波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

網誌人(blogger)が燃え尽きるとき:新年度の始まり

2005-08-27 14:01:41 | 雑感
網誌を色々覘いていると,仕事持ちの主宰者の場合,勤務形態の変更等により,本人が「燃え尽き」状態になり,網誌が停止・廃止になった事例に時々遭遇する.日本で通勤している網誌人の場合,新年度が始まる四月前後に集中することになるのだろうか.網誌『殿下さま沸騰の日々』で有名な安田隆之氏も,半年に渡る求職期間の後,この四月に目出度く転職に成功されたようだが,新しい職場での勤務は網誌を書く余暇の時間を侵食していたようで,遂に先月末「燃え尽き」状態に至ったのか暫く休筆となった.以前,さるさる日記で自分の都合に合わせて自由に書いていたころと違い,月刊WILLに記事が掲載されて,読者からの期待が高まると,いい加減な仕事(網誌)を日々残すわけにはいかなくなったという,有名人ならでは「縛り」という理由もあると思われる.
 日本で新年度と言えば,大抵四月と相場が決まっているが,かなり昔,即ち,夏目漱石の小説『心』の主人公が大学を終えた頃は,英米と同様,新学期は秋から始まり卒業式が夏だったことが文中から読み取れ,業界によって年度の始まりが異なっていたことが分かる.四月始まりの軍関係学校等との関係で,明治中期に小学校は四月始まりになったようだが,東京帝国大学が此れに従ったのは大正になってからのようだ.明治維新後,欧米の教育制度に倣って九月始まりにしたと思われるが,この背景には欧米からの御雇外国人との契約もあったに違いない.東大の前身の各学校の頃から御雇外国人が講師として教育機関等に多数雇われていたが,彼等の母国の流儀(仕事の始まりは九月からで春で仕事は御開き,夏は避暑・旅行による同業者間の交流・執筆活動等に充てる)に,日本の制度を合わせざるを得なかったのではないか.特に,日本の高温多湿の夏を考慮すると,学期間に長期の夏季休暇を入れることによる学習効率上の問題も含めて,御雇外国人にとっては九月始まりの方が望ましかったに違いない.そして,このような御雇外国人への妥協による制度は,帝国大学の教官がほぼ自前(日本人)で補充できるようになり,外国人教官への依存が解消された頃(大正時代)に消え去った,と.
 このような四月始まりの日本に対して,米国の役所の会計年度は全く一貫性が無い.連邦政府は10月始まりだが,大抵の州が此れに従わず独自の会計年度を持っていて,また市町村の段階でも州に従わず独自の会計年度をもっているところもある.このような年度開始の頭だし調整なしでも役所・社会がそれなりに動いているということは,米国において公的機関が果たす役割が1930年代のNew Deal政策が始まるまでは最小限に抑えられていて,財政規模が非常に小さかったので,連邦・地方の会計年度をそろえて効率化を図るような必要がなかったことが背景にあると思われる.公的機関の果たす役割が肥大化した現代の米国で,未だに国と地方が異なる会計年度を維持していることは,人間の適応力の幅が如何に広いかを示しているのではないか.このような米国でも,教育機関は何処でも九月乃至,緯度の高いところは八月末より始まる.九月の第一月曜日はLabor Day休日で,この休日にかけて昔米国が農業国だった名残の農畜産物の収穫祭というべきState Fairが各州で開催される.農畜産物の即売だけでなく,他の芸能系の興行や移動遊園地が一緒になった大規模のものもある.農業機械化以前の労働集約型農業のため,夏の農繁期には子供も重要な労働力であり余暇のように見做されていた学業は収穫終了までは休止という,工業化以前の社会を反映した流儀が,今でも米国の教育界だけでなく,他の業界,月刊誌,TV,古典音楽・歌劇その他に残っている.これらの業界では基本的に秋から春までが本稼動の期間で,夏の間は休業ないし間引き操業(月刊誌の場合,昔は七月と八月は合併号で済ませるのが普通だったらしい)状態となっている.また,自動車の新型販売が始まるのも九月からで,今秋販売開始されるのが2006年型のもので,七・八月は前年型の在庫一掃の特売の宣伝がTV上で頻繁に放映されることとなる.基督教系の教会にしても,信者が地元に居ない事が多い夏季中は各種の付加活動が停止状態になっていることが多い.
 このように米国に在住の網誌人にとっては新年度の始まりの九月前後が鬼門と言えるが,本網誌も肩に力を入れず,書きたいことを適宜暢気に書いていく形で続けていきたいものだ.

