波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

米国での散髪:米国人の手仕事観

2005-08-08 23:33:34 | 米国事情
 今日は3ヶ月ぶりの散髪屋だった.米国での散髪屋体験は北東部の2州だけしかないが,日本のall-in-one服務,即ち,調髪,洗髪,髭剃り他を全て含めたものが標準であるのに対して,米の場合は,調髪のみが標準で,洗髪,髭剃り他は別料金となる.勿論日本同様,髪型にこだわる連中は,理髪店ではなく,高い料金を払って美容院に行くことになる.切った髪の毛の後始末もいい加減なもので,襟元・頭その他に髪の毛が残ることになるが,平均的な米人客は全く気にしないようだ.以前触れた,教科書・帳面が雨に濡れも,土足の床に寝転がっても平気という感覚と同系統になるだろう.洗髪も髭剃りも自宅で自分で出来るのだから,金を払ってまでやってもうらうものでは無い,という認識・金銭感覚に由良するのもかもしれない.
 米国人の手仕事振りや手仕事に対する認識をあれこれ観察していると,日本の「匠」というか,「何々の手仕事に神業を見た」云々というような手仕事にauraを感じる.或は神秘的なもの見出すことが米国人には無いのではないかという印象を持つ.換言すれば,特定の個人でしか出来ない手仕事は確かあるかも知れないが,基本的に技術は万人に伝授可能であり,特により良い機械の発明・工夫によってそれは実現可能だ,という万人平等主義的な技術観だ.この背景には,農作業・大工仕事・漁猟その他何でも集団で助け合って生き延びてきたという旧大陸からの入植者の伝統があると思われる.また,21世紀の現在でも,米国の家庭持ちの男にとって大工仕事他を見事にこなせることが望ましい父親像の一つであるのも,この名残かも知れない.
 この万人平等主義的な技術観辺りが,先の大戦において日米間の総動員の差異を生んだ遠因ではないか,と思われてならない.即ち,限られた時間の枠内で,如何に大量の技師,通訳,操縦士を効率よく養成するか,という課題が与えられた場合,日本的な職人観からすると,全ての職人に神業を求める或は求道者的な姿勢を要求するが,そのようにして獲得した技能は門外不出的な扱いになり,ある熟練工が生み出した高度な技能を他の職工全てが共有して職工全体,産業全体の技能の更なる底上げを図るというような姿勢が生まれにくいのではないか.各界に名人・達人は確かに存在していたが,全体でみると技能のばらつきが大きく,粒揃いになっていなかったのではないか.
 現在の日本車の信頼性は此の様な神業的なものへの拘り無しには考えられない.簡単に実現可能な所に目標を設定してそれで十分とするような姿勢では,確かに日本車が要求している精度を満たすことは不可能に違いない.しかし,時間的制約を超過して納期を逸して神業的なものを達成することよりも,所与の時間的制約内で使用に十分耐えるものであれば十分という時間的縛りが重要な物事においては,米国的な最低限の条件満足ならば可という仕事のやり方の方が秀でているのは言うまでもない.細部に拘り全体を見失うという日本人にありがちな失敗は,此の様な職人観や手仕事に対する神秘感と表裏一体のものではないだろうか.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/08/2005/ EST]

