波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

支那要人との個人的面識と対支政策の意思決定

2005-06-30 14:18:11 | 雑感

 相澤淳氏の『海軍の選択:再考 真珠湾への道』(中公叢書2002年刊)を読んでいると,旧日本海軍の米内光政は蒋介石と個人的に面識があり,一時期かなり高く評価していた事を知った(92頁).この評価は,2.26事件が起きた昭和11(1936)年のもので,翌年の昭和12年は盧溝橋事件(7月7日)を発端とする支那事変が始まった年である.支那事変勃発後,海相の米内は当初不拡大方針の立場を守り外交による解決を主張していたが,約一ヶ月後の8月14日の閣議において,南京占領を提案するなど従来の立場から180度転換した強硬姿勢へと急変した(105頁).このような海相米内の態度の急変の背景として,相澤氏は,同日起きた上海に停泊中の消防艦「出雲」,同領事館及び陸戦隊本部への中華民国空軍による空襲を挙げ,当該空襲により,米内が以前より抱いていた優越感に基づく対支観・対蒋介石観が打ち砕かれ,その衝撃の反動が膺懲論に駆り立てたのではないかと推理している.
 過去における個人的面識を通じて形成された相手の認識像が更新されず,現在の実像と乖離してしまい,相手の予期せぬ行動でそのような現実離れした認識像を打ち砕かれ幻滅した,という米内光政の経験は,以前読んだ或る支那通陸軍将校の体験に通じるものがある.戸部良一氏の『日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌』講談社選書メチエ173(1999年)の中で触れらている,支那通陸軍将校佐々木到一が昭和3(1928)年5月山東省の省都済南で体験した済南事件だ.この済南事件で佐々木は瀕死の重傷を被り,従来抱いていた蒋介石の革命軍に対する期待を喪失してしまう(同書150頁).このような支那に対する期待と幻滅の例は,探せばもっと出てくるに違いない.
 相手を無碍に拒絶・批判するのではなく,相手の立場を理解しようという努力姿勢をそれなりに持ち,また相手側に歩みよるだけの懐の深さを持って相手に紳士・淑女的な態度で臨んだが,予期しない相手側の行動に衝撃を受け,相手に対する認識を180度急転させてしまう.この「予期しない相手側の行動に衝撃を受け」た原因は,相手についての認識のずれであり,また,想像力の貧弱性とも解釈できるかもしれない.自分(自国)の価値観・信条を相手(国)が共有しているかどうか,常に確認する用心深さは言うまでも無く,たとえ相手が自分の持つそれらを共有していないことが判明したり,疑念を抱くようなことがあったとしても,それを冷静に直視し,それに伴う不安や衝撃に耐えて最善の行動を検討・選択する強靭な精神が必要ではないだろうか.相手が自分の考える枠内から逸脱した際,相手を武力その他の手段で其の枠内に押し留めることが不可能であれば,相手を籠から抜け出した元野鳥と見做して諦め,一時的に交わりを絶つ,という選択もありうる.一方,自分の枠を相手の枠に摺り合わせようとするのは,自立した自我の放棄であり,相手に対する隷属以外の何物でもない.相手と意見がかみ合わないという不安定さを甘受し,距離を置いて相手の変化を待つ,というような選択は,先の大戦後,他国に受け入れられようと八方美人的な平身低頭金満外交路線をとって来た日本には難しいに違いないが.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/29/2005/ EST]

