法政大学シンポジウム。「地域社会の崩壊と再生」
まず、福島県関係者の報告に多くの時間が割かれた。
飯館村村長、生協あいコープふくしま理事長、飯館村の若い酪農家
いいたてカーネーションの会代表、農業ジャーナリスト、福島大学小規模自治体研究員
飯舘村村長からは、10年かけて育んできた村の「までいライフいいたて」が
3.11の震災時に起きた原発事故の影響で一気に崩れて行った無念さが語られた。
どんな大災害でも、ゼロから出発し直せる。このとき、家族も地域も復興に向けて
一致団結する。
しかし原発事故は、ゼロの状態がいつまでも続く。地域はおろか家族もばらばらになる。
被災住民への支援金がますます関係をややこしくする。
こんなことになったのは、と村長は語る。
こんなことになったのは、戦後、効率とスピードとお金を目標にやってきたからだ。
経済成長にかげりが見え始めた時期の大地震と原発事故。
維新後、戦後、そして3回目のこの転換点。みんなで考えて欲しいと。
コープの理事長は、組合員の4分の一が移住脱退をして経営の危機を感じたこと。
しかし4分の3は移住できなかったこと。そこで、放射能に汚染された郡山で
いかにくらしていくか。添加物や農薬や洗剤などに取り組んできた生協として
この放射能のある生活をも乗り切って行こうと決意したことなどを語った。
若い酪農家。飯舘村で代々の土地を守って次世代に受け継ごうと思っていた矢先にくじかれた。
いま、避難して北海道で酪農家を手伝う日々。周囲からどうして福島の人は移住しないか、
除染しても意味ないのじゃないか、汚染した土地の野菜を売ってくれるな、
それぞれの立場から意見非難こもごも聞かされる時、自分たちの土地への思いは理解されないと
感じている。
カーネーションの会の代表は、仮設住宅のお年寄りの生き甲斐を見つけたと報告。
仮設住宅は過半数が老人。何もすることが無くなって目から光が失われていた。
痴呆症、神経症、病気、などにどんどん冒される。村では昔から嫁入りの着物を
リメイクしていた。そこで、小物や衣類を作ってもらい、都会のデパートで売ることになった。
得意のわらじを布草履にかえて、これも作ることで生き生きしてもらうことができた。
立場、年代、それまでの生活によって、原発事故後の対処方法や思いが万別であること、
そのことによる周囲の反応がときにおせっかい、勝手、見当違い、おじゃまになることなどを知った。
たとえ正論でも、それをかざして来る人間がいかにも無神経に見えることがある、とも分かった。
シンポジウムが終わったのは5時半。実に4時間という長丁場であった。
福島大学、法政大学それぞれの教授、研究者の話も聞いた。
現場で格闘する人々の後ろ盾ともなり、支柱ともなり、羅針盤ともなるべき人々だろう。
しかし、かれらにもまだ3.11原発事故からの起死回生の策は見えないようだった。
政治に強くもの申すのが今考えうる策の一つだと言う研究者はあった。
最後に、福島大学の学生(男子)が言った。関東でも線量の高いところがあると聞く。
測って歩いてみて欲しい。「どこまでが内側でどこからが外側か、知りたい」。
外だと思っている私たちは、内側であると思って真剣に考えてみたい。
(お)
まず、福島県関係者の報告に多くの時間が割かれた。
飯館村村長、生協あいコープふくしま理事長、飯館村の若い酪農家
いいたてカーネーションの会代表、農業ジャーナリスト、福島大学小規模自治体研究員
飯舘村村長からは、10年かけて育んできた村の「までいライフいいたて」が
3.11の震災時に起きた原発事故の影響で一気に崩れて行った無念さが語られた。
どんな大災害でも、ゼロから出発し直せる。このとき、家族も地域も復興に向けて
一致団結する。
しかし原発事故は、ゼロの状態がいつまでも続く。地域はおろか家族もばらばらになる。
被災住民への支援金がますます関係をややこしくする。
こんなことになったのは、と村長は語る。
こんなことになったのは、戦後、効率とスピードとお金を目標にやってきたからだ。
経済成長にかげりが見え始めた時期の大地震と原発事故。
維新後、戦後、そして3回目のこの転換点。みんなで考えて欲しいと。
コープの理事長は、組合員の4分の一が移住脱退をして経営の危機を感じたこと。
しかし4分の3は移住できなかったこと。そこで、放射能に汚染された郡山で
いかにくらしていくか。添加物や農薬や洗剤などに取り組んできた生協として
この放射能のある生活をも乗り切って行こうと決意したことなどを語った。
若い酪農家。飯舘村で代々の土地を守って次世代に受け継ごうと思っていた矢先にくじかれた。
いま、避難して北海道で酪農家を手伝う日々。周囲からどうして福島の人は移住しないか、
除染しても意味ないのじゃないか、汚染した土地の野菜を売ってくれるな、
それぞれの立場から意見非難こもごも聞かされる時、自分たちの土地への思いは理解されないと
感じている。
カーネーションの会の代表は、仮設住宅のお年寄りの生き甲斐を見つけたと報告。
仮設住宅は過半数が老人。何もすることが無くなって目から光が失われていた。
痴呆症、神経症、病気、などにどんどん冒される。村では昔から嫁入りの着物を
リメイクしていた。そこで、小物や衣類を作ってもらい、都会のデパートで売ることになった。
得意のわらじを布草履にかえて、これも作ることで生き生きしてもらうことができた。
立場、年代、それまでの生活によって、原発事故後の対処方法や思いが万別であること、
そのことによる周囲の反応がときにおせっかい、勝手、見当違い、おじゃまになることなどを知った。
たとえ正論でも、それをかざして来る人間がいかにも無神経に見えることがある、とも分かった。
シンポジウムが終わったのは5時半。実に4時間という長丁場であった。
福島大学、法政大学それぞれの教授、研究者の話も聞いた。
現場で格闘する人々の後ろ盾ともなり、支柱ともなり、羅針盤ともなるべき人々だろう。
しかし、かれらにもまだ3.11原発事故からの起死回生の策は見えないようだった。
政治に強くもの申すのが今考えうる策の一つだと言う研究者はあった。
最後に、福島大学の学生(男子)が言った。関東でも線量の高いところがあると聞く。
測って歩いてみて欲しい。「どこまでが内側でどこからが外側か、知りたい」。
外だと思っている私たちは、内側であると思って真剣に考えてみたい。
(お)