註:日本の学校の年度始まりの経緯については,取りあえず,以下の網頁を参照(詳しく調べれば,より学術的な網頁を見つけることができると思うが)
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/akasyo%20body.htm
http://homepage2.nifty.com/osiete/s542.htm

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/27/2005/ EST]

波士敦でみる英国風のもの

2005-08-24 23:33:23 | 雑感
 昨日23日は,今回の長期渡米が満6年になった日であった.人間ならば生まれてそろそろ小学校入学ということになる期間だ.そして今日24日は,竣工間近の棟に引越しての最初の勤務日だった.電話番号は引越前と同じものと聞いていたが,電話機自体が,新品が支給された同室の同僚とは違い,かつての仕事場から引き抜かれて他の引越荷物と一緒に運び込まれていたのには驚いた.英国式の各階の番号付けは,一階がground floor,二階が1st floorとなるが,米国の場合,日本同様,素直に一階は1st Floorとなるのが一般的で,偶に例外に遭遇することがある.新しい職場も,そのような例外の一つで,一階がground floorで,二階が2nd floor,そして地下一階はconcourseというものだった.
 波士敦近辺は旧大陸英国との関係が深いのか,英国風の物がそれなりにあり,余所者泣かせの一つになっているのが,円形交差点(rotary,英語ではroundaboutと呼ぶらしい)だ.確かに,信号機等の設備投資と電力供給が不要であり,停電に強いと言えばそれまでだが,慣れないと長縄跳びに飛び込んでいくような緊張感に襲われる.また,出口先の案内が悪いと,とんでもない出口に出てしまうことになるが,出口がはっきり分からない場合は,焦らず,目的の出口が分かるまで交差点中をぐるぐる回って標識等を確認してから出れば良い,というのが経験者の助言だ.即ち,普通の十字その他の交差点では,進行方向を間違って選ぶとそれで終わりだが,円形交差点の場合は,行き先に自信が持てるまでは交差点内をぐるぐる回っていても良い,という御気楽なものという見方もあるのだ.
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近代日本の動乱期における経済舵取り能力

2005-08-22 23:22:46 | 雑感
 最近,地下鉄乗車の読み物として,幕末の幕臣であった川路聖謨(かわじ としあきら)が渡英中の孫に出した便りをまとめた『東洋金鴻』(平凡社東洋文庫 343)を再び読むようになり,大政奉還等が登場する慶応三年末頃のところまで来た.此の日々の日記をまとめた形の便りの中には,当時の江戸情勢がそれなりに書きとめられていて,明治維新の前年の慶応三年になると様々な治安悪化の例(強盗・殺人)が書かれている.また,当該日記が始まった前年の慶応二年より,諸色高直(しょしきこうじき),即ち諸物価高騰による日々の生活の遣り繰りの厳しさが度々触れられている.この幕末の物価高騰の件を読んでいて思い出したのが,先週,太田述正氏の網站の掲示板上で日米関係史をめぐる太田氏と一読者の遣り取りだった.当該一読者の述べていた内容から判断すると,この読者は開国をめぐる経緯について今日の通俗的解釈で終わっているというか,昨年出版された加藤祐三氏による『幕末外交と開国』は勿論のこと,佐藤雅美氏の『大君の通貨 幕末「円ドル」戦争』(文春文庫2003年)や『開国 愚直の宰相・堀田正睦』(講談社文庫1997年)なども捲ったことがないのではないか,と思われた.此処にも,明治新政府が残した煙幕としての幕末正史=歴史解釈(江戸幕府のやったことは全て失敗)が,現代の我々が幕末維新の実像に迫ることを妨げていることが分かる.
 それにしても,近代以降の日本にとって為替政策というのは鬼門というか,間違った政策選択によりその時々の国家基盤に致命傷を与えてきたのではないだろうか.事の起こりが,1858年の日米修好通商条約締結の際,金銀交換比率決定における大失策が金の海外流出を招いただけでなく江戸幕府の財源を枯渇させて幕府の瓦解を招いたことで,次に思い出すのが,昭和5(1930)年の金解禁も前年米国で始まった大恐慌の荒波を被ったため大量の金が日本から海外へ流出し,日本を不況のどん底に陥れた.昭和46(1971)年の弗震驚の際の日本政府の為替対策も疑問だが,1985年から始まる円高誘導による日米貿易摩擦の解決も後世の識者は疑問符をつけるに違いないだろう.勿論,後者の場合は,日銀の金融政策の大失策の方に経済停滞の直接の責任があると思われるが.このように眺めていると,世界第二の経済大国とは言いながら,経済政策の舵取り能力の真価が問われる動乱期において此のような失策を続出させていることから判断すると,日本の経済舵取り能力は,その経済の規模と比較して,余り高くないということになるだろうか.
 © 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/22/2005/ EST]

