波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

田中利幸著"Japan's comfort women"とNHK番組『アジアの従軍慰安婦』

2007-04-28 23:12:30 | 読書感想

今月上旬提出された米国連邦議会調査局による2007年版慰安婦報告書では,証拠説明の部分でYuki Tanakaの"Japan's comfort women"を使っている.今季より波士敦Red Soxに移った松坂大輔投手の姓名は比較的長いため,現地の報道関係者は発音に苦労していて,名前の方は,Dice-K(骰子-K)と発音するよう心がけているようだ.此のように,欧米人向けに名前を縮めた源氏名(「健太郎」がKennethの愛称のKen(健)とか)を使っている海外在住の日本人は沢山いて,田中利幸のYukiもそのような例と思われる.日本共産党の『赤旗』が御丁寧にも「由紀」と漢字化していたが,身内系の研究者の人名録も確り更新していないのだろうか.最近日本の網頁界で,Yuki Tanakaと田中利幸の同一性について彼是論じられていたが,網路通販のAmazon.comで同書の中身を覘けば当該同一性は一目瞭然だったはずだ.米国にしろ,英国にしろ,当地で発行し著作権を取得している単行書は,大抵標題紙の裏に書誌情報が刷り込まれている.Amazon.comで同書の標題紙裏頁を見ると,目録上で使われる著者標題には,標題紙にある通名のYuki Tanakaではなく,Tanaka, Toshiyuki 1949-と本名の方が使われているのが分かる.このあたりの作業は,米国の大学或いは大学院でResearch Paperの書き方の手解きを受ければ,当たり前田の餅幹(cracker)で,最近は日本の大学でも論文の書き方の一環として指導している筈だが.

田中利幸の慰安婦研究の人脈を知るため,Japan's comfort womenの謝辞の部分を読むと,以下のような興味深い箇所があった(pp. xvii-xviii):

In late 1995 and early 1996 I was asked to conduct research at the US National Archives in Maryland by Mr. Omori Junro, a director of the TV documentary section of NHK (Japan Broadcasting Commission), for a documentary project. My assignment was to find documents that would reveal why, at the end of World War II, the US military authorities were not interested in prosecuting the Japanese who had been responsible for the sexual exploitation of vast numbers of so-called "comfort women," despite their clear knowledge of this matter. [中略] If I had not been given the opportunity to visit the US National Archives twice, both times at the expense of NHK, the content of this book would have been very different. [中略] The NHK documentary entitled Asian Comfort Women was broadcast in December, 1996.

ここで言及されている記實的記録番組とは,1996年12月28日に放映された『NHK・ETV特集 アジアの従軍慰安婦・51年目の声』(或いは,同月30日放映のNHK特集?)と思われる.このNHKのOmoriという人物についてgoogleしてみたが,これといった情報に出会わなかった.日本在住の皆々様から頂いた有難い受信料が,此の手の(advocacy)研究者の研究の肥し・国際的評判,そして米国下院の対日非難決議のための攻撃材料に使われているということを,保守系のNHK受信料支払者が知ったら,どの様な感慨を催すだろうか.
 © 2007 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:4/28/2007/ EST]


徳富蘇峰著 『頑蘇夢物語』[終戦後日記] 一巻を読んで (其の一)