Eye-contactの作法

2005-07-23 01:15:58 | 米国事情
 大西洋の反対側に位置するためか,英国での連続爆破未遂事件の迸(とばっち)りを見事に受け,波士敦の主要地下鉄駅でも厳つい顔の警官が頻繁に見廻るようになってしまった.このような状況の下で,普通の日本人ならば,西原理恵子が描いた岸和田市のだんじり祭の場面にあった,「ええか,ここのおっちゃんは野生の動物と一緒やからな.目をあわせたらあかんで.ノドボトケ見ながら話しいや」(『できるかな』78頁) ではないが,明後日の方向を見て,警察官と目が合わないようにするに違いない.天皇陛下の天顔を庶民が平視することさえ不敬と見做されたような過去を持つ社会では,演説等は別として,eye-contactは原則的に避けるべきものと思われる.十余年の在米生活からあれこれ判断すると,eye-contactの作法は場所(国)や人種によって明らかに違い,日本の作法では予想外の結果を招きかねない.
 100%とは言えないが,米国では原則的にeye-contactは進んでやり,尚且つ微笑や挨拶(HiやHow're you dong?)を添える,という不文律があると思われる.此方の面接攻略本では,初対面の人間と会って握手をする際は相手と必ずeye-contactをとることが書かれているが,そのような際,相手にeye-contactを避けるような素振が窺われれば,相手にとって自分が余り会いたくない人間であることを悟らなくてはいけない.此方の大型電器店の出口では,個人の万引きや知り合いの店員との連係による万引きを防止するため,万引き自動警備装置だけでなく,係りの店員が買物を済ませた客の袋の中身と領収書を一々確認している処が多い.このような状況の場合,係りの店員とeye-contactを避けたり,目線が彼方此方動いて据わっていないというのは,何かやましい事をしている証拠と見做される可能性が高い.米国の若い女性については,eye-contactの際の微笑が,当人の気立て・育ちの良さの証拠とみなされ,相手に好感度を与えるという不文律があるようだ.問題なのは,男女共学など御法度というような社会から米国に来た男達の中には,米国娘の小さいときから仕込まれた条件反射的社交辞令微笑を当人に対する特別な感情の現れと誤解する初心な輩が居る事だ.また,儒教圏から米国に来たばかりの若い女性にもこのような不文律を理解していない者が多く,自国での教えと思われる,見知らぬ所に行ったら相手(特に若い男)に隙を見せないよう仏頂面(ぶっちょうづら)を保つ,という趣の反応を相手に示して,自分の好感度を態々落としている.一方,男対男の場合,歩道上で偶然に目が合った見知らぬ同士間でも,"What's up"とか"How're you doing?"等と声を掛け合うことが多いが,これも,日本人間の会釈はたまた「山」,「川」という合言葉と似たような役割を果たしている(米社会への新参者か,どうか)とも見做せる.
 万国共通のeye-contactの作法の一つは,酒・薬物等の影響で何か素振がおかしい相手とは絶対目を合わせない,というものだろうか.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/23/2005/ EST]