領土拡張が国家を危機に陥れる秋(とき)

2005-08-21 16:44:24 | 雑感
 先週米主流報道媒体は,加沙(Gaza)地区における不法残留の猶太人(Jew)が排除される様子に時間枠を割いていた.同地において当局の命令に従わず強制排除された連中の殆どが,愛媛県・杉並区等の歴史教科書採択で暴れまわっていた余所者の過激派と同じく,同地への元々の入植者ではなく,政府の撤退方針に反対の連中が俄かに世界中から同地に流れ込んで当局に抵抗していたのだった.
 一週間前のNY Timesの日曜版に掲載されていた記事で,今回の撤退が決定された背景として二つの理由を挙げ,そのうちの一つが,世界から以色列(Israel)に期待した程の大量の移民がなく,かつ,巴勒斯坦人(Palestinian)の出生率が猶太人の其れを大きく上回っているため,大以色列主義により占領地区を本土に併合すると,巴勒斯坦人を以色列国民として認めるか,それとも国際的な批判を被り国家の存亡を懸けること覚悟で彼等を国外追放処分をするか,という厳しい選択に追い込まれ,たとえ前者を選択しても一人一票という民主主義国家の原則を守れば,前述の出生率の格差で拡大した以色列内において猶太人が近い将来少数派に転落するという破天荒な未来像しかない.よって,猶太人の多数派が維持できそうな現在の領土で満足することが肝要で,かつて大以色列を目指して占領地への猶太人入植を唱道した連中により,今正に,国家の存亡を懸けて同政策の撤回が進められている,という皮肉な結果となった.
 今回の撤退の二番目の理由として,前掲のNYT記事では,巴勒斯坦人側の自爆攻撃等による抵抗の激しさとそれに対する以色列側の軍等における厭戦気分を挙げていた.なぜ巴勒斯坦人を力ずくで封じ込めることに以色列軍が躊躇するようになったか,以色列は男女とも兵役の義務があり,志願による職業軍人でない者が暴徒鎮圧の最前面に押し出されるわけで,国民全体に戦意が漲(みなぎ)っていない状態であれば,社会の縮図である徴兵の戦意が低いのも当たり前で,各種の徴兵忌避の手段が編み出されているようだ.
 NYTの記事では触れていなかったが,猶太系の以色列人の人口構成が変化していることも此の背景にあると思われる.数年前に見たCBSの報道番組60 Minutesで放映された報告では,以色列では世俗的猶太人の出生率が急速に低下する一方で非世俗的猶太人の出生率が急増していて,問題は,後者は宗教上の理由で兵役の義務を回避できる点にある.即ち,兵役に就ける人口割合が低下する傾向にあり,このままでは,国民の自己犠牲による国防意識が低下し,建前上,民主主義の国である以上,多数派=非世俗派の支配するところとなり,念仏を唱えていれば国は大丈夫というような亡国の思考が国に蔓延してしまうのではないか,これは猶太人にとって何時か来た国家滅亡への道ではないか,という世俗側からの批判だった.
 もし,日本が1941年の日米衝突を回避していたならば,どのように朝鮮半島,台湾,そして満洲国の将来像を描いていたのだろうか.台湾にしろ,朝鮮半島にしろ,和人が多数派でなかった以上,何時かは自治区,そして独立という道をとらざるを得なかったはずだ.連邦国家の道を求めたならば,国名の「帝国」を削除しなくてはいけなかっただろう.また,満州国を日露間の戦略的緩衝国,丁度,露西亜が支那との間に緩衝国として1921年に創り出した蒙古のように仕立てるのであれば,満洲国政府への日本側からの官僚の派遣廃止,関東軍の撤退が不可欠だったに違いない.この点については,中川八洋氏の「遅すぎた満洲事変」論が全てを語っていると思う(『大東亜戦争と「開戦責任」』(『近衛文麿とルーズヴェルト』の再刊本)参照).世界の歴史を見れば分かるように,米国ですから,政変による布哇の編入は言うまでもなく,自国の太平洋戦略を左右する巴拿馬運河を自国の意のままに使用するため,哥倫比亞(Colombia)の一州であった 巴拿馬(Panama)で「独立運動」を俄に創出させて,1903年に独立国家(実質米国の傀儡国家)に仕立て上げ,国際的な認知を得ることに成功したのだった.此の様に手本とすべき前例が多々存在していて研究・学習可能だったにもかかわらず,日本の満洲国建設の過程を見ていると,露西亜のような残虐非道も躊躇しない力任せによる共産化でもなく,米のような民族自決の錦の御旗を振り翳して国際法や国際的常識に出来だけ従って傀儡民主国家を創出するような狡智さも不十分という,自国の本音が赤裸々な剥き出状態のままの中途半端な建国に終わっていて,当時の日本人の戦略的思考の限界を如実に示している.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/21/2005/ EST]