2006-08-05 17:57:27 | 読書感想
 第一巻は,「敗戦の原因」という11の節から主に構成されているように,同章の主題は,昭和天皇及び君側に在って輔弼にあたった臣下の敗戦責任論だ.司馬遼太郎等が口にして止まない「明治は良くて昭和は駄目」史観が何処より発しているのか,今まで真剣に考えたことがなかったが,大日本帝国の誕生から解体までを同時代的に体験した歴史の証人でもある蘇峰は,その源泉を,大東亜戦争降伏を通して,見事に指摘している.即ち,陛下の御親政の有無である.明治の元勲達が試行錯誤を経て明治末に到達した「大日本帝国」は,こと対外政策においては,天皇の御親政の下で元老の意見の一致を図る,という形で国家の最高意思を決定していた.この「親政」という点が肝要で,統帥・外交に関する実質的な最高意思決定は元老に丸投げして,儀式的な裁可のみを行うというような「君臨すれども統治せず」形ではなかったことだ.即ち,陛下が実質的に意思決定過程に関わることにより,元老間の最終的な意見調整を図る,ということが意図されていた.憲法上の規定は兎も角,実際の日々の意思決定過程において,そのような陛下の御親裁の存在を不文律として何とか機能していた大日本帝国が,もし,その礎石である筈の「御親裁」が実質的に抜けてしまったならば,どのような結末に至るか.ましてや,明治維新以来の国難体験を共有し,立場・意見の差異は在れ,不平等条約を改正して日本の不羈独立の回復を目指すという点では一致していた元老が全て鬼籍に入ったならばどうなるか.元老時代の個人的な維新体験共有という特殊状況によって可能だった政府最高首脳間の意思の疎通が,官僚組織の確立及び帝国議会の登場等の新しい状況下でも,果たして維持・機能できるかどうか.明治,大正,昭和の枢機を垣間見てきた蘇峰は,明治末期に維持できていた「まとまり」がその後徐々に崩れ,昭和二十年に無条件降伏という帝国崩壊の結末に至った根本原因は,御親政の欠如と喝破する.これまで世間に流布していた有力な史観では,戦前,昭和天皇は臣下の体たらくぶりを見るに見兼ねて敢えて御親裁を二回行った,という御親裁の希少さを評価する形だった.蘇峰の見方は,これとは全く逆で,御親裁の少なさという求心力の欠如が日本の政官界の分裂を助長・深化させ,その分裂状態の抜本的解消の機会であった筈の大東亜戦争においても,明治期の戦争指導におけるような積極的な御親裁の姿勢が見られず,分裂した陸海軍を含む官僚機構を束ね直して戦争遂行に邁進する指導が不十分で無条件降伏の帝国崩壊に至ってしまった,と.
 この点に関連して,半藤一利氏あたりが持ち上げている終戦時の総理であった鈴木貫太郎に対する蘇峰の評価は全く逆となっている.占領下の言論統制によるものもあると思われるが,終戦時における大東亜戦争徹底抗戦派の意見・主張は,精々,玉音放送直前に,天皇陛下幽閉を画策した陸軍省の一部若手将校によるものが簡単に触れられる程度だった.無条件降伏のおかげで戦後日本が経済的に豊かにたのだから,何を今更,無駄死を増やすだけの戦争継続による本土決戦を唱えた先見性のない頑固者の主張に耳を傾ける必要があるのか,ということになるだろうか.蘇峰は,国体護持と無条件降伏による占領は矛盾していて,無条件降伏では皇室中心の日本の国体を守れる筈はない,という立場から,本土決戦により米に多大なる被害を与えて厭戦気分を誘発させ,何とか停戦状態に持ち込むという考えを持っていた(事実,米政府は硫黄島での米国側戦死者数に驚き,銃後における厭戦気分の醸成を恐れて,同島戦闘状況の報道について情報管制を強いていたことが分かっている).蘇峰は,国家の存亡をかけた大東亜戦争の指導において,中弛みを感じ,また日清・日露の戦役と異なり,戦争指導における陛下の影が薄いことに不満を持ち,陛下の積極的な戦争指導を主張して,その旨陛下に上奏すべく宮中への根回しを始めた.しかし,木戸内大臣の返答内容に呆れ,以後対宮中根回しをやめて,報道媒体上で臣民に訴える方法を選択した.また,鈴木貫太郎内閣が公式声明通り聖戦継続を実行すると蘇峰は信じて,鈴木首相に対して,「聖戦継続」における陛下の御親政の必要性等を彼是説いた.しかし,鈴木首相は,「聖戦継続」のためではなく「降伏」のために,蘇峰の助言を参考に,陛下から「終戦」のための御聖断を引き出した.狡猾な鈴木首相の人物を見抜けず,利敵行為をしてしまったと蘇峰は不明を恥じている.
 蘇峰の戦争継続論は,単なる惰性によるものではなく,戦後においても国体を維持するためには何をすべきか,という点から始まっている.内外の歴史に精通する蘇峰は,無条件降伏論者の占領軍頼みの無邪気さに疑義を呈し,脇の甘さを色々指摘しているが,その後の歴史は,蘇峰が日記で危惧した通りの展開になり,昨今明らかになった皇室の存亡の危機に行き着いたと言えよう.

