合わせていなかった。
結婚がゴールではなくスタートであるように、
離婚もゴールではなく、単なるスタートに過ぎなかった。
同じスタートでも離婚は、皆が応援してくれて祝福してくれた、
8年前の、うれしく華々しいスタートとは違い、
たった一人、幼い子供たち二人の手を引いて、
誰にも知られずにただひっそりと旧姓に戻り、
泣きながら迎えたスタートだった。
↓一人でも多くの方にモラハラを知っていただきたくて、リンクを貼りました。
↓超オススメ・何度も読みたい本
5月2日の出来事について、鮮明に思い出そうと思って、2年前の記事をめくってみた。
2005年5月3日桜の木の下でという記事である。
当時の私は、この記事で、次のように離婚届の提出を語っている。
「その日は、さわやかによく晴れていた。
相手方弁護士を通じて、当方弁護士に渡された離婚届には
見慣れた夫の筆跡と、ずっと私が預かっていた印鑑の、印が押してあった。
A型の夫が、右手にティッシュを持って、手帳を下敷きにして
その印を押したのだろうと、ふと連想した。
こんな風に、時折、いらないときにいらないはずの情報が脳裏に蘇る。
その日は、極めて当たり前に始まった。
子供達に朝食を急いで摂らせて、息子を送り出し、娘を保育園に連れて行った。
そのまま車を走らせて、夫と住んでいた隣町の市役所へ行く。
何も余計なことは考えまいと思っていた私は、ipodを聞きながら車を走らせた。
いつもより大きな音で、音楽に聴き入ろうとしていた。
選んだわけではなく、鬼束ちひろが流れていた。
「市役所へいく」ことしか頭になかった。
他の事は考えられなかったし、他の音は聞こえなかった。
市役所へ到着した。
市役所の入り口には守衛室と、隣に駐車場の案内係のブースが設置されている。
その守衛室の横に、夜間の諸届け受付専用ポストがあって、
それは、邪魔になるほどの大きさの桜の木の下に設置されていた。
夫は桜が大好きで、桜の写真集まで持っていた。
だから、桜の季節に結婚したかったらしい。
8年と1ヶ月前にここで「婚姻届」を二人揃って出したとき、
この桜の木の下で、満開の桜の下で、夫と記念写真を撮影した。
二人が夫婦になった証の戸籍を、二人で持って、
守衛のおじさんにシャッターを押してもらった。
一生残る写真だからと、カメラ目線の作り笑顔の私に対して、
夫は、顔中をくちゃくちゃにして、こぼれそうな満面の笑みを浮かべていた。
のちに、「嬉しそう過ぎ」と、その写真をネタにふたり随分笑ったもんだった。
また、いらないときにいらないはずの情報が蘇るもんだなぁと思った。
階段を10段上がって、役所の窓口に着いた。
ここには、住民登録をしに来たし、
私が産後に実家でお世話になっている間に、
夫が「出生届」を出しに来たし、
4通の母子手帳ももらいに来た、よくお世話になった市役所だった。
それももう、最後なのだろうと思った。
連休の中日だからか、窓口はなかなかに混んでいた。
私の横の人は、出生届を出しに来ていたし、
死亡届を出しに来ている夫婦もいた。
皆がざわざわする中、私のところだけ時がとまったように静寂に包まれているような気がした。
離婚届を裸で持ってきたことを後悔した。封筒かなんかに入れてくればよかったと思った。
きっと私は離婚届を持って、ひどい顔をしていただろう。
「106番の方」と呼ばれて、窓口に行って、離婚届と自分の印を差し出した。
窓口の方は極めて事務的に、
「奥さんの方は、元の籍に戻られますか?」と聞いたので
「あ、新しい戸籍を作るでお願いします。」と言った。
「それでは、どこでもいいので、戸籍の住所を置きたいところをここに記入してください。」
と言われ、その通りにした。
私は旧姓に戻すことに決めていたが、子供達の姓については決めかねていたので
その旨を話すと、
「あ、それはいつでも大丈夫なので、変える場合だけこの書類に書いてある通りにしてください。」
淡々と事務手続きが進む。
「身分証明書になるものをお持ちでしょうか」と言われ、免許証を出す。
今住んでいる役所に電話してもいいかと問われ、いいですよと言う。
「ご主人の方には、離婚届の通知がハガキで届きますから」と言われる。
「それでは手続きが完了しました」と言われ、弁護士に報告したいから
「あの、届出の完了した証明なんかはもらえますか」と尋ねると
「受理証明が上げられますから、この申し込み書に記入して①番でお待ち下さい。」
と言われた。
①番に座って待っていると、8年と数ヶ月ぶりに、旧姓のフルネームで名前が呼ばれた。
「はい・・・」と言いつつフラフラと立ち上がり、200円を支払い、受理証明をもらった。
「離婚届の受理証明書ですね」やけに大声で、窓口の男性が言ったので、
もう少し小さい声で言ってくれたらいいのにと思った。