昭和20年8月14日夜の関東・東北空襲と宮城事件

2005-08-20 13:30:38 | 雑感
 先週末のhome-networkingと電脳に係わる機器故障によって網誌の更新が不連続なり,予定していなかった「盆休み」状態が出来してしまった.昨日なんとか現状回復となったが,有線放送・網路接続会社の対応を見ていると,近日中にまた不都合で電話ということになりそうだ.
 ところで,「築地をどり」の夏季興行千秋楽となっている8月15日の前日,網誌「ヒロさん日記」の記入で米軍による地方都市の空爆その他が扱われていた.この記入を読んでいて思い出したのが,昨年だったと思うが米国の歴史番組専門の有線放送The History Channelで放映された"The Last Mission"だった(http://store.aande.com/html/product/index.jhtml?id=71239).この番組は,Jim Smithと Malcolm Mcconnellによる同名の単行本"The Last Mission: The Secret History of World War II's Final Battle"を下敷きに日米双方の証言・資料を随所に挿入したdocudrama仕立てだった.当然のことながら,日本側からは「日本のいちばん長い日―運命の八月十五日」の著者である 半藤 一利氏の証言も挿入されていた.
 「ヒロさん日記」で紹介されていた網誌「uumin3の日記」の8月6日の記入で,昭和20年8月14日夜の米軍による秋田市の石油施設空爆が述べられているが,上記番組名にあるthe last missionとは此の秋田の他関東での空爆を指している.8月14日の空爆に投入されたB29B編隊の一機Boomerangに搭乗の無線通信員による任務遂行記録と,宮城(きゅうじょう)のほか帝都で進行していた終戦に向けての鬩(せめ)ぎ合い,特に陸軍中枢における継戦派の策動を時系列に織り交ぜて,8月14日から翌日にかけての動きを追っている.この陸軍中枢における継戦派の策動は通称「宮城事件」と呼ばれ,2.26事件同様,鉄砲玉になった者についての記録は比較的詳しく残っているが,鉄砲玉の後ろに控えていた連中については謎が残り,いろいろな推理が出されている.前掲書の視座は,8月14日夜のB29編隊帝都接近で空襲警報が発令され,当時,第三の原爆投下の標的地は帝都という噂があり,長時間の送電中止による完全灯火管制が布かれ,このため宮城内の街路灯が消えてしまい,終戦の詔書の録音に御文庫から自動車で宮内省に向かわれた陛下や音盤関係者の動向を,宮城内にいた叛乱派とされる芳賀豊次郎近衛歩兵第二聯隊長率いる近衛歩兵第二聯隊主力が正確に把握できず,叛乱派よる策動の足を引っ張った,という見方だ.もし8月14日夜の空爆がなければ,宮城事件の展開はどのようになっていたか,特に叛乱派が前述音盤の奪取に成功していれば,どのような終戦の形になっていたのか,少なくとも,現在記録されている以上の軍末端での抗命事件が出来していたことは間違いないだろうが.
 因みに,前掲の番組は,米国では同放送局で来月29日(木)朝8:00(東部時間)に再放送される予定らしい.
 