註:
 19世紀の英国における立憲君主制の確立の裏には,Queen Victoriaの夫君であるPrince Albertの舞台裏の働き(産業革命による社会の歪みの是正政策等に対する王室の支持)があり,議会への丸投げ状態ではなかったことが分かっている.此の英王室と議会の関係をめぐる外面と内情の違い点についても蘇峰は確り理解していて,本書75頁に「しかし英国の政治の真髄,即ちヴィクトリア女皇もしくはエドワード七世などが,君主は垂拱[すいきょう]して政治に関与せずという法語あるにも拘らず,どしどし自己の所信を首相に訓諭し,殆ど首相をして悩殺し,忙殺し,困殺せしむるに至ったような事には,御意見が及ばず,また輔導の面々も,かかる事については,何も申上げなかったと思う.」と書き残している.

註:
 副題にある『頑蘇夢物語』が蘇峰が命名した本来の日記名だった.しかし,出版社である講談社の意向等による書名変更であることが,巻頭の「刊行にあたって」(5頁)の中で断られている.故人の遺志に対する出版社の姿勢が行間に窺われる.

 © 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/05/2006/ EST]

『徳富蘇峰 終戦後日記-頑蘇夢物語』平成18(2006)年 講談社刊

2006-08-03 23:41:21 | 読書感想

 先月末,網路書店の新刊書頁を覘いてみた際,徳富蘇峰の終戦後日記が出版されたことを知った.早速航空便で入手し,昨夜早足で捲ってみた.終戦直後において,皇室の短期的な行末だけでなく長期的な危機まで蘇峰は予想し警告を書き留めているが,昨今日本から伝わる主要報道機関等の皇室への不遜な態度・扱い等を思うと,蘇峰の心配が正に的中したと言わざるを得ない.戦前を知る日本人が老齢化或いは鬼籍に入るに従い,占領時に蒔いて置かれた種が今満開になったという趣だろうか.今の日本社会を実質的に取り仕切っている世代は,凡そ約四半世紀前「戦争を知らない子供たち」に共感した世代であり,それ以前の世代,戦中・戦前の焼きが入った先輩達と違い,「大日本帝国」の尻尾の痕跡を留めない者達である以上,理の当然の事態の出来(しゅったい)だろうか.
 米国占領時代の洗脳が未だ抜けない同時代体験者やその洗脳継承者達は,蘇峰を戦前の便乗国粋者の代表として切捨て,完全に忘却している.彼の原典を一応読み直すという労を厭い,占領軍やその御先棒を担いだ日和見日本人の言を相変わらず鵜呑みにして,占領の洗脳の継承を無意識或いは意図的に拡大再生産しているのだ.今回蘇峰の主張を読み,彼が,戦前・戦中に跋扈した時局便乗的な国粋主義的知識人というような安っぽい標簽では代表出来ない思想・行動規範の持ち主だったことが良く分かった.彼の主張する日本人の拠り所としての皇室中心主義は,戦前の昭和を席捲した皇国史観とは全く趣を異にしている.又,国家元首としての天皇陛下の責任について,明治天皇との比較で,昭和天皇御自身の統帥責任,強いて言えば先帝の君徳輔導の任に在る臣たちが陛下の統帥責任について為すべきことを為さなかったのではないか,という批判を展開している.即ち,[日本の皇室を取り巻く特殊条件を認識することなく],英国王室の「君臨すれども統治せず」の表面的模倣に終わり,開戦及び終戦における関わりは別としても,重大な戦中において,明治天皇のような腰の入った役割を果たさなかったのではないか,という神懸り的な右翼からすると非常に「不敬」的な評価で,明治,大正,戦前昭和の日本を同時代的に体験し,各時代の各界指導者との面識を有し,言論人だけでなく歴史家としての側面を持つ蘇峰ならではの真骨頂が発揮されている.
 軽く目を通して気になったのは,日記中に,「(以下,省略)」という終わり方のものが少なからず存在することだ.蘇峰が後世の日本人の為に残した日記にもかかわらず,同書冒頭の「凡例」において,『...日記『頑蘇夢物語』一巻から五巻までの内容を吟味し,小社編集部で選択,収録したものである』,と断っていることだ.昨今の日本の報道機関・出版社で横行中である,著作者に断りなしの内容改変・割愛を考慮すると,講談社が,本日記の刊行後,関係者の抗議を恐れる余り,自己検閲し割愛したのではないか,という揣摩臆測に陥りそうだ.
 同日記には,味わい深い件が沢山含まれているので,後日の記入において触れてみたい.
 
