波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

今年の冬季奥林匹克運動会の女子花式滑冰を見て

2006-03-03 23:32:00 | 雑感
 一昨日は灰の水曜日で復活節の始まりとなった.冬季奥林匹克運動会(漢字表現のOlympicに相当する部分は正に音訳そのものだ)は復活節が始まる前に済ませて,重ねないという不文律があるのだろうか,同運動会は今週の日曜日に終了した.前回は米国内で開催されたためか,9.11事件を引き摺った開会式演出となり物議を醸したが,今回は欧州で開催,9.11事件の記憶も更に希薄になったのか,米国内での当運動会への関心は非常に低かったようだ.金牌獲得は高望みかもしれないが,銀か銅あたりを日本の選手が得る事を期待しつつ,日本の同運動会網路報道を毎日覘いていたが,全く三位以内に入れそうな気配が無い.このような全く冴えない状況のなかで,花式滑冰[氷の本字]で荒川選手がshort program(「短節目」と表現するらしい)で三位になった.そして注目のfree skating(予想通り,「自由滑」である)となった.防寒その他で顔が隠れてしまう野外競技と違い,顔つき・外見その他も競技構成に陰に陽に含まれしまう女子花式滑冰は矢張り電視向きで,米国でも冬季奥林匹克運動会の華という趣の扱いとなる.ましてや,米国選手が短節目で一位になったのであるから,前回の運動会の雪辱という筋書きの競技放映姿勢で自由滑の日となった.自由滑の日,金牌を取って当たり前という予想を念頭に置いて報道していた米国競技報道関係者を重苦しい沈黙に追い込んだのは,金牌獲得の前評判の高かった露西亜と米国の選手双方の転倒だった.上位三位になった選手が何れも転倒していなければ,かなり微妙な判定になり,勝てば勝ったなりに,負ければ負けたなりに,運動電波芸者が十八番の長広舌(ちょうこうぜつ)を披瀝出来ていたに違い無い.ところが,日本の荒川選手は転倒無しのほぼ完全な演技となったが,他の二人の競争相手は,転倒という,如何なる主観的な言い訳でも糊塗できない客観的な減点項目を出してしまった.米国NBCの競技解説者の舌も湿り勝ちで,なんとなく腰の抜けた消化試合的解説で時間を埋めていたという印象を得た.日本が牌を一つも取っていなかったことへの米国なりの武士の情けだったのか,君が代の演奏を最後まで放映し,表彰台上で荒川選手が国歌を口ずさんでいる光景も大写しという大奮発だった.米国の場合,時差の関係であろうが,競技場からの生放映は無く,花式滑冰の前座的な部分はぶつ切りで他の競技と混ぜて放映し,取りは最後に持ってくるという典型的な焦らし構成だった.よって,日本の網路上で批判されている,国営放送であるNHKが国籍不明的放映姿勢と批判されている荒川選手の表彰後の冰場滑冰の光景は米国で生放映されるどころか,毎夜の正規の編集済み映像放映時間帯でも放映されなかった.ただし,深夜の摘要映像集的番組において牌獲得三選手の競技内容を振り返った際に数秒間,日の丸を肩に滑冰する荒川選手の姿が挿入されていた.
 2004年の世界大会で荒川選手が優勝した際,優勝の滑冰をこちらでたまたま見ていたが,当時の印象は,不謹慎ながら,「今は尻をあそこまで露出させて滑冰することが認められているのだ」というものだった.今回の各女子選手の衣装をざっと見た印象では,あの時のような切込みの深い衣装を着用している選手は皆無のようだった.演技力の格差だけでなく,今回上位三選手の体格を見ていると,荒川選手が他の二人より比較的背が高く,大人の女性という印象を与える体形で,振り付け・演奏曲も彼女の体形と程良く合っていたと思う.それに比べて,四位に終わった村主選手の振り付けの構成は,米国の解説者の辛口批評の通り,貧弱で各演技の部分の継ぎ目が剥き出しで物語性というか繋がりが欠けた演技という印象が強かった.微視的というか,技術的には確りした部品というか演技の一齣を演じているのだが,4分の演技全体を眺めると,まとまりが欠けていた.それにしても,今回の運動会は女子の花式滑冰だけでなく,冰上舞踏(ice dancing)で転倒が続出したことが長く記憶に残りそうな予感がしてならない.結果発表後の当該三選手三様の反応を第一面で並べたのがNY Timesだったが,波士敦近在で配布されている無料小報(tabloid)の翌日一面の見出し写真も,転倒した二人の転倒写真に荒川選手の勝利の微笑みを添えたものだった.
 