註:
宮城事件については,以下の網站が詳しい:

宮中事件研究室
http://kyuujoujiken.hp.infoseek.co.jp/index.html

網站「第一次大戦」を主宰している別宮暖朗氏は,以下の網頁で,宮城事件,特に,阿南陸相の振る舞いについて,従来の見方とは異なる推理を最近展開している:

「ある陸軍省軍務局課員の阿南支持」(http://ww1.m78.com/topix-2/army%20officers.html)

特に,「竹下正彦の陳述」(http://ww1.m78.com/topix-2/takeshita.html)では,天皇陛下に対して諫争も辞さない継戦派将校達の思想上の支えであった東京帝国大学教授平泉澄について,皇国史観の領袖とみなされている彼の史学が,法よりも道を尊重する「漢(から)」の思想に汚染されている,と批判されている部分は興味深い.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/20/2005/ EST]

「留学」の中身 医学系の場合 その二

2005-08-17 18:25:16 | 雑感
 米国の場合,学位取得を目的としない研究中心の留学の中身を判断する材料として,受け入れ先から報酬が払われるかどうかが一つとして挙げられる.非医学系の自然科学系博士号(Ph.D.)取得者が自分のやりたい主題について研究するため留学する場合,広告・人伝その他で受け入れ先を探し,日本からの資金援助が全く無い場合は,受け入れ先から生活できる給料を支給してもらえるように交渉することになる.このような待遇交渉過程にはそれなりの英語力が不可欠となり,英語力・交渉力が無ければ,最悪の場合,無給あるいは医療保険のみ提供で日々の生活資金に事欠く奴隷奉公になりかねない.
 医学部系の研究員留学でよく見られるのが,米国の受け入れ側と日本の研究室との間になんらかの提携関係があり,研究の内容は兎も角,留学の実績を積むことの方に主眼を置いた奉公型だ.このような形の場合,日本における企業と大学間の内地留学と同じように,日本から米国の受け入れ先に研究員を送り込む際には,日本からの持参金・土産は当然のことと見做され,研究員の渡米中の生活費も大抵自弁だ.奉公型留学は,長年扱き使われて来た若手医局員への報奨休暇を兼ねたものという色合いが濃く,無給の留学の場合は,家が資産家でもない限り,渡米前にあれこれ荒稼ぎして渡米中の生活資金を工面しなくてはいけない.
 さて,このような渡米前の慌しさを乗り越えて受け入れ機関に辿り着いた後,留学生活を第一に左右するのは,乞食でも喋れる「英語」の力と職場その他での人間関係の形成の巧拙となる.印度人の訛った英語でも,彼ら特有の粘液質的な押しの強さによって流石の米国人も辟易してしまうように,聴解力・語彙は兎も角,発音が今一つでも,自分の意思を英語で相手に伝えて説得できるかどうかによって留学生活の明暗が分かれてしまう.洋の東西を問わず,医学部・medical schoolは一種独特の相撲部屋体質で堅持されている.日本の大学は大抵同じと思われるが,医学部が他の学部とは一線を画して独自の学園祭を催しているところが結構ある.貧乏な他学部の連中とは余り関係を持ちたくないという医学部治外法権的価値観が為せる業だ(因みに,米国は医師養成課程を大学院段階に置いているので,日本ほど,医者の世界がそれ以外と隔離してはいように思われる).このような日本の医学部治外法権的価値観は医学部関係者の日頃の交際範囲を内に向かって閉じた形にしているが,海外留学はこの引き籠りを往々にして弾け飛ばしてしまう.英語が碌に喋れない・聞き取れないため,受け入れ先で,英語より西班牙語の方が上手な中南米移民の掃除人並み,或いはそれ以下の存在として扱われ,渡米前「先生,先生」と呼ばれていた頃との落差で,屈辱感に苛まれ,日本での出世のための「苦行」としての留学が終わることを一日千秋の想いで待つような場合もある.正に,たかが英語,されど英語,なのだ.受け入れ先を自分で選択した留学者の場合は,受け入れ先が期待外れと分かった段階で,他のましな処へ移ることが可能だが,研究室間の提携で日本から研究員を定期的に送り込んでいる奉公型留学の場合,個人の意思では勝手に動けない=研究室の体面を守らなくてはいけない=研究室の掟を破れば帰国後に仕置はあっても報奨はない,という相撲部屋的縛りがあるので,奉公の年季が明ける前に研究を投げ出して尻尾を巻いて帰国することや他所に移ることは不可能となる.日本からの奉公型留学が米国のmedical school系で歓迎されてる背景には,日本人の従順・生真面目さ,質に大きなばらつきが無いなどの要因の他に,このような医学系独特の留学形式に因る理由もあるのだ.米国に居残る事が本音の支那系や印度系の留学生と違い,あれこれ文句を垂れることもなく従順で,奉公の年季が終わると後腐れなく本国に帰国して,米国人の求職競争相手にならない日本人研究員は,米国medical schoolにとって,これ以上の上客の留学生はいないと言えよう.
 旦那が医学系の研究員留学となったため専業主婦として同伴渡米した奥様達は,医学系の留学者が多い処では,前述の医学部治外法権的価値観を米国まで持ち込んで,独自の社会を形成している.留学先の選択が研究の中身よりも,受け入れ先のmedical schoolの名声の方が主な決め手になっている以上,特定の箇所に留学先が集中することは避けられず,波士敦もその一つとなっている.旦那同様,英語ができて外向的な性格であれば米国での留学生活を外に向かって色々満喫できるのだが,内向的で英語も駄目というような場合,前述の独自の社会内での派閥活動に参加するしかないようだ.
 勿論,自分で留学先を見つけて給料を受け入れ側から出してもらえた独立独歩の研究員の方が,奉公型の研究員よりも影響力のある上質の研究を残せるというわけでもない.人生における休暇として留学した者と一人前の研究者として独立するための修行として渡米した者との間には,確かに,研究に対する姿勢において明らかな差異はあるが,学会で評価される研究のためには,研究員本人の努力・姿勢だけでなく,受け入れ研究室の環境,そして運などの条件が揃うことが不可欠であることは言うまでもない.
註:米国の場合,医師,法律家等の専門家養成は,学部段階ではなく,学士取得後の大学院段階で行うことになっている.即ち医師になる連中も大学4年は医者にならなかった連中と同じ学部教育を経ていることになる.
©2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/17/2005/ EST]