  © 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/03/2006/ EST] 


別宮暖朗著『旅順攻防戦の真実』,竹内洋他編『日本主義的教養の時代』

2006-07-16 17:47:06 | 読書感想
 前者は副題『乃木司令部は無能ではなかった』にある通り,今なお日本人の間に根強く浸透している司馬遼太郎製「日露戦争史観」への批判である.丁寧に当時の内外の情報を総合し,また,その後の日本人の日露戦争史観を左右した戦史書に対して,刊行の意図その他を読み解き,旅順攻防戦を再評価している.端的に言えば,司馬達が主張してきた乃木無能論は正当な評価とは言えず,乃木希典に欠け,児玉源太郎が持ち合わせていたものは,「[日本軍]一個師団をすり潰して,二〇三高地を決戦の場として追及」する「強靭なる神経」(文庫版344頁)という「優しさ」(裏返せば,非情さ)と,筆者は見ている.また,同著者は,司馬遼太郎の「祖国防衛戦争」としての日露戦争という史観が,歴史法則主義(historicism)の一例としての馬克思(Marx)主義に基づく史観の亜流と直截的に批判している(別宮氏は,「歴史法則主義」という用語を用いていないが,359頁の最後に書かれている歴史観は,karl Popperが批判して止まなかった歴史法則主義そのもの).

 一方,竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代 大学批判の古層』は,昭和の初め,治安維持法違反で左翼系の学生運動が沈黙させられた後,昭和十二年頃から猛威を振るった右翼系の学生運動についての研究論文集で,左翼系大学人・文化人が取り仕切る戦後の学界では,悪夢或いは恥部として忘却されていた話題で,七つの個別の論文から構成されている.二章程読んだ段階だが,左翼系学者等が戦後刷り込んできた固定観念を打ち破るような情報が散見された.例えば,第五章の「戦時期の右翼学生運動 東大小田村事件と日本学生協会」を読むと,戦中に存在した国家主義系学生団体「日本学生協会」及びその対民間向け姉妹団体「精神科学研究所」が,開戦の翌年の昭和17年頃から早期講和を主張し,遂には東條内閣打倒の論陣を張り,怒った首相東條英機が司法省や内務省を急かしたものの埒が明かないため,陸軍省の憲兵隊によって同団体を「共産主義者」という名目で検挙・弾圧したという件である(189~203頁).因みに,この検挙事件や東大小田村事件に登場する「小田村寅二郎」は,昨今話題の「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛で登場する「生長の家」の関係者で,同団体の出版活動を行っている日本教文社から,当時の回顧録『昭和史に刻むわれらが道統』を昭和53(1978)年に同社から刊行している.