 © 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:3/3/2006/ EST]

赤化・占領による洗脳の再発 ナベツネ氏の症例

2006-02-13 03:12:45 | 雑感

 昨夏より多忙であった仕事の方も先週何とか一息がつき,締め切りに追われること無い週末が数ヶ月ぶりに漸く戻ってきた.週末の土曜日,NY Timesに例のOnishi記者によるナベツネ氏提灯持ち記事が掲載されたことは知っていたが,最近日本の保守系網誌等で彼の老醜ぶりが伝えられていたため,今日も毎度御馴染み大西節炸裂,と読まずに済ませていた.今日(日曜日)になって日本の保守系網誌群の見出しを眺めていると,『やじざむらい的日々雑感』という網誌(http://yajizamurai.blog24.fc2.com/)が当該NYT記事に関する記入を掲載していたので,昨日の新聞を取り出してきて当該記事を読んでみた.ナベツネ氏の如何にも「朝日」的な立場への転向に関する件を読んでいて,正力松太郎と読売新聞の裏表を描いた佐野眞一著「巨怪伝」(文春文庫上下巻)を思い出し,下巻の索引でナベツネ氏の項目を調べると,予想の通り,西武の堤清二同様,東大時代における共産党との接点が触れられていた(因みに,Googleしてみると,最近日本の網路や報道媒体上で香ばしい話題を提供している木村愛二氏は,かつて読売系の日本テレビに勤務していて,ナベツネ氏の東大時代における共産党絡みの活動について色々情報を網路上で提供しているようだ).
 人間誰しも,物質的に潤い,社会的地位も得て人生の晩節に至ると,思い残すことは「果たせなかった夢」への憧憬に至るのだろうか,若い頃に体験した蹉跌について,それによって出来した不本意の転向の振幅が激しかった者ほど,晩節における原点回帰への衝動は激しいものに違いない.そのような観点に立つと,ナベツネ氏の最近の言行も何とか説明がつくのではないか.勿論,今までのナベツネ氏の人生が世を憚(はばか)る意図的な擬態とも解釈できなくはないが,戦後政治史において中曽根氏と共に果たした彼の役割・軌跡を振り返ると,深慮遠謀による擬態と解釈するには無理がある.先月佐々木敏氏が『週刊アカシックレコード060113~差別と批判』上で「社会的影響力の大きい某氏」と呼んでいる「有名なジャーナリスト」を批判していたが,この人物こそナベツネ氏に違いないだろう.本人は,戦中,戦後を生き抜いた時代の証人を自負しているようだが,「有名なジャーナリスト」らしからぬ彼の浅薄な歴史認識を読むと,戦前日本の大学を席捲んした赤化と占領による洗脳の双方が再発した感染症患者のように見えて仕方が無い.佐々木敏氏が過日取り上げていた,元共産党員でありながら自民党代議士として上り詰め,最近の日本政府の対支・対韓政策を批判して,天下の御意見番気取りをしている或る人物の最近の軌跡も,このような再発組と見做せないこともないが,彼の軌跡を追っていくと,日本共産党その他と果たして縁が切れているのか,擬態のままで政府高官になったのではなかったかという疑念が付きまとう.この先,ナベツネ氏のように,昔感染したものの治癒していたはずの結核が老境に至り再発したという趣の老人が沢山登場してくるに違いないが,それにしても,げに恐ろしきは赤化・占領による洗脳の浸透力・持続力である.
 