米連邦最高裁欠員判事の指名

2005-07-21 01:41:04 | 米国事情
 以前の記入で米連邦最高裁判事の一人が引退し,空席状態になったことを書いたが,19日の夜,判事候補が指名された.本来ならば,今月末になると予想されていた指名発表が急遽繰り上げされた背後には,米報道媒体上で大統領顧問のKarl Roveが漏洩事件で最近乱れ打ち状態にあり,報道媒体の注目の的を逸らす火消し的意図があったとされている.
 今回指名された候補(John G. Roberts, Jr.)は,現政権誕生後,周到に用意されていた「養殖候補」の一人と思われる.共和党政権下で経験を十分に積んだ忠誠度が鉄板の候補者群から,粒よりの候補を連邦高裁に予め送り込んでおくが,連邦議会上院での承認過程で批判の手ががりを与えないように,連邦高裁での任期は短めにして判例における意見から正体が露見しないようにする,という養殖法だ.安定した人間社会の建前的規範の一つとして,人を疑うよりも信じるべきである,というものがある.そのような規範の下で,他意を密かに抱いている者に対して,「他意あり」とあからさまに批判することは非常に難しい.「性根が素直でない」と批判を受けるのが関の山だ.これと同様の状況が,同指名候補の承認過程で生じるに違いない.当該指名候補が共和党政権下で果たした役割や彼の妻が妊娠中絶反対団体の役員であること等から総合すると,10月より始まる次期連邦最高裁開期中に,妊娠中絶に関する上告があった場合,現職のKennedy判事が保守派に付くと,1973年の妊娠中絶を合法化した判例は,形骸化(合法であるが,その他の法的拘束により医者が実質的に実施不可能)されるか,名実ともに覆されるか,の何れかになるだろう.これも,現政権に投票した保守系鉄板福音主義者その他に対する報酬の一つである.
 中絶反対の立場を米語で通称"pro-life"と読んでいるが,これは外見と中身が一致していない名付け方だ.より正確な名称は"pro-birth"になる.彼等は,出産までは口を酸っぱくしてあれこれ説教を垂れるが,出産後の育児等の生まれた子供が社会の中で健やかに育つための政策その他には殆ど関心がない.十代妊娠の母子家庭で育った子供が,生活環境の劣悪さから,社会に様々な危害を引き起こし,その対策のため納税者の税金が多大に出費されたとしても気に留めない.何故なら,彼等は,大抵,養子と基督教で全てが解決する,というような単純な世界観で社会の物事を見ているからだ.あの悪名高い禁酒法を成立させた思考と同根の発想だ.確かに節度に欠けた飲酒が社会に問題を引き起こしていることは確かだが,それを御法度にしても,人間の性根は変え難く,却って,御法度以前以上の害毒を撒き散らしたことは否めない.妊娠中絶という手術が望ましくないのであれば,なぜ強姦事件等の際に用いられる妊娠防止薬の市販に反対したり,そのような妊娠防止手段が存在することを強姦被害者に伝えることに反対するのであろうか.また,彼等は阿弗利加等で猖獗(しょうけつ)をきわめているAIDSに対する拡散防止手段としてのcondomの配布に反対しているため,米共和党政権は米国の国連拠出金がcondomの配布等を含んだ家族計画等に支出されないようにしている.救える人々を救わず,AIDSは神の教えに背いた天罰と切り捨てるような立場が,果たして"pro-file"というような代物だろうか.結局,行き着くところは,基督教教父時代,自分の奔放な性欲に振り回された聖Augustineと性愛を肯定する立場の伊太利の司教Julinaとの間で交えられた性愛論争で,前者が多数派工作に勝利し,その後の基督教教義の正統に地位を得た時点になるだろうか.昨年発表されて調査によると,皮肉なことに,保守系福音主義が強い米南部の州では,自由主義傾向が相対的に強い北東部の州等と比較して,離婚率が非常に高い.これは,婚外での性交渉に対する宗教上の禁忌圧力が南部では高いため,後先考えずに,性交渉が原因で10代で結婚,後日自らの短慮を後悔して,あっさり離婚してしまう,とうい説明が説得力がある.
 1960年代の公民権の確立課程においては,人種隔離政策を維持してきた南部の州に対して,連邦法・判例による外圧を必要とした.あれから40年の間,公民権法等に見られる全国一律的法執行に反対する保守派は,米憲法修正第10条(本憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止されなかった権限は、それぞれの州または人民に留保される)を盾に,州権の国権に対する優越を主張して,保守化が進む連邦最高裁で数々の勝訴を引き出してきた.ところが,行政,立法,そして司法も自らの手中に収めようとしている今,inside out(裏返し)的に,従来あれ程嫌ったはずの国権を行使して,自らの価値観を全米に遍く浸透させようとしている.この辺りに,米保守派の正体,一般大衆に振りまく建前・見かけ(昔気質の一本気)とは全く異なる,御都合主義的な一環性の欠如が顕在している.
 来年,もし上記1973年の判例が覆され,且つ,薬物による妊娠防止等も実質非合法となれば,禁酒法と同じく,闇での中絶,特に未成年によるものが再浮上し,短慮の少女が若い身空で命を落とすという,1973年以前の世界が再現される可能性が高い.そのような惨事が出来しても,彼等にとっては,相変わらずの,「神の教えに背いた天罰」という紋切り型の答えしか戻ってこないに違いない.

註:
 1960年代以前の米共和党は南部での浸透力が弱く,南部の福音主義系基督教集団の影響力は限られていた.前世紀初頭,汚職追放・行政改革等の原動力となった進歩主義を唱道したのは,民主党ではなく,共和党系の政治家だった.そのような経緯もあって,1960年代以前は共和党内に「経済政策では保守だが社会政策では中立・進歩的」という政治家が未だ多く存在し,例えば,41代大統領がその昔Texas州選出の連邦議会下院の駆け出し共和党議員の頃,彼は家族計画支持者だった(勿論,1980年の大統領選で副大統領候補になるまでに,彼は転向を済ませていたが).しかし,1960年代半ばの公民権法施行以降,南部の旧人種隔離政策賛成派が古巣の民主党から飛び出して共和党に鞍替えしたことにより,共和党内での南部の影響力が高まり,選挙その他で強力な実力を発揮する保守系福音主義基督教集団との強い提携が生まれ,上記の社会政策では非保守という立場の政治家は共和党内で少数派に転落,現在,東西両岸の自由主義的州にのみ棲息できる絶滅に瀕した集団となってしまった.加州の知事や紐育市の市長は現在共和党所属だが,南部の鉄板共和党員からすれば,二人とも選挙のために「共和党」の看板を掲げただけの中身は民主党員のそれと瓜二ついう評価になるだろう.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/21/2005/ EST]