© 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/16/2006/ EST]

徳富猪一郎[蘇峰]著 『勝利者の悲哀』 昭和27(1952)年 講談社刊

2006-07-09 22:24:52 | 読書感想
 以前,故坂本多加雄の著作中で言及されていた徳富蘇峰の晩年の著作『勝利者の悲哀』(追放中の昭和25年初頭執筆,軍事占領終了後の追放解除により昭和27年講談社より出版)が漸く手に入った.昭和25年に刊行された故三田村武夫氏の『戦争と共産主義』ほど無残な酸性化は進行していないが,やはり手荒な頁捲りでは破損する段階まで酸性化が進んでいる.蘇峰の大著『近世日本国民史』執筆の裏には,世間で殆ど知られていない古文書の閲覧だけでなく,新刊の英文情報も入手し参考にするという奥の深い情報蒐集活動が研究者によって指摘されている.『勝利者の悲哀』も,そのような情報蒐集の裏打ちを基に書き上げられたことが,随所にちりばめられた引用から分かる.安全保障の観点(食糧・国防問題)から肇国(ちょうこく)以来の日本の歴史を概観した上で,日米開戦を已む無く選択した日本の立場を弁護すると共に,米国の立場も推し量った上で反省し,かつ,米国の東洋政策について忌憚ない批判も提示している.米国が「国際心理学には殆ど無頓着(7頁)」なため,東亜において対日,対蘇,対支政策で誤りを犯し,防共(防蘇)の長城として存在していた日本に戦争を仕掛け,当該長城を破壊する形で日米戦の「勝利者」となりながら,自ら破壊したばかりの長城の身代わりをせざるを得ないという「悲哀」を指摘する.その「悲哀」には,東亜の新同盟国として日本から乗り換えた支那の国民党が,蘇聯の支援を受けた共産党に打ち負かされ,また,その蘇聯を蘇生させたのは米国の軍事援助であったという「悲哀」も含まれる.
 戦後の占領下の情報統制・海外情報入手困難な状態で,蘇峰の慧眼は確り米蘇対決の冷戦激化という世界の動きを掴み,朝鮮戦争が勃発する数ヶ月前の昭和25年一月の段階で,新憲法第九條の危険性,すなわち,占領終了=米軍撤退の際の東亜における軍事的空白[丸腰状態の日本,警察予備隊は執筆当時未だ存在していない]と日本の居候化[米国への軍事的依存]の兆候を憂慮している.前者については,朝鮮戦争が勃発し,日本の再軍備が始まり,日米安全保障条約締結という形で何とか危機を回避できた.後者の憲法第九条の麻薬的な軍事思考停止(「痴人の夢(32頁)」)効果については,蘇峰が昭和25(1950)年の朝鮮戦争勃発以前の段階で危惧した通り,その後蔓延状態となり,半世紀近く経た今日でも,現実よりも言葉から物事を理解しようとする高学歴系の人間に蔓延している.この「痴人の夢」又は米国に対する日本の永遠の「居候」又は「食客」状態こそ,元防衛庁官僚の太田述正氏が日頃批判して止まない「吉田ドクトリン」の墨守に他ならない.
 ところで,先週,日本の草思社が次の翻訳書を出版した:
 
 謝幼田著、坂井臣之助訳『抗日戦争中、中国共産党はなにをしていたか』
 (原著名は『中共壯大之謎─被掩蓋的中國抗日戰爭真相』(英文題名:The Communist in China’s War Against Japan(1931-1945)),2002年刊行)
 