世代交代と歴史認識

2005-06-29 12:31:35 | 雑感

 最近,日本の保守系の網誌を覘いていると,韓国,北朝鮮,中共,台湾等から繰り出されてくる日本の歴史認識に対する情報調略に憤慨しているものが目に付く.思うに,日本がこのような批判の乱れ打ちを受けるという事態は数十年前から或る程度予想できたのではないか,と.戦前の支那大陸,朝鮮半島,台湾,そして戦時中の南方等での体験を持った世代がこの世から消え去る頃,即ち,当時の出来事を体験者として証言できる人々がほぼ鬼籍に入る時,此れらの人々のより正確な証言記録と次世代の絶え間ない真摯な継承努力があれば未だしも,双方の点において努力不足であった日本の場合,敵対する側から在らぬ嫌疑をかけられた際,反論に支障を来たす事はそれなりに予測できた筈である.
 更に日本側の問題だけでなく,日本批判国側の状況も日本に対して不利に働くと予想されたはずなのだ.戦前・戦後日本から便益・恩恵を受けた上記各国の関係者いたとしても,その事実を主張することが戦後の当該各国の体制において不利益を被るような状況が出来していたならば,戦前の日本と当該諸国の関係から考慮すると,このような関係者から事実に即した日本弁護の証言なされるはずはない.事実,韓国独立後,大統領李承晩が確立した国是の一つとしての反日教育,北朝鮮における日本統治下の協日派の粛清,台湾における1947年の2.28事件による本省人粛清とその後の長期にわたる戒厳令下の国民党外省人による台湾の情報・文化機関の独占等を見れば,日本を自由に弁護できるような状況ではない.中共共産党に至っては,日本を敵国と見做す共産党独裁体制である以上,問題外である.今日におけるような日本批判が1952年の日本の主権回復後,直ちに出来しなかったのは,当該国の政情が不安定であり,かつ,日本の経済力が強力ではなく,強請れるような状況ではなかったことも十分想像される.其のほかにも,今のような言い掛りを当時繰り出したとしても,日本側に十分反証できる証言者達がいたため,それを恐れて控えていたとも考えられる.その他,当該諸国の指導者達には,自国民向けの建前とは別に,直接・間接的に日本に感謝するものが少なからずあったのではないか.特に旧日本軍が自国の空軍創建に貢献した中共の場合など,満州を日本がロシア・ソ連より一時的に捻り取って置いてくれたことで,満州が旧外蒙古のような親ソ傀儡国あるいは沿海州のようにソ連の領土に組み込まれなかったため,戦後の漢民族の実質的な版図拡大に繋がったことを心中感謝せざるを得なかったであろう.
 そのような内心日本(の愚行)に感謝するところが幾ばかりかあった指導者達も鬼籍に入り,新体制建設のための反日教育を受けた世代が各国で指導者の地位に就くようになった.韓国の現大統領は,日本語が話せた前任者達と違い,日本語が全く出来ない.韓国の政治体制は間接民主主義かも知れないが,日本文化を排除する現在の国策は,言論等の自由が認められた英米型の自由民主主義ではない.このような防日政策が続く限り,当該政策による洗脳の犠牲者は後を絶たないであろう.台湾は,今本省人と外省人との間でせめぎ会いが続いている状況であり,本省人が今後安定して権力の座を占め続ければ,今までと違った状況が出来するかもしれないが,60年近くにわたる外省人が積み上げてきた反日史観・教育の成果は簡単に消え去るものではないだろう.中共の場合は,共産党独裁国家である以上言論の自由などあるはずが無く,正統史観が虚構の抗日戦に基づいている以上,土用の虫干し同様,折にふれて戦前日本の帝国主義という悪役に登場を願わなくてはいけない構造なのだ.よって,今後共産党独裁体制が崩壊し,新たな建国の物語が生まれ,反日的要素が薄まれば,今のような粘液質的反日調略は弱まるかもしれないが,全く無くなることは無いと覚悟することが必要ではないか.我々日本人が数百年経った今でも元寇を語り継いでいるように.
 日本人の「過去の事は水に流して」というような価値観を他国人も共有できるはずなどと努々思い込んではいけない.万が一,相手がそのような素振を見せたとしても,相手を確り見続ける冷静さが必要だ.世の中には,相手の美徳を踏み台にして自己実現を謀る人間もいるのだ.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/28/2005/ EST]