米最高裁保守・中道派のオコーナー判事の引退

2005-07-02 12:06:51 | 米国事情
 遂に来るべきものが来た趣だ.彼女の引退により,現政権は以前から用意していた保守系候補を直ちに指名するであろうが,米国連邦議会上院民主党議員はフィルバスター等の最終兵器的手段をとっても徹底抗戦するに違いない.なぜならば,1930年~1970年代にかけて民主党政権主導で成立してきた各種の制度を葬る判決を,今後保守派5名対非保守派4名という結果で,下すことが可能になるからだ.更に,現政権は,過去の失敗に学び(保守と思われた判事が,次第に非保守側に歩み寄ってしまった),徹底的な事前調査で,超保守派判事のスカリアやトーマスのように全く揺ぎ無い立場を維持できる人物を篩いにかけて,指名してくるに違いない.過去の指名状況を見ると,能力の優劣が指名の基準ではなく,現政権が標榜する政治的立場に対して,如何に忠実に判決を下してきたか・今後下すか,が最も重要な指名判断基準なのだ.
 日本と違い,最高裁の判決が社会のあらゆる営みに対して甚大な影響を与える米国の場合,判事構成が4対5から5対4に裏返ることによる衝撃は非常に大きい.米国の国政政情も有権者10人中の1人がどちらに投票するかによって決まるというような不安定な状況であり,過去回帰志向の急進路線が米現政権によって選択された場合,米の国論を今まで以上に二分し,政情不安を雪崩的に引き起こす(特に民主党優位の青色州で)可能性が高い.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/02/2005/ EST]

