第一巻は,「敗戦の原因」という11の節から主に構成されているように,同章の主題は,昭和天皇及び君側に在って輔弼にあたった臣下の敗戦責任論だ.司馬遼太郎等が口にして止まない「明治は良くて昭和は駄目」史観が何処より発しているのか,今まで真剣に考えたことがなかったが,大日本帝国の誕生から解体までを同時代的に体験した歴史の証人でもある蘇峰は,その源泉を,大東亜戦争降伏を通して,見事に指摘している.即ち,陛下の御親政の有無である.明治の元勲達が試行錯誤を経て明治末に到達した「大日本帝国」は,こと対外政策においては,天皇の御親政の下で元老の意見の一致を図る,という形で国家の最高意思を決定していた.この「親政」という点が肝要で,統帥・外交に関する実質的な最高意思決定は元老に丸投げして,儀式的な裁可のみを行うというような「君臨すれども統治せず」形ではなかったことだ.即ち,陛下が実質的に意思決定過程に関わることにより,元老間の最終的な意見調整を図る,ということが意図されていた.憲法上の規定は兎も角,実際の日々の意思決定過程において,そのような陛下の御親裁の存在を不文律として何とか機能していた大日本帝国が,もし,その礎石である筈の「御親裁」が実質的に抜けてしまったならば,どのような結末に至るか.ましてや,明治維新以来の国難体験を共有し,立場・意見の差異は在れ,不平等条約を改正して日本の不羈独立の回復を目指すという点では一致していた元老が全て鬼籍に入ったならばどうなるか.元老時代の個人的な維新体験共有という特殊状況によって可能だった政府最高首脳間の意思の疎通が,官僚組織の確立及び帝国議会の登場等の新しい状況下でも,果たして維持・機能できるかどうか.明治,大正,昭和の枢機を垣間見てきた蘇峰は,明治末期に維持できていた「まとまり」がその後徐々に崩れ,昭和二十年に無条件降伏という帝国崩壊の結末に至った根本原因は,御親政の欠如と喝破する.これまで世間に流布していた有力な史観では,戦前,昭和天皇は臣下の体たらくぶりを見るに見兼ねて敢えて御親裁を二回行った,という御親裁の希少さを評価する形だった.蘇峰の見方は,これとは全く逆で,御親裁の少なさという求心力の欠如が日本の政官界の分裂を助長・深化させ,その分裂状態の抜本的解消の機会であった筈の大東亜戦争においても,明治期の戦争指導におけるような積極的な御親裁の姿勢が見られず,分裂した陸海軍を含む官僚機構を束ね直して戦争遂行に邁進する指導が不十分で無条件降伏の帝国崩壊に至ってしまった,と.
この点に関連して,半藤一利氏あたりが持ち上げている終戦時の総理であった鈴木貫太郎に対する蘇峰の評価は全く逆となっている.占領下の言論統制によるものもあると思われるが,終戦時における大東亜戦争徹底抗戦派の意見・主張は,精々,玉音放送直前に,天皇陛下幽閉を画策した陸軍省の一部若手将校によるものが簡単に触れられる程度だった.無条件降伏のおかげで戦後日本が経済的に豊かにたのだから,何を今更,無駄死を増やすだけの戦争継続による本土決戦を唱えた先見性のない頑固者の主張に耳を傾ける必要があるのか,ということになるだろうか.蘇峰は,国体護持と無条件降伏による占領は矛盾していて,無条件降伏では皇室中心の日本の国体を守れる筈はない,という立場から,本土決戦により米に多大なる被害を与えて厭戦気分を誘発させ,何とか停戦状態に持ち込むという考えを持っていた(事実,米政府は硫黄島での米国側戦死者数に驚き,銃後における厭戦気分の醸成を恐れて,同島戦闘状況の報道について情報管制を強いていたことが分かっている).蘇峰は,国家の存亡をかけた大東亜戦争の指導において,中弛みを感じ,また日清・日露の戦役と異なり,戦争指導における陛下の影が薄いことに不満を持ち,陛下の積極的な戦争指導を主張して,その旨陛下に上奏すべく宮中への根回しを始めた.しかし,木戸内大臣の返答内容に呆れ,以後対宮中根回しをやめて,報道媒体上で臣民に訴える方法を選択した.また,鈴木貫太郎内閣が公式声明通り聖戦継続を実行すると蘇峰は信じて,鈴木首相に対して,「聖戦継続」における陛下の御親政の必要性等を彼是説いた.しかし,鈴木首相は,「聖戦継続」のためではなく「降伏」のために,蘇峰の助言を参考に,陛下から「終戦」のための御聖断を引き出した.狡猾な鈴木首相の人物を見抜けず,利敵行為をしてしまったと蘇峰は不明を恥じている.
蘇峰の戦争継続論は,単なる惰性によるものではなく,戦後においても国体を維持するためには何をすべきか,という点から始まっている.内外の歴史に精通する蘇峰は,無条件降伏論者の占領軍頼みの無邪気さに疑義を呈し,脇の甘さを色々指摘しているが,その後の歴史は,蘇峰が日記で危惧した通りの展開になり,昨今明らかになった皇室の存亡の危機に行き着いたと言えよう.
