Wind of Mind

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自作の音楽や美味しいものなど気ままにアップしていきます!^^ゞ

1984年 夏 ほろ酔いコンサート

2007年05月20日 | 音楽のルーツ
話を進めましょう。
Nグリーでは夏にアルコールつきのサマー・コンサートを開催することになり、うちのG大グリーとH大グリーにそのステージで歌うチャンスが巡ってきました。

私達は同期のJちゃんと後輩のI君を中心にカルテットチームを結成。
ちょうど山下達郎のアカペラがはやっていた時期で我々もドゥー・ワップ・スタイルの曲をやるために6人のチーム編成。
通常のカルテット(トップ・セカンド・バリトン・ベース)にトップのさらに上の音域を歌うカウンターテナーとバリトンかベースを2人にしたんだったかな。ワスレタ
何回か練習し、本番に臨みました。

Jちゃんはパートはバリトンで非常に性格が温厚な男ですが、これがなかなか面白い。
結構気が合い、札幌に帰省した時は彼が世話役をしてくれてみんなと会ったりしていました。

この時も彼のアイディアで派手なアロハを着てやろうということになり、狸小路で安いやつを買ってきました。
さらにサングラス。
H大チームは予想どおり普通の格好。
そんな中、出来るだけラフな格好でコーラスはバッチリ決める!というのが我々の狙いでした。

SAMMY HAGAR サミー・ヘイガー⑦THROUGH THE FIRE「HSAS」

2007年05月18日 | 洋楽のルーツ
1984年、ゲフィン・レコードはサミー・ヘイガーをニール・ショーンと組ませることにより、一躍トップ・アーティストとして大ブレイクを狙います!
そのプロジェクトが「HSAS」です!

「HSAS」とは。
・サミー・ヘイガー
・ニール・ショーン(ジャーニー)
・ケニー・アーロンソン(ビリー・スクワイアー・バンド)
・マイケル・シュリーヴ(サンタナ)
というメンバーからなるスーパーユニットがHSAS(ヘイガー・ショーン・アーロンソン、シュリーヴ)です!

特にニール・ショーンとサミー・ヘイガーの組合せは私にとって新鮮でした。
しかし、前述の通りキャピトル時代も「デンジャー・ゾーン(バイオレンスの逆襲)」というアルバムの中で共演をしているのです。
当初はドラムスにモントローズのオリジナルメンバーであるデニー・カーマッシの名前も挙がり期待していたのですが、最終的にはこのメンバーに落ち着いたようです。
このプロジェクトはジャーニーが休止している1年間でライヴからアルバム制作までをこなすという超ハードスケジュールでありましたが、この4人はやってのけました。

ほぼライヴ・アルバムといってもいいような「スルー・ザ・ファイアー炎の饗宴」は久々に心待ちにしていたアルバムでした。
これは私的にはなかなかよかったと思うのですが、なぜかビッグヒットにはなりませんでした。
曲的に「青い影」(プロコル・ハルムのカバー)などもありましたが、骨太のハード・へヴィなロックが多く一般受けしなかったからだと思います。

1984年の「HSAS」までの間。なぜかサントラが多いのもこの頃のサミーの特色です。
1981年の「HEAVYMETAL」のテーマソング「Heavy Metal」、82年「初体験リッジモント・ハイ」のテーマソング、84年「FOOTLOOSE」で「危険なガール」というハードなナンバーを1発!洗練されたロック・ポップス・アルバムの中で1曲だけ荒削りでヘヴィーなナンバーでした。
さらに、映画「OVER THE TOP」の主題歌「Winner Take It All」もやってましたね!

それにしてもサミーとショーンのバンドは非常に魅力的で、HSAS以降も続けて欲しかったと思ったのは私だけではないと思います。確かにセールス的にはよくなかったことは事実ですが、縁がなかったのでしょうか。。。

左から、ヘイガー、シュリーヴ、ショーン、アーロンソン

崎陽軒「鯛めし」

2007年05月16日 | 駅弁のお話
今日は崎陽軒の数あるお弁当の中から「鯛めし」650円です。
まず、パッケージの鯛に目が行きます。
これは新幹線の中では非常に目立ちます。

鯛の包みを取ると魚の形をした器が出てきます。
その蓋を開けると、鯛そぼろをたくさんのせた鯛めしが錦糸卵と小梅で鯛の姿を表現しております。
要するに蟹めしの感じですね。
そぼろは鯛のせいか薄味ですが、ほかのおかずがしっかりと味付けされているせいかもしれません。
ではおかずのラインナップです。
・イカ団子
・ごぼう南蛮炒め
・かまぼこ
・玉子焼き
・筍煮
・きゅうりの漬物
・昔ながらのシウマイ
私的にはそぼろがもう少し味が濃い目でもいいような気がしますが、総合的には十分でしょう。
ただ、やっぱり、ちょっと目立ちます。。。



1984年 春 札幌 再びグリーへ!