 Amazon.co.jp掲載の同書の「商品の説明」には,「...国民党との内戦勝利・政権奪取を念頭に、日本と正面から戦うことを回避し、敗北後の逃避行を「長征」と言い換え、局地的ゲリラ戦の勝利を誇大宣伝しながら力を温存し、軍の勢力を急速に拡大していったことを明らかにしてゆく。共産党が編み出した「抗日」神話の虚構を突き崩す瞠目の書」と紹介されている.この中共による「逃避行⇒長征」という詭弁に蘇峰は騙されることなく,以下の様に事態を見ていた:
中共軍は、一時はその本據である延安までも失ひ、恰かも無宿者の如く、中國の各地を右往左往に流浪していゐた。然るにそれがその元氣を盛り返した所以は、何であるか。一言にして云へば、ソ聯の手から隈なく満洲を受取つたためである。満洲を受取つた中共軍は、宛かも人を喰つた虎の如く、當る可らざるの勢いを以って、山海關から北支に雪崩れ込んで來た。(『勝利者の悲哀』24-25頁)
 御目出度い米国の対支政策失敗には,此の外にも,米国の取り持った一年余りの休戦・合同交渉が中共軍側の回復・増強に利用されたことがあげられる.
 
 © 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/09/2006/ EST] 

James Risen著State of Warを読んで 下

2006-01-04 23:55:33 | 読書感想

 結局,昨夜は夜更かしをして同書を最後まで読んでしまった.阿富汗(Afghanistan)での麻薬用芥子栽培を何故米国は黙認し,米国務省が主張していた芥子栽培撲滅対策が実行に移されないのか(大統領の意向に対してもあれこれ理屈をつけて無視できる軍事重視の国防省の強力な反対,閣内で国防長官に勝てない力不足の前国務長官),核兵器保有の野心を持つ国を偽核兵器設計図で釣って開発を脱線させることを目指した「遣らせ」横流し計画など(例えば,露西亜系亡命研究者による墺太利(Austria)での伊朗(Iran)釣り),国内での爆破事件頻発まで回教原理主義過激派との腐れ縁で米からの情報が過激派側に筒抜けになっていた頼りない同盟国沙特阿拉伯(Saudi Arabia)等が同書の七,八,九章で扱われている.
 今日も伊拉克(Iraq)で自爆事件があり死者多数が発生したが,第二次湾岸戦争があった2003年の秋の段階において,既にCIAの巴格達(Bagdad)支部の幹部は占領の先行きに危機感を抱き,真実を大統領を始めとする米政権中枢に直言居士的に諫奏(かんそう)したそうだが,その代わり彼が得たのは米本国への人事異動だったとか.官僚制の歴史を振り返ればよくある話だが,伊拉克(Iraq)占領,ひいては米国の外交・軍事を牛耳る国防総省に対する弱小CIAのあからさまな挑戦と見做され,同省長官以下の激昂を買ったことは間違い.
 © 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:1/4/2006/ EST]