新選組隊士斉藤一と分列行進曲(扶桑歌)との関係

2005-06-28 05:05:48 | 雑感

 新選組の斉藤一と言えば,昨年のNHK大河ドラマ「新選組!」でオダギリジョーが演じた役だ.彼と,日本の旧陸軍,そして自衛隊と引き継がれて演奏されている分列行進曲(扶桑歌)との関係を直ぐ思いつく人は,かなりの軍歌好きに違いない.この分列行進曲は,例えば,大東亜戦争中の昭和18(1943)年10月21日,明治神宮外苑競技場で挙行された出陣学徒壮行会の記録映像において,甲高い東條英機首相の演説と共に挿入されている出陣学徒の行進の背景で演奏されている曲だ.別個の曲として存在していた「扶桑歌」の一部分が導入部分として追加される前(http://www.sound78rpm.jp/page01_04.html),この曲の本体は「抜刀隊」という名で知られていた.西南の役の際,警視庁巡査等によって編成された警視隊から更に選抜編成されたのが抜刀隊である.この抜刀隊を顕彰した外山正一の新体詩に当時の御雇外国人のシャルル・ルルーが曲をつけたものが「抜刀隊」だ.この警視隊には旧会津藩士や旧幕臣出身者が多く,彼等は戊辰戦争の仇を討ちに行くという趣だったことが知られている.この警視隊に所属した警視庁関係者の一人が,斉藤一改め藤田五郎なのである.彼は,会津城落城後,他の新選組隊士と袂を分かち同地に留まり,その後上京して警視庁警部補になった.
 藤田五郎は警視庁退職後,東京高等師範学校附属東京教育博物館の看守を勤めている.ところで,この経歴について,作家の中村彰彦氏の『新選組全史 戊辰・函館編』(角川文庫)301頁に,故村松剛筑波大教授が中村氏に対して,「東京高等師範に,付属博物館は絶対にありませんでした」と断言したことが言及されている.なぜ中村氏は筑波大学の附属図書館あるいは大学事務局の沿革史担当部課に電話を一本入れて,村松氏の断言の裏を取るという用心を怠ったのだろうか.現在上野公園で恐竜展等を開催している国立科学博物館は,何を隠そう,東京高等師範学校附属の東京教育博物館の末裔なのである.一本の電話等の確認を怠ったため,村松氏の誤解を後世に曝してしまうことになったのは非常に残念でならない.

 駐:近衛文麿の弟の秀麿氏指揮による戦前の扶桑歌演奏は以下の網頁から聞くことが出来る.
    http://www.sound78rpm.jp/page01_04.html
   海上自衛隊横須賀音楽隊による演奏は此方から:
    http://www20.tok2.com/home/captain22129/gunka02/hagyou/battou.htm
   斉藤一の経歴については,此方から:
    http://www.1to5.net/saito/history/hajime_list.html
   新体詩「抜刀隊」については,こちらから(11頁):
    http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00036.html
   新体詩「抜刀隊」の作詩者外山正一については,此方から:
    http://www.asahi-net.or.jp/~cb9s-jyuk/toyama.htm
    (外山正一発案の万歳[ばんざい]の由来についても触れられている)
   
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/27/2005/ EST]