その書類をふと見ると、夫の籍から、除籍という形で、私の籍が抜かれていた。
しっかり見る気にもならずに、窓口の横にあった封筒に押し込み、
早々とその場を立ち去った。
旧姓で呼ばれたことで、離婚をはっきりと意識した。
8年間ずっと名乗った夫の姓と、こんな数分で決別したことに
戸惑いを感じていた。
旧姓は懐かしいような、古臭いような気がした。
先ほど呆然と上がった階段をまた呆然と10段下りた。
あの桜の木の前で、足が止まった。
今はもちろん桜は咲いていないが
8年前の、ここに立っていた私達の姿を、
鮮明に思い出してしまった。
ここから、二人で始めた生活。
ここから、二人で始めた人生。
あの時は二人とも幸せ一杯で、希望に満ちていた。
いつも手を繋いで、同じ歌を聞き、同じ歌を歌い、
会社に一緒に出社して、一緒に退社していた。
あまり仲が良すぎるので、上司から、一緒に通勤するのはやめるように言われたほどだった。
二人で望んでいた赤ちゃんがすぐに出来、私は13年勤めた会社を退職して、
長男を出産した。長男が1歳の時、長女を身ごもった。
元気でかわいい子供達は、すくすくと成長したし、
私も含めて義父母にも愛されて、隣人にも愛された。
大きな中古の一戸建てを購入し、北欧の輸入住宅調にリフォームした。
「結婚って幸せよ、結婚ていいものよ。誰もあえて言わないだけで。」
その頃私は妹に頻繁にそう言っていたらしい。
どこで何が狂ったのだろう。
何が悪かったのだろう。
どうして、こんな風になってしまったんだろう。
いつまでも木を見上げていてはおかしいので
車に乗って、ゆっくりとエンジンをかけて、駐車場を出た。
悲しいわけではなく、辛いわけではなく、悔しいわけでもなく
ただ、突然大粒の涙があとからあとから瞳から溢れ出た。
涙がポタポタポタポタ落ちた。
決して、こうしたかったのではない。
これしかなかったのだ。
他に道がなかったから、こうしたのだけれど
どうして私はこんなに泣いているのだろう。
市民センターの前を通った。
夫の上の師範をしていた先生が、市からスポーツ貢献賞として表彰された会場で、
私は夫とともに出席していた。
師範、先生、門弟代表も含めた写真撮影のとき、夫が珍しく私の肩を抱き、
「俺の表彰の時もこうして映してもらおうな」と笑った。
これもいらない記憶だと思った。今日を限りに捨ててしまおう。
果せなかった約束は、この限りではない、
二人の、家族の、あったはずの未来をどれだけホゴにしただろう。
説明のできない涙が大量にこぼれたけれど
自分が泣いている理由に、これという理由は見つからず
また追求できる気分でもなかったから、
ただ流れるに任せていた。
そのうち止まるだろうと思いながら、車を走らせた。
声を上げて、泣いた。
鼻をかみかみ、運転した。
窓口で椅子にかけて待っていたとき
8年と1ヶ月だと何日だろうと、携帯についている電卓で計算した。
おおよそ2950日、夫婦だったんだなぁと思った。
別れを切り出した私でこんなに辛いのだから
世の中の離婚を切り出された方というのはもっと辛いだろうなぁと思った。
そしてふと、長い間想わないようにしていた夫を想った。
ハガキを受け取ったら、夫はどう感じるだろうと思った。
私にとっては辛いことのいっぱいあった結婚生活だったけれど
2950日もの日々、妻で居させてくれてありがとうと思った。
結果は失敗に終わったけれど、「妻」という経験ができて、
有意義だったし嬉しかったし、楽しかった。
それに確かに心の底から「幸せ」と感じた日々があったから、それに対して
ありがとう、と思った。
人生の多くの出会いの中で、縁があって2950日も夫婦でいたのだから
どうか、元気で、少しでも幸せで居て欲しいと思った。
私は夫を愛していた。
カッターシャツにアイロンをあてるとき、
夕飯の支度をするとき、
ヘインズのTシャツを畳むとき、
部屋の掃除をするときもいつも
夫を慕い、愛していた。
子供の世話をしながら
公園でママ友と愚痴を並べたりしながら
義父母と夕飯を共にしながら
夫の愛した車を手洗い洗車しながら
夫を思い、愛していた。
人生を賭けた片思いが、今幕を閉じる。
人生を賭けた大失恋だから、泣いているのかもしれない。
鬼束ちひろの「月光」が流れた。
「こんなもののために生まれたんじゃない。」繰り返されるこのフレーズに
自分の人生を重ねた。
私は、モラ母から逃れて、モラ夫と一緒になった。
育った「家庭」、自ら作った「家庭」の中で、いずれも理不尽な多くの傷を負って来た。
でも、私は、愛する人に傷つけられるために生まれたんじゃない。
だから、母から夫から、離れた。
離れるしかなかった。
別れるしか、なかった。
忘れるしか、なかった。
考えるのはやめて、涙を流し続けた。
早くたくさん出せば早く忘れられると思った。」
ずいぶん悩んだけれど、