James Risen著State of Warを読んで 上

2006-01-03 22:16:19 | 読書感想

 元日の記入で触れたJames Risenの本が正月休み明けの今日発売になったので,早速手に入れ読み始めた.本文は二百二十頁程で,六割程度読んだ感想等を忘れないうちにまとめておくことにする.
 先月から米国で耳目を集めている国内盗聴の問題は,第二章The Program(39-60頁)で扱われている.国内盗聴はFBIの島,NSAはそれ以外という島の割り振りが崩れ,NSAによる内国野放図盗聴等が行われるようになった背景(大義名分)は,米国外の地域間の国際通信(電話・電子電子郵件(e-mail))も米国内を経由するという現在の通信の状況があり,破壊工作絡みの情報が米国経由で流れているのをむざむざ指を銜(くわ)えて見ているだけで良いのか,ということらしい.勿論,大義名分が如何なる物であろうとも,裁判所や議会の監視がなくては,脱線の目的外利用が発生してもおかしくはない.同書を途中まで読んでみて,既報どおりの情報というか,現米政権において安全保障政策を実質的に取り仕切っているのは副大統領と国防長官であり,前大統領補佐官(国家安全保障担当)で現国務長官は両者に対抗できる実力を持っていない,前CIA長官は国防長官との情報をめぐる政府内の縄張り争いを当初から諦めていた節があり,大統領には上手く取り入ることが出来たが,政権内で各機関発の情報の統合・取りまとめにおいて指導力を発揮できず,上記実力者二名の壟断を許してしまった,などが報じられている.前政権の伊朗(Iran)の核兵器開発の重視策により,第二次湾岸戦争前,CIAが伊拉克(Iraq)内に持っていた情報源はほんの僅かで,国防省が亡命者から得ていた信頼性に欠ける情報に抗することが出来ず,政権中枢が開戦の意思が固いことが明白になると,不偏の分析よりも保身による風見鶏的な迎合分析がCIA内の上から下まで幅を利かすようになり,一部例外的な努力もあったが,CIA内の縄張り争い等で効果を持たず,大量破壊兵器隠匿間違いなし=開戦という既定路線を方向転換できる組織的背骨をもっていなかった.因みに,前国務長官が国連で指摘した移動型生物兵器実験室は,独逸発の全く信頼できない一亡命者からの未確認情報で,CIAの欧州幹部が演説原稿に目を通して仰天,削除するよう本部に注進したにもかかわらず無視されたようだ.また,二十代半ばの駆け出し分析官の偏執的な主張がCIA幹部と平の全体会議で幹部に認められるというような下克上状態ではCIAの分析能力の低下の程が分かる(辻政信に振り回された旧日本陸軍が思い出されてならない).伊拉克が尼日爾(Niger)から核物質を入手しようとしたという(偽)文書を米政権は証拠として取沙汰したが,実のところ,伊拉克にはuranium鉱石を採掘できる鉱山があり,核物質をわざわざ他国に求める必要はなかったそうだ.
 
© 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:1/3/2006/ EST]

故黒羽茂氏の日英同盟・日米外交に関する著作について

2005-08-16 23:40:25 | 読書感想
 最近日英同盟成立前後の日本外交に関心を持つようになり,あれこれ情報に当たっていると,別宮暖朗氏の網站「第一次大戦」(http://ww1.m78.com/index.html)で日英同盟に関する網頁があり,故黒羽茂氏の著作が参考文献として挙げられていた.そこで図書館で彼の著作を調べてみると,黒羽氏は東北大の教授で,前述の網頁上に列挙されていた『日英同盟の軌跡』上下巻(1987年刊)は,1968年に出版された『日英同盟の研究』を基に書き上げられたものであることが分かった.即ち,『日英同盟の軌跡』上巻が『日英同盟の研究』と重なりあっている.また,1974年刊の『日米外交の系譜』は1968年出版の『太平洋をめぐる日米抗争史』とほぼ内容が重複していた.日米開戦の原因を分析した章を前者の方で読んでみたが,海南島占領については全く言及されていなくて,後者の巻末にある「日米関係年表」においても同島占領は昭和14(1939)年の欄には書き込まれていなかった.やはり,戦後流布した「常識」の影響から逃れられなかったのか,地政学あるいは地理学的な視点からの考察が不十分だったのか,それとも旧日本海軍の南進計画についての資料・情報が身近になかったためだろうか.黒羽氏は明治41(1908)年生まれで東京帝大文学部西洋史学科卒のなので,単なる市井の一庶民としてではなく,少壮歴史学者として大東亜戦争の推移を同時代的に把握できたはずなのだが.
©2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/16/2005/ EST]