米国西部国有地の野生馬と日本の馬刺し

2005-06-27 07:11:58 | 雑感

 最近の太田述正氏のコラムで捕鯨の話題が扱われていて,其の中で,アングロサクソン対日本の動物観の対決が論じられている.捕鯨やイルカ,そして最近乱獲で揺れる鮨用の鮪など,食をめぐる日米文化対決には話題を欠かない状態が続いている.これ以外にも,多分日本では新聞等で話題になっていない食文化に関係した動物がある.馬である.軍備の一環としての馬産奨励が第二次大戦敗戦とともに終わり,また戦後の農作業の機械化により農耕用馬の飼育がほぼ消滅した.よって,国内の馬肉消費量を国産馬では賄えないため,日本は米国等から馬肉を輸入しているようだ.
 太田氏は「動物界についても、アングロサクソンが時々勝手に線引きを変えてしまう」と述べているが,ここ数年米国人が執心している鯨,イルカ以外のもう一つの事例がある.それは米本土西部の国有地に棲息するムスタング(野生馬)だ.1970年代まで当該野生馬は業者が比較的自由に捕獲・できていたが,その捕獲等の手段の荒っぽさが動物愛護者を刺激したようで,1971年にWild Free-Roaming Horse and Burro Actが成立し,連邦政府が個体数の管理をする形になった.年間の間引き枠から,民間から乗馬用としての引き取り希望者を募り,引き取り手のなかった分を動物保護区に回すというやり方である.ところが,今年3月に法改正(バーンズ修正)があり,間引き対象野生馬を直接商業向けに回すことも認められるようになった.これに対して,野生馬保護団体はあらゆる手段を講じて前述の法改正を無効にしようと連邦上院・下院に働きかけている(http://www.wildhorsepreservation.com/index.html).
 このような動きは,都会生活で各食材生産現場との繋がりを見失い,人間という存在が時には血なまぐさい食物連鎖の階層構造に立っているという現実に直面する機会を失った「先進国」社会に特有の感傷主義によるもので,別に米国に限ったものではないと言えるかも知れない.しかし,米国の主流報道機関の姿勢を見ていると(例えば,http://msnbc.msn.com/id/6769671/),馬肉を食する習慣を今でも持っている国は日本,フランス,ベルギー等,という名指し方で,太田氏の階層構造における第2階(日本は今でも2階に降級中?)の連中ばかりだ.馬肉を食べるなんて何と野蛮な連中,やはり第2階の連中だけのことはある,という姿勢を何と無く感じてしまうのは,第2階住人の歯軋りだろうか.因みに,米国の野生馬保護団体の中には,鯨に続けとばかりに,馬の禁止を世界的に進めようとしているものもある(例えば,http://www.ahdf.org/slaughter.html).

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/25/2005/ EST]



共産党独裁終焉後の支那大陸

2005-06-26 17:13:48 | 雑感

 岡崎久彦氏が主宰している岡崎研究所の網站を数ヶ月ほど前に覘いていたら,同研究所主任研究員の阿久津博康氏による「中国は民主化しても反日であり続ける」(2005年4月25日)という短い記事が掲載されていた.この記事の内容は標題そのものなのだが,文末の断り書き通り,これといった具体的な対策を論じているわけではない.この記事を読み終わって,ふと思い出したのは,米国のある福音主義系教会に属して国際的な布教活動している知り合いのことだった.米国の福音主義系教会の中には世界的規模の布教(折伏と言った方がより適切かもしれない)戦略に基づいて,アフリカ,南米その他の地域での信者獲得を目指しているところがある.前記の知り合いは,数年前,布教活動に厳しい制約のある中共に敢えて出向いて,布教活動抜きの米国文化に関する交流行事に参加したのだった.実質的な布教活動が出来ない状態においてすら,将来実現するかもしれない布教制限緩和に備えて土地勘を付け人間関係を築いておく,という用意周到な準備を試みていたのだった.
 このような用意周到さが日本の対支政策策定においても不可欠であることは言うまでもない.但し,気になったのは,そのような中共共産党による宗教統制が緩和した暁には,日米支関係は再び1945年以前に逆戻りするのではないか,ということだった.即ち,戦前の駐支米国外交官達が言及していたような,支那大陸で布教活動を行っている宣教師達が発信する情報が米本国の対支感情あるいは対日感情に影響力を持つのではないか,ということだ.今以上の基督教化が不可能と思われる日本に対して,長年の宗教統制下にあり,また世界一の人口を誇る支那大陸は,福音主義系教会にとっては非常に魅力的であるに違いない.米国では近年,福音主義系教会の政治的発言力が急上昇している.このような状況を踏まえると,支那大陸で共産党の一党独裁が崩壊に至らないまでも,現在の宗教政策が緩和されただけの段階において,日本か,支那か,という米国の亜細亜政策における軸足選択問題が再浮上する可能性が非常に高い.更に,日系米国人の人口が先細りに向かっているに対して,支那系米国人の其れは逆に急増していることも,将来米国が対支優先に向かうという予想の根拠として挙げられる.そして,将来亜細亜における反共という公約数を日米共に失った際,米は従来の日本との同盟関係を堅持していく用意があるだろうか.日米間の力関係の非対称性を考慮すると,より正しい設問は,日本は万難を排して米国との同盟を繋ぎとめることができるか,であろう.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:6/26/2005/ EST]