離婚届の頃の当時の自分の感情について、
修正加筆するのも変だと思ったので
このまま掲載することにした。
あれから2年が経過し、
この離婚に関し、当時と全然違う感情を抱いている自分が居る。
でもあの日の私は、とにかく悲しかったし、
考えられないぐらい泣いた。頭が痛くなるほど泣いた。
離婚は、何かを達成したお祝いでもなんでもなくて、
誰かを自分の中で失った、お葬式のようなものだと当時の私は語っているが
まさにそのとおりだと思った。
経験しなければわからないものである。
離婚は、そんなに嬉しいものでもめでたいものでもなく、
ただ莫大な喪失感と絶望感、もう一人なんだという孤独感、
そしてこれからどうやって生きていこうという不安感、
それらのネガティブな感情にどっと苛まれるものだと思う。
ふっきれてせいせいして嬉しくて前を向ける人も中には居るが
私はそんな強さを持ち合わせていなかった。
結婚がゴールではなくスタートであるように、
離婚もゴールではなく、単なるスタートに過ぎなかった。
同じスタートでも離婚は、皆が応援してくれて祝福してくれた、
8年前の、うれしく華々しいスタートとは違い、
たった一人、幼い子供たち二人の手を引いて、
誰にも知られずにただひっそりと旧姓に戻り、
泣きながら迎えたスタートだった。
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「やさしさ」と「冷たさ」の心理―自分の成長に“大切な人”を間違えるなPHP研究所このアイテムの詳細を見る |
子どももいない私は、独身時代と同じように、再び沢山の友達との楽しい日々を送るようになって、あらゆる面において今、自由で幸せです。
でも、読んだら泣きました。号泣。
私も、離婚したくなかった。離婚しかなかったから離婚したんだ。
吹っ切れてせいせいして嬉しくて、前を向いて歩いている私でも、心の奥は、まだ沢山傷ついた傷が癒えていないんです。
未だ泣いている私は、もう少し時間がたったら、違う感情を抱けるのでしょうか。
モラ元夫は、先日顔を合わせたとき、また一緒になりたいと言っていました。
そのときも、なんだか泣きたくなった自分を「へんなの」って思いました。
どうでもいいと適当に向き合った結果がイマイチでも、人はさほど悲しまないし、悔しいおもいもしませんから・・・
一生懸命がんばった結果です。
大きな心の穴も、傷も、痛みも、過去も未来も受け入れて頑張りましょうね。お互いに!
私はいい事を思い出したくない、そう思ったら絶対に後悔してしまう・・・そんな気がして、必死に「離婚しかない」「離婚した方が幸せだ」と言い聞かせて前を向いていたような気がします。
逆にそんな風にいい事を思い出せても、それでも離婚しかないと思えたまっち~さんは凄いなぁと感じました。
そして、強引に離婚して、ホッとしてから、じわじわと、やっぱり良かったんだと心から思えた感じがします。
それはまっち~さんのブログに偶然たどり着けたからというのもありますけどね・・・。
それは、彼にも綺麗な心があって、この世に生まれてきた時はきっととても真っ白で、そんな風に生きようなんて微塵も願わなかったはず・・・誰かを心の底から愛したかったし、愛されたかったはず。
しかし家庭環境や生まれもった性格、親の育てかた、人間関係・・色々なものによってそんな風な人格に形成されてしまった、確かに彼の生まれ持った資質はあるでしょうけれど、でもそれだってそのエネルギーをいい方向に向かわせる方法だってきっとあったはずである・・と
子供はいつだって被害者である・・私はそう思います、ただいつしかその被害者が、加害者になっていく・・・
私はいつも、彼のそういう子供の様な心の叫びが聞こえて来る様で哀しくなってしまいます
やってる事はもちろん許される事ではありませんが。
何かが少し違っていたら、彼の人生はきっと違っていたのかもしれない・・・と
元夫と結婚したことでお子さんたちにも出会えたんだし、否定せず肯定してください。
今のまっち~さんには私が言うまでもなく、肯定できているのでしょう。
離婚届を提出した当時のまっち~さんに、エールを!!
これでもかこれでもかといじめてきます。
理不尽な理由でです。
頭のいい人なのに、どうして、明らかに理由のないことで暴言を吐くのでしょうか?
私が離れようとしていることが、まるで裏切りのような言い方です。
私が平然としていることが許せない。なぜ、おろおろして、泣きながら、ごめんなさいといってこない。すがってこないのかとでも思っているようです。
もう少し、時間がかかりますが。
私は、もうわかってしまいました。
どんな手段に出ても、冷静に、平然と受け止めて、凛として生きていきます。
あなたのことが、私の記憶から消えていくことを願って。
ひどい目にあいました。