氏とは家とバス停を結ぶ道が同じなのでこの道でよく会い、歩きながらおしゃべりをやってきました。最近も会い、元気におしゃべりをしたと思っていたのに予想外の報に驚きました。急逝でした。本人の希望で家族は家族葬で葬ったそうです。日限山いぶき会が訃報を流したのは死後1週間ぐらい後でした。
氏は会社を退社した後、会社が所属する企業グループの退職者ボランティア組織に参加し、ボランティア活動をやってこられました。
やがて町のボランティア活動に行動が集約してきて、日限山いぶき会(老人会)に所属し、色々な活動で活躍されました。その際、自分の企業グループの退職者ボランティア組織がやっていたことで、日限山4丁目に応用可能な活動は躊躇することなく日限山4丁目に持ち込みました。これは有効な手法で、現在もその活動はいくつか活きています。
奥さんをなくされた後も、体力が弱くなった後も、気持ち元気を失うことなく、ちょっと無理をしている感じでしたが、町のボランティア活動を続けておられました。たとえば町の北辺沿いの大通りの歩道の植栽の草取り(ハマロード活動)はかなりの重労働ですが、頑張って出ていました。ボランティア不足になりやすい町の仕事にあえて出るボランティア精神を持っていました。
次から次へと、50年前に誕生した新町日限山4丁目を支えてきた第1世代が消えていきます。淋しく思いますが、氏は、成就感をもって生を終えたと思います。