『暗黒大陸中国の真実』の著者ラルフ・タウンゼント(Ralph Townsend)について

2005-06-26 03:44:38 | 雑感

 遠藤浩一氏の5月26日付網誌で,ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』の一節が引用されている.また,宮崎正弘氏の情報誌でも,当該書が言及されていた.日本のアマゾンで,同書についての書評の中には,著者ラルフ・タウンゼントの日米開戦後の経歴について触れ,低い評価を与えたものがある.Ralph TownsendでGoogleしてみると,反日ないし左翼系の網站その他で,彼が日米開戦の翌年の1942年にForeign Agents Registration Act("Foreign Agents Act"と誤記されていることが多い)違反で逮捕され,有罪云々ということが記載されている.果たして彼の経歴はどの様なものだったのか,調べていくと,今日の米国人すら忘却してしまっている米国裁判史上の一恥部というべき事件に遭遇した.以下はその調べの途中経過である.
 
 1941年の日米開戦以前,モンロー主義等の立場から旧大陸での戦争に米国参戦反対の論陣を張っていた個人・団体の背後に,当時のルーズベルト政権は国外団体(特にドイツ) の影を感じていた.これらの主張を直接規制するとなると,言論の自由の原則に抵触する.よって,国外団体・個人の意向を受けて行うロビー活動を届出制として,ロービー活動の内容開示・報告義務を課す,という間接的な規制手法がとられ,1938年前掲法を制定した.よって,同法に抵触するかどうかの判断は,ロビー活動の内容ではなく,同法指定の事務手続に遵ってロビー活動が行われたかどうか,という手続の解釈次第となる.当然ながら,如何様にも判断できる書類不備というような重箱の隅を突付いたような名目で違反の大義名分をとることも可能だ.もしタウンゼントの親日ロビー活動が看過できない同法違反状態であったならば,同法の成立の1938年から日米開戦の1941年12月の間に逮捕されていて当然ではないか,と推量されるが,実際に彼が逮捕されたのは開戦翌年の3月27日だった.
 
 この様な状況の解釈についてヒントを与えてくれるのが,仮想サン・フランシスコ市立博物館に掲載されている同市在住日系人の強制収容所送りについての網頁である(http://www.sfmuseum.org/war/evactxt.html).当該頁における彼の逮捕は(Writer Guilty as Japanese Agent - March 27, 1942 : http://www.sfmuseum.org/hist8/tokio2.html),米西海岸で日系人の収容所送りが始まった頃で,真珠湾奇襲の仇討・防諜のため日系社会が被った一連の受難の一齣として彼の逮捕が今でも記憶されていることが分かる.タウンゼント対する訴追は前出法違反で終わったわけでなく,大統領の度重なる要求に折れて始まった,他の主な参戦反対主張者と一まとめにされた見せしめ的裁判("The Great Sedition Trial of 1944"と呼ばれている)が続き,結局,当該裁判は無効審理,米国裁判史上の汚点となった(タウンセント自身は公判途中で不起訴になった).そして,皮肉にも,戦後冷戦での東西対立が明白になり,米連邦政府中枢に棲息したソ連スパイ網が摘発されると,かつて参戦反対・孤立主義者を糾弾する側にいた容共・親ソ系の者が逆に糾弾される側になるという立場の逆転が起きたのだった.

註:戦前のある和訳書では,Townsendは"タウンセンド"と訳されている.

