それは8月の夏休み。急に思い立ってバス会社に電話した。「女川行きの深夜バス、座席はありますか」夏休みだから無いかも知れない、それならそれでもいいと思っていたが「あります」との返事。8月14日。
町田市が女川町の災害がれきを受け入れて焼却すると聞いていた。それに反対する声がある。さて、行ってみれは少しは事情が呑み込めるかと、そんな単純な動機だった。
2日後の深夜、渋谷マークシティのバス停から出発。座席はほぼ満席。初めての深夜バスは座席は3列、寝る、という表現もあながち大げさでないくらいリクライニングできる。熟睡したつもりもないが、いつの間にか福島を走っていて、気がつくと石巻に着いていた。8月17日早朝である。
石巻からJRの臨時代行バスに乗り女川を目指す。
女川の終点は女川運動公園。そこは山を切り拓いた高台で、仮町役場が近くにある。朝の8時ごろ、まだ開いていないのを承知で行ってみるともうドアは開いていて女性がお掃除中。かくかくしかじか、と道を聞くと、知り合いがいる訳でもないのに一人で女川に来た私を気遣ってか、親切に教えてくれた。役場の人間が来たら詳しく分かるかもしれないからまたおいで、とも言ってくれた。結局、再び訪れることは無かったのだけれど。
私が目指すのはもちろん、がれきの山。事前に聞き合わせした時、もうそんなに無いよという話もあったし、沢山あると言う話も聞いたので、とにかく見に行く。女川の町は小さい。目指すところに迷うこと無く着く。
何枚か写真を撮るが、たしかにかなり片付いているので、がれきの山を目で捜した。これぞと近づくと、まだまだ漁具らしきプラスティックの網やら箱やら混じったまま、それが夏草におおわれている。実は、後でこの山の反対側を歩いたとき、山が案外大きくて、トラックが登れる道までついていたことが分かるのである。
移動する。
町はがれきに埋もれて、という光景はもう無かった。きれいに洗い出されたような基礎が元の区画を示していて、在りし日の整然とした家並を想像させる。左右に山の迫る女川町。この狭い地域にこんなきれいな町並みがあったのだ。津波はこの山あいをどこまで駆け上ったんだろう。
ゆるゆる登り、左右の山がますます近づいてくるその向こうに、仮設住宅があると知らされた。行ってみたい。でもさほどの心構えも、予定もしていない気分ではうかうかと人の生活に近づけない、そんな気がして、遠景を撮影するだけにした。
そうしてまた歩く方向を変えた。目指すは港。
港に向かうと、資材を運ぶのかがれきを運ぶのか、大きなダンプトラックがもうもうとほこりを立てて走り抜ける。危ないから気をつけてと言われたことを思い出す。この道筋で、宮城県原子力防災対策センターと宮城県原子力センターが並んで大きながれきと化している前を通る。あ、女川原発。どうなったのかな。
港は確かに沈下していた。満ち潮のとき海水が乗り込んで来ている痕がある。岸壁の整備も未だこれからだ。そしてまだぽつんぽつんと残っている建物の残骸。ここに至って少し違和感を持つ。すっかりがれきが片付いた風景の中にあるからだ。
それから、港を離れて反対の山側へ。津波のたどり着いた高みをなぞるように、擁壁を伝う階段を登った。手すりがまがり、外れ、ごみがからむ。こんなところまで、と思って目を転ずると港はずっと下になっていた。この時初めて、海の向こうから来る津波の大きさを想像した。恐怖を少し味わった。
女川町はその時、粉々に砕けたけれど、今は確かに復興に向かっている。がれきはさっぱりと片付きつつあり、山腹の医療センターに人びとがやってきている。もう、悲しむだけの町ではない。港の設備も少しずつ整い始めている。そう遠くないうちにまた人々の集うまちができるのだろう。
ただし。近くの女川原発を忘れてはならない。
今回の地震津波で、原発そのものはあと(あわや)80センチというところで直接波をかぶらずに済んだのだそうだ。
しかし、いわゆる原発事故の防災センター(オフサイトセンター)は全くの廃墟。仙台市内の仮設センターで代行か?