註:
19世紀の英国における立憲君主制の確立の裏には,Queen Victoriaの夫君であるPrince Albertの舞台裏の働き(産業革命による社会の歪みの是正政策等に対する王室の支持)があり,議会への丸投げ状態ではなかったことが分かっている.此の英王室と議会の関係をめぐる外面と内情の違い点についても蘇峰は確り理解していて,本書75頁に「しかし英国の政治の真髄,即ちヴィクトリア女皇もしくはエドワード七世などが,君主は垂拱[すいきょう]して政治に関与せずという法語あるにも拘らず,どしどし自己の所信を首相に訓諭し,殆ど首相をして悩殺し,忙殺し,困殺せしむるに至ったような事には,御意見が及ばず,また輔導の面々も,かかる事については,何も申上げなかったと思う.」と書き残している.
註:
副題にある『頑蘇夢物語』が蘇峰が命名した本来の日記名だった.しかし,出版社である講談社の意向等による書名変更であることが,巻頭の「刊行にあたって」(5頁)の中で断られている.故人の遺志に対する出版社の姿勢が行間に窺われる.
© 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/05/2006/ EST]
この点に関連して,半藤一利氏あたりが持ち上げている終戦時の総理であった鈴木貫太郎に対する蘇峰の評価は全く逆となっている.占領下の言論統制によるものもあると思われるが,終戦時における大東亜戦争徹底抗戦派の意見・主張は,精々,玉音放送直前に,天皇陛下幽閉を画策した陸軍省の一部若手将校によるものが簡単に触れられる程度だった.無条件降伏のおかげで戦後日本が経済的に豊かにたのだから,何を今更,無駄死を増やすだけの戦争継続による本土決戦を唱えた先見性のない頑固者の主張に耳を傾ける必要があるのか,ということになるだろうか.蘇峰は,国体護持と無条件降伏による占領は矛盾していて,無条件降伏では皇室中心の日本の国体を守れる筈はない,という立場から,本土決戦により米に多大なる被害を与えて厭戦気分を誘発させ,何とか停戦状態に持ち込むという考えを持っていた(事実,米政府は硫黄島での米国側戦死者数に驚き,銃後における厭戦気分の醸成を恐れて,同島戦闘状況の報道について情報管制を強いていたことが分かっている).蘇峰は,国家の存亡をかけた大東亜戦争の指導において,中弛みを感じ,また日清・日露の戦役と異なり,戦争指導における陛下の影が薄いことに不満を持ち,陛下の積極的な戦争指導を主張して,その旨陛下に上奏すべく宮中への根回しを始めた.しかし,木戸内大臣の返答内容に呆れ,以後対宮中根回しをやめて,報道媒体上で臣民に訴える方法を選択した.また,鈴木貫太郎内閣が公式声明通り聖戦継続を実行すると蘇峰は信じて,鈴木首相に対して,「聖戦継続」における陛下の御親政の必要性等を彼是説いた.しかし,鈴木首相は,「聖戦継続」のためではなく「降伏」のために,蘇峰の助言を参考に,陛下から「終戦」のための御聖断を引き出した.狡猾な鈴木首相の人物を見抜けず,利敵行為をしてしまったと蘇峰は不明を恥じている.
蘇峰の戦争継続論は,単なる惰性によるものではなく,戦後においても国体を維持するためには何をすべきか,という点から始まっている.内外の歴史に精通する蘇峰は,無条件降伏論者の占領軍頼みの無邪気さに疑義を呈し,脇の甘さを色々指摘しているが,その後の歴史は,蘇峰が日記で危惧した通りの展開になり,昨今明らかになった皇室の存亡の危機に行き着いたと言えよう.
註:
19世紀の英国における立憲君主制の確立の裏には,Queen Victoriaの夫君であるPrince Albertの舞台裏の働き(産業革命による社会の歪みの是正政策等に対する王室の支持)があり,議会への丸投げ状態ではなかったことが分かっている.此の英王室と議会の関係をめぐる外面と内情の違い点についても蘇峰は確り理解していて,本書75頁に「しかし英国の政治の真髄,即ちヴィクトリア女皇もしくはエドワード七世などが,君主は垂拱[すいきょう]して政治に関与せずという法語あるにも拘らず,どしどし自己の所信を首相に訓諭し,殆ど首相をして悩殺し,忙殺し,困殺せしむるに至ったような事には,御意見が及ばず,また輔導の面々も,かかる事については,何も申上げなかったと思う.」と書き残している.
註:
副題にある『頑蘇夢物語』が蘇峰が命名した本来の日記名だった.しかし,出版社である講談社の意向等による書名変更であることが,巻頭の「刊行にあたって」(5頁)の中で断られている.故人の遺志に対する出版社の姿勢が行間に窺われる.
© 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/05/2006/ EST]