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三田村武夫,松前重義,中野正剛を繋ぐもの

2005-06-26 02:38:39 | 雑感

 三田村武夫,松前重義,中野正剛という3人の関係を述べよ,という問いに対して,今の日本の保守系網誌主宰者はどの様に答えるだろうか.三田村氏と松前氏については,柴田秀利氏その他の著作等から,三田村氏の報告書を当時の読売新聞社長の馬場恒吾氏や柴田氏に同氏が見せた際に松前氏が同伴していたことが分かる.当時,三田村氏と松前氏がなぜ共に活動していたのか,最近になるまで深く考えてもみなかったが,松前氏の自伝等を捲って或る共通項を漸く思い出した.即ち,「反東條内閣」である.中野正剛は,代議士であった三田村氏が戦前所属した東方会の主宰者であり,二人とも反東條内閣活動で検挙され,中野は終戦の日を迎えることなく,自決に追い込まれた.戦後東海大学の総長や衆議院議員を務めることになる松前氏は,東條内閣の逓信省工務局長で,その批判的な言動により40歳過ぎにも拘らず陸軍二等兵として召集されてフィリピンに送り込まれたが,その後九死に一生を得て終戦前に帰国できた.松前氏の伝記に,彼がチフスに罹患して入院中に中野正剛が見舞いに来て,東條内閣打倒策を披瀝したことが書かれているので,松前氏が中野の盟友である三田村氏と知己であってもおかしくない筈だ.松前氏は,戦後占領軍の公職追放の対象となった.彼の伝記を二三捲ってみたが,公職追放時代の政治活動等については全く触れられていなくて,三田村氏の報告書についても全く触れられていなかった.

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柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』について

2005-06-26 01:50:47 | 雑感

 今週日本から, 柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』が届いた.本書を入手するきっかけになったのは,竹内春夫氏の『ゾルゲ謀略団』の冒頭に,元サンケイ新聞取締役の野地二見氏による「刊行によせて」という序文があり,その文中に,三田村武夫氏の尾崎・ゾルゲ事件に関する報告書を占領軍司令部に提出した経緯が引用されていた.その引用源が,柴田氏の当該書だった.日頃利用している図書館には,この本は収蔵されておらず,最近になって理想書店から電子版・印刷体版の双方で再刊されているが,英語版のコンピュータでは電子版は読めず,また,印刷体版の値段は日本の或る古本屋が提示している価格より割高だったので,結局後者から入手した.
 柴田氏は,今日日通念化している狭い意味での新聞記者ではなく,政界等を回遊して自社の新聞記事向けの取材をするだけでなく,時には特定の政治家の耳や目的存在として,或は,代理人として他者に働きかけたり等の活動にも手を染めるという古典的な意味での「記者」と言える.同書によって柴田氏の「記者」活動を辿っているいくと,「記者」尾崎秀実が「政治家・重臣」近衛文麿にどのような形で影響を与えたのかが,より鮮明に類推できるようになった.佐々木隆氏の『日本の近代 14 メディアと権力』の9頁に,「実体としての新聞は政府・権力と隠微な関係を持ち,危うい間合いを取るものがあったのだが,それは新聞界ではありふれた日常の一こまであり,決して例外的な現象ではなかった」という件があるが,まさにその通りだったのだ.

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最近考えていること

2005-06-26 00:56:27 | 雑感

 最近悪い癖が再発したようだ.複数の主題についてあれこれ資料その他を集めておきながら,全く文章を書かず,夢想状態で終わっているものがある.「完全でなくても良いから,何らかの成果を残しておく」的な,小回りの利いた行動に至らず,大風呂敷の夢想で一日が終わっている.「いつか来た路」を繰り返しなぞることがないように,日々の雑感・構想は其の日の内に吐露しておくことにしたい.まとまった記事は後日暇が出来た際に書き上げれば良いではないか.今後「雑感」に分類されたものは,文字色を変えて,まとまった記事とは区別し易いようにする.

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Morning Sun(「八九点鐘的太陽」)を見て

2005-06-19 02:53:39 | 近現代史
先日地元の米公共放送局PBSで次のような文化大革命批判ドキュメンタリーを見た.

Morning Sun(支那語題名は「八九点鐘的太陽」)
http://www.morningsun.org/index.html

今後の北米各地のPBSでの放映予定は,以下のリンクで確認可能.
http://www.itvs.org/search/broadcast.htm?showID=340