そして、原発に安全はないと分かっている。女川町はすぐそばに原子力発電所のある町なのだ。
最近、カタールの資金援助で冷凍冷蔵庫が完成、サンマ漁期に間に合ったというニュースが伝わった。
町田市が女川町の災害がれきを受け入れて焼却すると聞いていた。それに反対する声がある。さて、行ってみれは少しは事情が呑み込めるかと、そんな単純な動機だった。
2日後の深夜、渋谷マークシティのバス停から出発。座席はほぼ満席。初めての深夜バスは座席は3列、寝る、という表現もあながち大げさでないくらいリクライニングできる。熟睡したつもりもないが、いつの間にか福島を走っていて、気がつくと石巻に着いていた。8月17日早朝である。
石巻からJRの臨時代行バスに乗り女川を目指す。
女川の終点は女川運動公園。そこは山を切り拓いた高台で、仮町役場が近くにある。朝の8時ごろ、まだ開いていないのを承知で行ってみるともうドアは開いていて女性がお掃除中。かくかくしかじか、と道を聞くと、知り合いがいる訳でもないのに一人で女川に来た私を気遣ってか、親切に教えてくれた。役場の人間が来たら詳しく分かるかもしれないからまたおいで、とも言ってくれた。結局、再び訪れることは無かったのだけれど。
私が目指すのはもちろん、がれきの山。事前に聞き合わせした時、もうそんなに無いよという話もあったし、沢山あると言う話も聞いたので、とにかく見に行く。女川の町は小さい。目指すところに迷うこと無く着く。
何枚か写真を撮るが、たしかにかなり片付いているので、がれきの山を目で捜した。これぞと近づくと、まだまだ漁具らしきプラスティックの網やら箱やら混じったまま、それが夏草におおわれている。実は、後でこの山の反対側を歩いたとき、山が案外大きくて、トラックが登れる道までついていたことが分かるのである。
移動する。
町はがれきに埋もれて、という光景はもう無かった。きれいに洗い出されたような基礎が元の区画を示していて、在りし日の整然とした家並を想像させる。左右に山の迫る女川町。この狭い地域にこんなきれいな町並みがあったのだ。津波はこの山あいをどこまで駆け上ったんだろう。
ゆるゆる登り、左右の山がますます近づいてくるその向こうに、仮設住宅があると知らされた。行ってみたい。でもさほどの心構えも、予定もしていない気分ではうかうかと人の生活に近づけない、そんな気がして、遠景を撮影するだけにした。
そうしてまた歩く方向を変えた。目指すは港。
港に向かうと、資材を運ぶのかがれきを運ぶのか、大きなダンプトラックがもうもうとほこりを立てて走り抜ける。危ないから気をつけてと言われたことを思い出す。この道筋で、宮城県原子力防災対策センターと宮城県原子力センターが並んで大きながれきと化している前を通る。あ、女川原発。どうなったのかな。
港は確かに沈下していた。満ち潮のとき海水が乗り込んで来ている痕がある。岸壁の整備も未だこれからだ。そしてまだぽつんぽつんと残っている建物の残骸。ここに至って少し違和感を持つ。すっかりがれきが片付いた風景の中にあるからだ。
それから、港を離れて反対の山側へ。津波のたどり着いた高みをなぞるように、擁壁を伝う階段を登った。手すりがまがり、外れ、ごみがからむ。こんなところまで、と思って目を転ずると港はずっと下になっていた。この時初めて、海の向こうから来る津波の大きさを想像した。恐怖を少し味わった。
女川町はその時、粉々に砕けたけれど、今は確かに復興に向かっている。がれきはさっぱりと片付きつつあり、山腹の医療センターに人びとがやってきている。もう、悲しむだけの町ではない。港の設備も少しずつ整い始めている。そう遠くないうちにまた人々の集うまちができるのだろう。
ただし。近くの女川原発を忘れてはならない。
今回の地震津波で、原発そのものはあと(あわや)80センチというところで直接波をかぶらずに済んだのだそうだ。
しかし、いわゆる原発事故の防災センター(オフサイトセンター)は全くの廃墟。仙台市内の仮設センターで代行か?
そして、原発に安全はないと分かっている。女川町はすぐそばに原子力発電所のある町なのだ。
最近、カタールの資金援助で冷凍冷蔵庫が完成、サンマ漁期に間に合ったというニュースが伝わった。