信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

「『龍馬伝』を見て」、に変更です

2010年08月23日 06時08分26秒 | Weblog

2010.08.22(日) 記

NHKの大河ドラマ『龍馬伝』の今日の放送で、「まんじゅう屋」の近藤長次郎が死んだ。演じている大泉洋が上手なのか、僕にとってなぜか存在感が大きくて、長次郎の亡骸(なきがら)に泣く竜馬の想いが僕の想いでもあるように共感した。また、つぎつぎと仲間を失っていく寂しさも伝わった。

このドラマで龍馬を演じる福山雅治にずいぶんと人気があるようだが、僕はこのドラマを竜馬という一人の英雄物語としてよりもむしろ、「新しい世」を夢見、動いた若者たちの「青春群像ドラマ」として見ている。
武市半平太の仲間を組織しての決起も、追っ手におわれて京の町を逃げ回る岡田以蔵の恐怖感も、新撰組に切られて死ぬ間際「龍馬の言うようにすればよかった」という後悔も、海軍操練所仲間との友情も、ドラマの随所に描かれる諸々が、若者固有のそのもののように思うからだ。
そしてほんのわずかであるけれども、このドラマと若き日の自分自身と重なることもあるので余計にそう思うのかもしれない。

ドラマを離れて、この時代の若者は、『日本国』を外国の侵略から守るために私利私欲を離れて命を掛けたことは事実だった。それが勤皇であるか佐幕であるか、あるいは攘夷であるか開国であるか、の違いがあったにせよ。

ひるがえって今はどうだろう。あまりにも自分の利益のため、カネのために動きすぎているのではないか。これが中立を標榜するマスコミや、国家の進むべく方向を決める政治家であったりするとどうしようもない憤りを感じる。

働く者の、特に若者の人生を食いしゃぶる『人材派遣法』を、自分が政治家の時に改悪し、その法律で大きくなった人材派遣会社の会長になって高額の報酬を得る…自分が作った法律で自分の利益を図る。こんなことって許されるのか。たかだか500人や1,000人程度の世論調査であたかも国民の意見を装いながらある特定の人物を、これでもかこれでもかと攻撃したり、逆に全く報道しなかったり。これも許されるのか。
いや、許す・許される、という次元の話ではない。「自分自身が恥ずかしい」という羞恥心とか自尊心とか誇りとか潔癖さとか正義感といったものをほんの少しでも持ち合わせていないのだろうか。


NHKは実質国営放送なので、ニュースや政治番組でいえないことを、たまにドラマを通じて批判したり覚醒を促したりすることがある。この『龍馬伝』でもそのメッセージが随所に発せられているように僕には思える」_:br4。
一つは『日本国』を外国の手から守る。二つ目は『私利私欲』から離れる。三つ目は若者への叱咤激励。

深読みしているかもしれない。でも、
戦後65年、もう某国から隷属的な立場から自立(すなわち対等な関係)してもいいのではないか。郵貯や簡保の350兆円ともいわれる資金を提供する必要は無いのではないか。かつての日本人が有していた『節』を取り戻すために、カネ、カネ、カネの視点から一歩離れる必要があるのではないか。そしてマスコミの意見を無批判に取り入れてさも自分の意見であるかのような錯覚をせず、自分の意見で政治に参加しようではないか、若者たちよ立ち上がれ、
と、僕にはこのように読めるのですが、あなたはいかがですか?

さて、これだけ『龍馬伝』に入れ込んでいると、龍馬が暗殺され番組が終了したときの寂寥感というか虚脱感というか、今から目に見えますね。

何であれ古今東西、歴史上『革命』で生き残ったものはどんな英雄でもすべて俗物です。というか俗物にならざるをえない、のかもしれません。
『明治革命』後、俗物になることを拒否したのが西郷隆盛らだ、と僕は思っているのですが、次の大河ドラマは、明治革命のさなかに純粋に生きようとした人々を主人公にしたものを希望したいですね。
例えば西郷さんとか、勝海舟とか、あるいは島崎藤村の『夜明け前』とか。

ちなみに今日8月22日は島崎藤村の命日でした。若き頃教鞭をとっていた小諸で行事があったことをローカルニュースで流れていました。

それにしても藤村の生まれた馬籠(旧、木曽郡山口村)はなぜ岐阜県中津川市と(吸収)合併したのだろう。未だに残念で仕方ない。これも村と県のあいだを取り持つ『仲立ち龍馬』がいなかったからだろうか?

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