米PBSの第二次大戦戦勝60周年番組: Victory in Pacificと「海ゆかば」

2005-05-02 14:45:09 | 米国事情
 4月上旬にNHKが放映した元寇に関する歴史番組が常軌を逸した媚支那的構成であることが網路上で批判されている.この元寇失敗の裏に何らかの天佑神助を感じたことから,日本人の語彙の中に「神風」という言葉が定着し,更に,此れより数百年の時を経た大東亜戦争末期に「神風特別攻撃隊」として日本人の人口に再登場した際には,日本を越えて世界的に広まることになった.ところで,Googleしてみると分かるのだが,この「神風特別攻撃隊」という語中の「神風」部分についての発音は,旧海軍では,明治初期の不平士族の反乱として有名な「神風連(しんぷうれん)の乱」同様,「しんぷう」と音読みしていたそうだ.しかし,実際のところ,特攻隊の現場やメディアに対しての周知が不徹底だったようで,訓読みの「かみかぜ」の方が世間に定着し,その後世界に広まった模様である.
 今年は第二次世界大戦終結60周年の年にあたり,旧連合国では様々な記念行事等が催されている.先日中共から繰り出された反日攻勢も当該60周年に託けていたし,台湾の国民党主席の中共国家主席との本土での第三次国共合作と呼ばれる会談も此れに託けているのであろう.ましてや,十干十二支が一回りした60年ならば尚更であろう.このような状況において,米公共放送局PBSがVictory in Pacificという番組をヨーロッパ戦終了にあたる5月上旬に放映する.米国の放送界は,6月から8月までの間は夏季休業という教育界と同じく,報道番組以外は新番組の放送は殆どなく昨年9月から5月まで放映した番組の再放送等のみになる.太平洋戦での日本降伏はこの夏季休業期間中の8月なので,時期を繰り上げての放映が決定されたのであろう.日本のメディアが大東亜戦争を扱った番組の放映を年毎に切り詰めているのに対して,戦勝国ということもあろうが,米国では第二次世界大戦を扱った番組は毎週何処かのチャンネルで放映されているくらいの頻度でお目にかかれる.敗戦国として屈辱的な裁判を甘受し,主権回復後も自国の軍事一般について正面から堂々と論じることがタブーになってしまった国としては,戦前の話は全て封印して沈黙を決め,中・韓(+北)が定期的に強請り的外交を仕掛けてくれば反射的に平身低頭の御詫びを繰り返すのが関の山で,昭和の戦前部分について温故知新を積極的にやろうという心構えなど日本の主流メディアには微塵もないようだ.
 これまでの米国の戦史番組を見た限りでは,未だに連合軍=正,日本=邪という従来の二分法的な構図から完全に抜け出したものはない.ただし,今回の放映予定のPBS番組の様に,日本の扱い方が徐々に変化している印象も受ける.往事を知る世代が番組制作の第一線から去り,戦中派世代にとって当たり前の常識だった事柄も後世の人間にとっては不可解で疑問を呈せざるを得ないことも沢山出てきたのに違いない.場合によっては,戦中派世代よりも,より俯瞰的な視座から当時の国際状況を第三者的に把握できるようになった,ということも十分考えられる.また戦後米国における日本製品・大衆文化の受容を通して,米国人の対日観が改善し,戦時プロパガンダによって形成された「亜細亜で暴れ回っている凶暴な反っ歯・眼鏡ゴリラ」とか,「すぐ壊れる玩具の製造国」というような往時の対日イメージが過去の物になったことも挙げられる.
 今回の番組が上記特別攻撃隊について焦点を向けているのは,9.11事件の影響だろうか?当該番組のサイトでは,わざわざ『海ゆかば』を試聴できるようになっている.ただし,サイトに掲載されている歌詞は旧海軍が明治時代に制定した儀仗用のもので(続日本紀によるもの),日支事変,大東亜戦争中に斉唱された昭和版(万葉集によるもの)ではない.しかし,試聴用録音は後者の昭和版になっている.両者の違いは,曲が全く違うことは別として,歌詞の最後で,「長閑(のど)には死なじ」となるのが明治版,「顧みはせじ」と歌うのが昭和版だ.旧海軍の特攻隊員が出撃直前に斉唱したのは,どちらだったのか.海軍である以上やはり明治版だろうか.昔,当時の映像ニュースを見た記憶では,背景音楽として昭和版が演奏されていたような気がする.隊員の斉唱を拾っていても編集で昭和版に上書きされていたかもしれないが.因みに当番組が掲載しているローマ字化した歌詞中に一部間違いがあり,気になり訂正依頼のコメントを送っておいた.

註:

東儀季芳作曲の海軍(明治)版の『海ゆかば』の楽譜は以下の網站で閲覧可能

http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00053.html

同曲の実際の歌唱は以下の網站の第4作目のFlashファイルで鑑賞可能

http://kaga226.hp.infoseek.co.jp/


© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved.[last update:5/5/2005 EST]

浦志強:中國的選擇性記憶(China's Selective Memory)

2005-05-02 13:53:37 | 米国事情
 先日『溶解する日本』という網誌を覘いてみると,NYタイムズ掲載の支那人弁護士による日支教科書絡みの投稿記事が取り上げられていた.産経新聞の古森特派員が同紙上で前記NYT記事を紹介していたそうだ.NYTの原文をみると,原文は支那語という脚注があったので,台湾系のGoogleで著者の「浦志強」を検索してみると,ネットニュース系の「多維新聞」に掲載された支那語版(原標題は『中國的選擇性記憶』コラム記事がオリジナルのようだ.内容を掻い摘むと,「日本兵沢山悪いことした.中共もそれと同じくらい悪いことしたけど,黙っている」的な論調であり,産経新聞あたりが本来期待している論調から外れているように思われる.中共政府にフリーパスを与えてきた過去からすると,米国人が中共の教科書に強い疑念を抱くようになることは,望ましい流れかもしれない.しかし,日帝=中共悪党同士という相変わらずの日本悪党説が不動では,第二次大戦後の日本の名誉回復も遥かに遠い先のことになりそうだ.
 この検索の件で気付いたのだが,Google検索の癖というか,正字(繁体)表現の漢字列検索では,英語,日本語による検索ユーザー・インターフェイス(UI)では全くヒットせず,中文(繁體)のものでないとヒットしないことである.エンコーディングの問題もあるのだろうが,同じ漢字でも支那語文字列検索は,日本語用では駄目で,専用検索UIでやって下さい,ということか.