故黒羽茂氏の日英同盟・日米外交に関する著作について

2005-08-16 23:40:25 | 読書感想
 最近日英同盟成立前後の日本外交に関心を持つようになり,あれこれ情報に当たっていると,別宮暖朗氏の網站「第一次大戦」(http://ww1.m78.com/index.html)で日英同盟に関する網頁があり,故黒羽茂氏の著作が参考文献として挙げられていた.そこで図書館で彼の著作を調べてみると,黒羽氏は東北大の教授で,前述の網頁上に列挙されていた『日英同盟の軌跡』上下巻(1987年刊)は,1968年に出版された『日英同盟の研究』を基に書き上げられたものであることが分かった.即ち,『日英同盟の軌跡』上巻が『日英同盟の研究』と重なりあっている.また,1974年刊の『日米外交の系譜』は1968年出版の『太平洋をめぐる日米抗争史』とほぼ内容が重複していた.日米開戦の原因を分析した章を前者の方で読んでみたが,海南島占領については全く言及されていなくて,後者の巻末にある「日米関係年表」においても同島占領は昭和14(1939)年の欄には書き込まれていなかった.やはり,戦後流布した「常識」の影響から逃れられなかったのか,地政学あるいは地理学的な視点からの考察が不十分だったのか,それとも旧日本海軍の南進計画についての資料・情報が身近になかったためだろうか.黒羽氏は明治41(1908)年生まれで東京帝大文学部西洋史学科卒のなので,単なる市井の一庶民としてではなく,少壮歴史学者として大東亜戦争の推移を同時代的に把握できたはずなのだが.
©2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/16/2005/ EST]