同番組を見た後,太田述正氏のコラム(#745「厳しく再評価される毛沢東 その2」)を読み,番組中に挿入されていた歌劇と映画によるDadu River渡河英雄譚は実のところ中共共産党の制作の虚構で存在しなかった,という証言が最近出てきたことを知った[橋の名前は,瀘定橋(Luding Bridge)].このドキュメンタリは文革時代を生き延びた中共人へのインタヴューが重要な部分を占めていて,太田氏のコラム中に引用されていたTaipei Timesの書評記事中に登場する毛沢東の元秘書であった李鋭(Li Rui)と彼の娘のものも含まれている.彼等へのインタヴューは,文革中,反革命分子と烙印を押された親の子が,自分の国家への忠誠心を証明するため,親子の情を断ち切って,呵責なく親を糾弾した一例という趣だった.また,走資派の首魁として粛清された国家主席劉少奇の夫人の王光美は何とか文革を生き抜いたようで娘の劉亭と共に証言に応じていた.王光美は戦前ミッション系の大学で学び英語に堪能であったとされるが,インタヴュー時の80過ぎという齢を感じさせない服装のセンスや容姿をみると,文革中に大群集の前で公開吊るし上げに遭ったのは,単に劉少奇の身代わりということだけでなく,このような彼女の「ブルジョア」的センスも仇となって槍玉に挙げられる格好の理由になったのに違いない(「真珠の首飾りをしてインドネシアに外遊したのがけしからん」という批判は噴飯物だったが,「[旦那の]劉少奇の言うことには従っても国家主席の毛沢東の命令には従えないのか」という群集の野次のエグさには絶句).勿論,文革中ブイブイ言わせた連中,例えば「紅衛兵」結成時のメンバー(北京大学の学生?)や紅衛兵として暴れまわった人物のインタヴューも含まれているが,彼等の顔は無照明で隠されていて,現在の中共における彼等の位置付けを暗喩したものになっていた(彼等が中共内でインタヴューされたかどうかは,番組を見た限り不明,顔を隠したのは,当局の指示か,それとも復讐等を恐れる本人達の希望だったのだろうか).

文革については同時代的に基本的なことは知ってはいたが,今まで専門書等を読んだことが無かったため,当番組によって初めて知ったことも色々あった.1958年に始まり悲惨な結果に終わった「大躍進」政策は,当政策に批判的であった劉少奇にしても,既に神格化されていた毛沢東の面子との兼ね合いで,あからさまに毛沢東の失政と断罪できなかったため,「大躍進」の惨禍は中共国民に知らされず現在も隠蔽されたままになっている.ところが皮肉なことに,文革中の下放政策が農村に行った学生に大躍進の惨禍を直に見聞きする機会を与えてしまい,党から垂れ流される御用情報について懐疑心や幻滅を抱くことになったことが証言されていた.また,文革中の下放政策を「走資派等の反党分子の子弟の再教育手段として彼等を強制的に農村に送り込んだ」とい風に理解していたが,当番組によると,丁度日本の大学紛争の頃と同じ感じで,大学内外が混乱して勉学・就職どころではないので,学生が都会で無為徒食の生活を送るのではなく,農村に行き何か生産活動に貢献する,という政治的に腰が入った学生側からの先導もあったことになっている.文革中に学生だった者から其の頃の話を聞くと,大抵「農村で働かされて」云々という受身的な返事が戻ってくるが,当時の学生の中には報国的な熱意・理想を持って農村に自主的に行った者もいたのだ.このような反論できない崇高な建前を主張して止まないマジ学生が周りに一人でもいると,都会でぷらぷら無為徒食でも結構と思っていた者も,反党分子の烙印を押されることを恐れて,心中不本意ながらも農村に行かざるを得なくなり,雪達磨的に学生達が農村に向かったことが想像される.

文革の紅衛兵は,日本の「♪戦争を知らない子供たち♪」に対して,「革命を知らない子供たち」に相当する.文革は,そのような「革命を知らない子供たち」が神話化[洗浄]された支那本土統一過程(革命)の精神を温故的に継承しようという側面もあった.いわゆる紅衛兵ファッションにしても,当局の押し付けではなく,父母ないし祖父母の革命時代の古着を子供や孫が押入れから取り出して再利用したことに由来し.また,革命精神の世代間継承の一環として,延安等の革命の聖地へ巡礼することも流行ったそうだ.中共樹立の裏には共産党員以外の様々な背景を持つ人間の協力があったが,文革はそのような非正統の過去を持つ人物を反革命分子として「革命を知らない子供たち」に摘発・断罪させた.この粛清によって,中共成立の正史は更に洗浄されて,史実からますます掛離れたものになったのに違いない.国共内戦勝利における「旧満州国」の貢献(同地で終戦を迎えた日本の陸軍航空隊関係者が戦後中共空軍創建に関与したなど多岐に渡る)にしても,毛沢東たち革命第一世代は,建前はともかく,内心忸怩たる思いだったかもしれないが,後継世代は正史洗浄によってそのような事実を知る機会もなく,日本を叩くことに何の躊躇もないに違いない.