東京裁判研究会編『東條英機宣誓供述書』洋洋社 昭和23(1948)年刊を捲って

2005-08-03 00:58:42 | 読書感想
 勝谷誠彦氏の網上日記『勝谷誠彦の××な日々。』(http://www.diary.ne.jp/user/31174/)の今月一日の記入中に同書が言及されていて,未だ此方に届いていない『月刊WiLL』9月号に関連記事が二本掲載されているようだ.図書館で同本を手に取ってみると,戦後初期特有の酸化が進行した更紙刷りで170頁程度の内容だった.供述対象期間は,東條英機が昭和15(1940)年7月22日に第二次近衛内閣の陸軍大臣に任ぜられ国政に関与し始めた頃から始まり,昭和18(1943)年頃までの間の重要事項について述べているが,同書の最後の方で同期間外の事柄についても供述を行っている.よって,当該対象期間以前の昭和14(1939)年の日本海軍による海南島占領(支那事変の枠組みを越えた「南進」)等は供述対象になっていないようで,日米衝突の歴史的経緯を丁寧に振り返る点では物足らない仕上がりと言える.東條英機は日米開戦時の内閣総理大臣という貧乏籤を引かされた者で,真の責任者達は別にいる,という史観がある.東條英機によって陸軍を追われた石原莞爾は戦後,東條英機は意見・思想などなかった者(⇒懸案を実直に執行する官僚程度の器)という評価を下した.政治家ではなく,究極の官僚であった以上,自分が首班指名を拝命する以前の内閣が積み重ねてきた意思決定を政治家的な決断で突如覆すというような荒業は出来るはずもなく,政策の連続性を重んじる素直な官僚的意思決定を行い,日米開戦に首相として立ち会っただけ,という見方だ.即ち,東條英機のような官僚的思考法に囚われていた者であれば,あの昭和16(1941)年10月の段階で組閣の大命を受ければ,同じ決定(日米開戦)に至ったはずだ,と.東條英機に関する最近の論議で余り見られないのが彼の戦争指導のやり方,特に彼のやり方に反発した連中への対処や始めてしまった戦争を何時どの様な形で終結させるかという大局的判断などについての批判だ.政策実施の詳細にまで拘りがちであった究極の官僚としての東條英機には,戦争継続という既定路線を忠実になぞるようなことには向いていたかも知れないが,和平を何時どの様に開くかというような不連続的意思決定=政治家的決断は不得意であったに違いない.なお,政権末期に戦争指導や和平をめぐって重臣達との間に生じた確執等については当該供述書では触れられていない.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/03/2005/ EST]

岡田益吉著『危ない昭和史 ―事件臨場記者の遺言』 上・下巻 昭和56(1981)年

2005-07-31 04:35:33 | 読書感想
 図書館で石原莞爾関係の本を探していた時に同本が目に入り,「海南島」の占領をどの様に扱っているか何気なく捲ってみたところ,従来の戦前史とは異なる史観が披瀝されていたので思わず借りてしまった.著者岡田益吉は,副題にあるように,大学関係の研究者ではなく,東日(現在の毎日新聞)の一記者だった.岡田は,戦前日本の転落の始まりを大正時代まで遡り,第一大戦後の大正10-11(1921-22)年に開催された華盛頓(Washington)会議での日英同盟破棄を英米との開戦に向かう転落の第一歩と見做し,更に,昭和5(1930)年倫敦(London)で締結された海軍軍縮条約をめぐる日本海軍内の混乱が,昭和7(1932)年の海軍関係者等による5.15事件を誘引して戦前の政党政治に止めを刺しただけでなく,その後日米衝突に至る日本海軍の「南進論」の発端になったと解釈している.また,従来の史観が昭和の動乱の発端を陸軍に求めすぎて,海軍が起爆剤的な役割を演じたことを無視していると批判的だ.
 これまで大正時代(1912-1926)の政局・国際関係については短期間であるため余り注意を払っていなかったが,同書により,百年前の日露戦争が戦前日本外交の頂点であり,その後,特に第一次世界大戦(1914-1918)後は日米衝突に向けて転落する一方だったことがわかった.支那における日本の勢力拡張を封じるため,支那と米国が提携して華盛頓(Washington)会議によって日英同盟を破棄に追い込んだ際,日本は東亜細亜において同盟国なしの孤立状態に追い込まれただけでなく,同盟国なしの自由度が日本の陸軍に満州その他で野放図的に展開することを許してしまい,また,日米の海軍衝突を防止する役割を果たしていた英国を失ったことから,日本の海軍は糸が切れた凧的状態で独自の南進策に傾斜し,結局英米双方に対して衝突することになった,と言えるかもしれない.
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