「留学」の中身 医学系の場合 その一

2005-08-15 23:20:05 | 雑感
 先週末は予想を超えた電脳周りの故障その他で,電脳・網路を基盤とした生活が一時的に不可能になった.そのような折,日本からの電話で,田中真紀子衆議院候補に波士敦内のとある大学病院所属の日本人が自民党からの対立候補として擁立されたことを知った.日本ではここ数年政治家の履歴書における「留学」の中身がいろいろ問題になっているようだ.米国の高等教育機関の場合,日本の在学・退学の概念が対応しないというか,確かに何か不祥事を起こして放校処分を受けて大学と縁が切れるということがあるが,入学後暫く在籍,その後数年中途休学,そして取得済みの単位を持って別の大学に編入する,というような単位取得方法が可能で,大学に在籍することは手段でしかなく,学位取得に向けての単位が規則通り積み上げられているか,ということに主眼を置いている.このような米国大学の裏にある価値観・規則・不文律は日本のそれとは必ずしも一致しないわけで,日本の報道機関による政治家学歴批判の中には的外れ的なものも結構あった.
 前述の立候補予定者は医学系留学だが,平均的日本人がよく思い違いしているのが,日本の医学部から米国のmedical schoolに留学している日本人医師が米国で「臨床」に関わっている,というものがある.日本の病院を舞台とした現代劇で,ある登場人物を退場させる場合よく使われるのが,当人が米国等に留学することになった,という形だ.世界的に見て,旧植民地の発展途上国でもない限り,他国で取得した医師免許を無試験で自動的に自国内で認めるようなことはないと思われるが,米国の場合,米国内の医師免許を持っていない限り,本国で医師免許を持っている留学生が米国内で診療行為におよぶことを原則的に禁じている.よって,日本人の医学系の留学は,先の例外のような場合を除き,「臨床」ではなく「基礎」に限定されることになり,日本の医学部外科からの留学医師が米国の病院で執刀するということは原則的にありえない.
 日本の医学部からの留学はこのように基礎研究に従事ということになるので,単位取得・学位取得を目指して留学した学生と違い,TOEFLなどのような全世界的英検得点等を使った受け入れ側による英語力での篩い落しがない.換言すれば,英語力が無いにもかかわらず,履歴書に「留学」の一行を入れるために,米国に来ている連中がそれなりに存在する.では,なぜ英語力もなく,留学先の米国の社会・文化について碌に勉強もしないで,米国のmedical schoolへの飛び込み留学が可能になるのだろうか.
(以下,その二に続く)
 ©2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/16/2005/ EST]