唐の太宗の「貞観政要」に出てくる創業と守成の話からすると,「大躍進」失敗を真摯に受け止めた劉少奇にとって,創業の時代は既に終わっていて,これからは堅実な守成(経済発展による民心の安定)こそ最重要課題と認識していたのであろう.しかし,毛沢東はそれを「自分」の革命に対する冒涜と見做し,文革を通して,神話化された創業精神の再興を次世代に訴えた.「御上を批判しても良いのではないか」という「大躍進」失敗以来の民心の燻り(民主化の芽生え)を逆手に取って煽り,そのはけ口を当該政策の責任者である自分ではなく,時の指導部に向けて暴発させ,自分の再起と引き換えに中共を大混乱に陥れた.しかし,文革時代の野放図な主張・批判の応酬とそれに伴う混沌は,或る意味で,共産党にその独裁を正当化する口実を与えたのではないか.ブルジョア民主主義的に各自が好き勝手な事を主張しても文革のように国を混乱させるだけであり,共産党の指導に沿って人民が秩序正しく行動すれば,社会の安寧が維持され経済も発展するのだと.

文革の混乱に終止符を打ったのは人民解放軍の武力であって,法と秩序を守ろうとした各個人の意志の結集ではなかった.法規はあっても恣意的な運用が強く遵法の精神も脆弱という今の中共の現状を考えると,遵法精神が社会の底辺まで行き渡らない限り,民主化への動きは文革の再現か暴力的衝突(例えば天安門事件)で終わる可能性が高いのではないか.英国議会の下院議場の床には今でも2筋の赤線が2刀身間隔で引かれている.与党と野党の議論が白熱してサーベルを双方振り回しても刃傷沙汰にならないようにするための配慮の名残だ.しかし,この配慮も,議論中は双方とも当該線を踏み越えない,という議員各自の自律(遵法)の前提の上に成立しているのだ.法による統治と各個人の遵法(自力救済の放棄),民主主義実践のための十分条件ではないが,必要条件の要素と言えよう.

21世紀初頭を生きる日本人からすると,文革時代の中共における既存秩序の破壊と過去の歴史との訣別は確かに大衆の「狂熱的情緒爆発」として奇異に見えるが,日本の近・現代史を振り返ってあれこれ反芻していると,いささか暗澹とした気分にならざるを得ない.例えば,文革中の文化財破壊(特に仏閣・仏像)の記録映像を見ていると,明治初期に猖獗(しょうけつ)をきわめた廃仏毀釈による文化財の遺失(特に海外へのもの)を連想せざるを得なかった.また,先に触れた法による統治と各個人の遵法に関連して,戦後の教科書では,明治時代憲政の実践のために努力した議会の動向よりも,法による統治を否定して自力救済に走った事件(秩父事件や米騒動等)に注目した革命史観的構成が目立つ.藩閥政府の壟断に反対し,五箇条の御誓文の完全実施(民意を汲み上げる機関の設立)を背景に高まった自由民権運動もその本来の意義が忘れらて革命前史の一齣的扱いになっている.護憲云々という主張と,文革的な動乱万歳という趣の法による統治を軽視した史観の信奉は本来両立しないはずだが,当の本人達は革命達成のためには何でも有りという発想なのだろうか.更に,「大躍進」失敗で露呈したように,守成でも指導者としての資質を疑われ,また革命家という創業者としての金看板ですら鍍金が剥げかけようとしている毛沢東の呪縛から解脱できずにいる今日の中共人民と,半世紀経っても占領軍と吉田茂合作の呪縛から解脱するどころか,むしろ米軍依存で安逸を貪っている日本国民に大差があるのだろうか,と.


註:太田述正氏の掲示板へのコメントを推敲・加筆

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