2007年05月14日 | 音楽のルーツ
1984年。
この年の4月、私は人事異動で札幌へ転勤になりました。

この年は札幌も雪の多い年だったのでしょうか、飛行機から見た札幌の街にはまだ雪が残っていた記憶があります。
そしてまた札幌での生活が始まりました。

ここで、私は社会人のグリークラブに入ることにしました。
このNグリーには私の大学のOBや現役も参加していましたので、大学時代からよく知っていました。私の同期の連中もすでに入っていて、当然のごとく勧誘され、私も迷わず入団したのでありました。

しかし、仕事が終わってから練習に行くのはなかなか大変で、実際に練習に来る人は少なかったと思います。
それでも、久しぶりに札幌に戻り仲間と会えた嬉しさもあってこの頃は練習にもよく行っていました。
しかし、色々な大学のグリーメンが来ているので当然ライバル意識もあります。
それぞれの大学で主力を張っていたと自負する人が多いのですがら当然です。
あきらかに今までのグリーとは雰囲気が違いました。

そんな環境の中、私のグリー史の最終章が始まったのです。

母の日、思い出のインスタント・ラーメン

2007年05月13日 | 食道楽
今日は母の日ですね~
小学生の頃、土曜日は午前中は学校がありました。
学校が終わって昼に家に帰るとよくお袋がマルちゃんのインスタントラーメンを作ってくれました。
白菜やキャベツ、もやしなどの野菜と豚肉を塩コショウで炒めた具が我が家の定番、ゆで卵が入っていたときもあったかな。

北海道ではマルちゃんでおなじみの東洋水産のインスタントラーメンがかなりメジャーでよく売られています。
その中でも私が子供の頃からある、みそ、塩、しょうゆのシリーズは超ロングセラーを続けている人気商品のようです。
人気の秘密は、飽きの来ないシンプルな味。
特に「塩」は母がよく作ってくれました。あっさりしていて子供の頃は少し物足りない感じがしましたが、あっさりした塩味とすりゴマがマッチしていて今でも時々食べています。これを絶品と賞賛する人もいるぐらいです。

イメージ的にはこんな感じです。

1984年 突然の父との別れ

2007年05月12日 | 想い出diary
私の音楽のルーツ大詰めの1984年へ行く前にどうしても話しておかなければいけないことがります。

社会人1年目ももうすぐ終わろうとしていた1984年2月の下旬のことでした。

その日私は会社が休みで寮にいました。
管理人のおじさんから会社から電話だと連絡があり、朝から何事かと私は電話のある管理人室へ行きました。

電話は部長からでした。
部長は神妙な声で「お父さんが亡くなったらしい」といいました。その後の話はよく覚えておりません。
その時は電話を切った後、まだ信じられず呆然としていたと思います。
すると続けて姉からも電話がかかってきて話しているうちに涙があふれてきました。涙が止まらなくなりました。

父は私が小学生の頃から単身赴任だったのでほとんど家にいませんでした。
高校生の頃は反発したこともありましたが、大学生になり二人とも帰省する時期が同じ頃になるので、よく飲んだりして話す機会がありました。
思うに、普通に家にいる親子より時間が限られるので逆に会話は多かったかもしれません。

その日の夜、東京にいた兄と一緒に父いる東北の小さな町へ向かいました。
東京駅までがものすごく長く感じました。
結局、着いたのは翌日の朝。

雪の多い年でした。

父のところに着くと母が優しい笑顔で迎えてくれました。
定年1ヶ月前。これから母と第2の人生を楽しもうとしていた矢先のことでした。
私としても社会人にもなり父とも本当の意味で飲めるかな~と思っていたところでした。
もう2度と会えないと思うと言い様のない寂しさに襲われました。

しかし、この出来事が私をまた札幌へと呼び戻すことになるのです。