米国の郵便服務

2005-08-12 23:47:15 | 雑感
 先日当網誌で触れた岡田益吉著『危ない昭和史』上下巻がSAL便で届いた.米国の郵便服務の粗雑さに対してそれなりの免疫が出来ていると思っていたが,届いた包みを見て思わず絶句してしまった.舗装道路或は混凝土(concrete)打ちっぱなしの床等の荒い表面に対して包みを引き摺ったため,郵送用の包装紙,その内側の塑料袋(plastic bag)は勿論,上製本の表紙の布,芯の厚紙,背に貼り付けてある寒冷者紗を擦り切り,見返し迄達する擦り傷を下巻の耳・みぞの部分に与えていたのだった.日頃,郵便配達員が郵便物の入った布袋を歩道上で引き摺っているのは知っていたが,自分宛の書籍があのような荒い扱いで被害に遭うとは思いもよらなかった.
 以前の記入で述べたように,米国人に対して,日本での常識的物の扱いを期待してはいけない.郵便服務もその一つで,雨や雪で濡れた床に郵便物を置いたり,雨中・降雪中に郵便物を置き去りにして水浸しにするのは序の口だ.或る知人はCoachで買った数ダースの土産用革製品を簡単な紙包みで日本に郵送したが,運悪く米国内で水をかぶり,日本に届いた時には,革に浸水の痕が確りついてしまったいたそうだ.よって,自衛のために濡れてはいけないものは必ず透明な塑料袋で包装する事が不可欠だ.この点については周知徹底していたつもりだったが,道路等の硬い表面に擦り付けられるというような事態は余り真剣に考えていなかった.今後は水に強く破れにくいタイベックス紙(Dupont社製の登録商標Tyvek)での包装を依頼するしかないようだ.
 日本では郵政公社民営化が選挙の争点になっているが,米国の郵便服務も国営から公社へと経営形態を変えて経営の合理化を進めて来たが,日本とは違い貯金・保険関係を扱っていないので,赤字が続いている.経営学的に言うと,軍隊的な古典的経営が長く続いたことや,服務対象人口数の大きさ・地理的服務領域の広さという自重によって小回りが利きづらいことが背景にある.また,米国で職場での刃傷沙汰といえば「郵便局」を連想するほど,職場での人間関係の問題で銃撃事件がよく発生し,労務管理にも問題があることは間違いない.
 日本では法律の関係で実行不可能かもしれないが,米国では,郵便代行窓口業が存在する.有名なものが,小包配達等で全米最大手のUPS(日本のヤマト運輸と提携している)系列のMail Boxes Etc.(MBE)(http://www.mbe.com/)だ.郵便局が近所にない地区や郵便局と民間業者双方で物を送らなくてはいけない場合此処にいけば二箇所回らず一箇所で済むため,上乗せ手数料は取られるが,此処で済ませるという客も多い.小包配送での頽勢を挽回するため,郵便局はDHLと提携して末端の配送部分を担当するというような官民提携も最近生まれている.
 米国では一弗の硬貨が流通しているが,小銭を嫌がる米国人の気質もあって(店頭で釣銭を受け取らない者も結構いる),日常的にお目にかかることは殆ど無い.米国で最も利用頻度が高い25分(cent)硬貨と似た外観で混乱を招いていことから,数年前,金貨に変わった.その際一時的に取沙汰されたが,結局昔の状態に戻ってしまった.この一弗硬貨が日常的に使われている唯一の例外が,何を隠そう,郵便局の切手自動販売機なのだ.米国の自動販売機の場合,釣銭を札で出す機能がないものがほとんどで,よって一弗以上の釣銭は大抵一分硬貨等の組み合わせになるのが普通だが,郵便局の当該自動販売機は一弗硬貨を使うようになっている.一弗金貨になって厚みが倍近くになったので,数弗分を当該金貨で戻されると,財布がずっしり重くなり,ますます日常での流通を下げている.銀行のATMや自動販売機が盗まれるのが当たり前の米国では,今後とも高額硬貨の利用は進まないと予想され,一弗金貨は家の引き出しに記念物として眠ったままの状態が今後とも続くにちがいない.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/12/2005/ EST]

Tsuyoshi HasegawaのRacing the Enemy(2005)を捲って

2005-08-11 22:49:18 | 雑感
Tsuyoshi Hasegawa著"Racing the Enemy: Stalin, Truman, and the Surrender of Japan"が太田述正氏の網誌(http://ohtan.txt-nifty.com/column/)で8月2日から3日にかけて掲載された「原爆と終戦」(#819-821)で取り上げられていた.Hasegawa氏は,当網誌の5月2日付の記入で触れた米PBS放送のVictory in Pacificにも識者として登場していて,同番組の終戦に至る経緯の部分は彼の同書に依っていたようだ.同書では8月15日ではなく9月2日をもって日本の終戦と認識し,降伏文書署名後も続いた千島列島でのソ連による火事場泥棒的占領についても紙幅を割いている.北方領土云々と主張を続けるのであれば,本土での戦闘の記憶継承を沖縄で止めるのではなく,8月から9月まで続いた千島列島での戦闘まで含めるべきだ.しかし,何分8月15日の終戦の詔書の放送以降の事なので,北海道は兎も角,他の地域に住む日本人には,先の大戦は8月15日で終戦という「認識」の檻から未だ抜け出せないままだ.前述のPBSの番組での発言,そして同書中の昭和天皇についての記述から判断すると,日系とは言え所詮米国人であるのか,日本の歴史,特に近代における天皇と臣民の関係を理解していないのではないか,共和制の下で育った者の立憲君主制への偏見が何と無く窺われてならなかった.
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