 上記新聞記事は以下の通り:
 Shadow Shogun Steps Into Light, to Change Japan
 http://www.nytimes.com/2006/02/11/international/asia/11watanabe.html
 
© 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:2/13/2006/ EST]

野放図電話盗聴を暴露した James Risen 記者による新刊書 State of War

2006-01-01 18:31:45 | 雑感

 昨日の記入で触れた現米政権による野放図の電話盗聴を暴露したのは二週間前の12月15日(木曜日)付のNY Timesの以下の記事だった(同記事は特別扱いのためか,一週間の無料閲覧期間を経過しているにもかかわらず,1月2日現在でも閲覧可能.『訂正』当初引用していた同記者達による12月18日付の記事は当該元記事の続報):
 
 Bush Secretly Lifted Some Limits on Spying in U.S. After 9/11,
 Officials Say by James Risen and Eric Lichtblau.
 http://www.nytimes.com/2005/12/15/politics/15cnd-program.html

なぜ今頃になって同紙が昨年米政権に妥協して塩漬けにした筈の記事を慌てて印刷したのか,様々な観測が流れているが,今日網路上得た情報によると,当記事の著者の一人であるRisen記者が元旦振替休日明けの3日に以下の単行書を出版するため,NY Times紙としては止むを得ず,お蔵入り状態の同記事を出したというものだ:
 
 State of War : The Secret History of the C.I.A. and the Bush Administration by James Risen. Free Press

因みに,今日のNYTの記事では野放図な電話盗聴について一昨年の2004年に前司法省幹部が反対していたことが明らかにされている.
 米国南部や中西部等の保守系の連中には,1960年代の旧奴隷州における非白人差別の解消において連邦政府が果たした役割について未だに反感を抱いていて,連邦政府は個人の自由を侵害している悪の巣窟という感じで日々文句を垂れている者が多い.今回のような「国家安全保障」を大義名分した野放図な電話盗聴を彼らはどのように見ているのだろうか.一貫性の欠けた御都合保守の典型的な,「国家安全保障」の中身をろくに確認せず,共和党政権のやることは何でも可というで黙認するのだろうか.民主党政権ならば,間違いなく喚き声を上げて,連邦政府=悪の権化の等式で攻撃し,大統領の弾劾を叫んでいるに違いない.
 現米政権を現在取り仕切っている連中の多くは,違法情報収集等で辞任においこまれた故Nixon元大統領を引き継いだFord政権の中枢にいた連中でもある.Nixon辞任後制定された各種の改革は結局30年も持たず,改革以前の当事者によって反故にされ30年前に回帰したようだ.実定法に優先するとされる「国家安全保障」という大義名分が醸し出す「魔力」に改めて恐れ入らざるを得ない.

 [1月2日に一部訂正および加筆]
© 2006 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:1/2/2006/ EST]

今年の終わりに

2005-12-31 23:53:23 | 雑感

今年もあと数時間を余すだけとなった.米国の建前と乖離した選挙・投票実態について触れたのが,約三ヶ月前の9月だったが,その後,このような状況について比較的知名度の高い米大学教授が以下のような著書を今秋上梓した.

Fooled Again: How the Right Stole the 2004 Election & Why They'll Steal the Next On Too (Unless We Stop Them) by Mark Crispin Miller.
New York: Basic Books, 2005.

同著者の網誌は以下のとおり:
http://markcrispinmiller.blogspot.com/

当該主題については,米国人でありながら英国の報道機関を通して活動しているGreg Palastの網站でも扱われている:

http://www.gregpalast.com/columns.cfm

米国の電子投票の問題については,以下の団体が老舗的存在で,電子投票機業界と米共和党系政治家の密着ぶり等が同団体のBev Harrisによる単行書"Black Box Voting:Ballot Tampering in the 21st Century"において暴露されている:

http://www.blackboxvoting.org/

また,以下のVotersUnite.Org等も電子投票についての有益な情報を提供している:

http://www.votersunite.org/

上記のMark Crispin Millerは,一昨日Air America Radio(http://www.airamericaradio.com/)のMike Malloyが代替登板した番組に電話登場したが,彼によると同書の全米地方営業で或る書店で販促署名会を行った際,昨年の米大統領選挙本選で民主党候補になったJohn Kerry米上院議員と遭遇したそうだ.昨年の選挙では再集計を強く要求せず「敵前逃亡」したとみなされている彼に対して,電子投票の問題その他について敢えて質したところ,同上院議員は当該話題についてそれなりの関心を示し,状況改善については意見が一致したらしい.後日,署名会で会話について同教授が他所で述べたところ,同議員の事務所から会話を否定するような公式声明が出されたとか.また,同教授によると左翼系の老舗雑誌Nationも如何様電子投票や選挙・投票妨害については沈黙を守ったままだとか.公民権擁護の砦とみなされている左翼系媒体,言論人,政治家がこのような自己欺瞞的沈黙を守り,如何様電子投票機の導入が民主党の最後の牙城とされる北東部の州で今後進行すると,南部等で出来した事前調査結果を覆すような破天荒な選挙結果が来年以降見られるかもしれない.例えば,2008年の大統領選挙に彼是取沙汰されている紐育州選出のClinton上院議員は来年再選の年になっている.紐育州,特に保守的なUpstateの郡において来年11月の投票日までに如何様電子投票が浸透すれば,大統領選挙どころか,自州での再選すら果たせず惨敗という結果もそれなりに現実的な予想となる.
 現実志向の左翼人が,公民権については保守的な連中よりも敏感な筈にもかかわらず,選挙・投票妨害の存在に沈黙している様をみていると,現米政権に嵌められた対伊拉克(Iraq)軍事介入賛成と同等のものを感じてならない.選挙上現実的な選択肢とは見做されない,左端的な「組合同伴者的かつ空想平和主義的人権派」と十把一絡げされることを恐れる余り,より中道的な旗幟を鮮明にするため,本心以上に保守ぶることが間違いの始まりなのではないか.より現実的(tough)な選択肢(候補)として見做されたい為に,自分本来の立場とは多少離れた所に位置付けする身の程知らずの慣れない「突っ張り」を米現政権に足元を見透かされて上手く釣られてしまったのではないか.
 今月,また今春頃より続々と暴露されてきた米現政権を取り巻く闇の存在は,2001年の9月11日事件以降の「戦時下」において,政権との協調(野合)の道を選択し,政権に白紙委任状を与えてしまったた野党民主党に後悔・慙愧(ざんき)の念を今抱かせているに違いない.「『戦時下』とは言え,法を超えてあそこまでやるとは思わなかった」米現政権による国内の野放図的電話盗聴が今月になってNY Timesにより漸く暴露された.報道の内容はともかく,米国の主流報道媒体の死体(しにたい)的状況の証左になっているのが,この記事を同紙が現米政権に譲歩して一年程握り潰していたという背景だ.昨年の選挙前に同紙が報道していたならばどうであったか.NY Timesを左端紙呼ばわりする日本の保守系網誌をよく目にするが,安易な常套句の受け売りであることが分かる.
 米政権が内国の電話盗聴を法で決められた特別裁判所に対する「事前あるいは緊急時の事後の仁義」を切らず野放図に実施するようになった背景が,恰も点が繋がって線になるという感じで徐々に明らかになりつつある.2003年の3月末に米軍等が伊拉克に軍事介入する直前の同月初頭,国連の安全保障会議の理事国が盗聴対象になっていたことが英紙Observerで暴露された.そして,今春,米国代表国連大使の米国連邦議会上院での承認過程で指名候補が上記の国連での盗聴や国務省等の政府関係者に対する盗聴にも関与していたことが明らかになった.そして今月,9.11事件以降現政権の行っていた電話盗聴の多くが,法的な手続きを経ていないことがNY Timesにより明白になった.現政権がなぜ事後承認手続きをも認めた特別裁判所の過程を通さず盗聴を勝手に始めたかであるが,反米過激派の破壊工作を挫くための喫緊(きっきん)の盗聴ではなく,対伊拉克軍事介入の地均し・情報収集の一環として国連の他国外交官や政権内部関係者に対するものであったため,裁判所の否認を受けることが多くなり,よって国家安全保障という「錦の御旗」的大義名分による適当な解釈により裁判所を迂回して勝手気ままに盗聴を始めたのではないか,と推測する情報が網路上で見られるようになった.野放図な盗聴が昨年の大統領選挙の際に活用されたのかどうか等については不明だが,1972年,1980年の大統領選挙の際に共和党側から民主党候補に対して行われた非合法情報収集を思い出すと,あれこれ揣摩臆測されても仕方ないであろう.
 21世紀の今,自由民主主義の唱導国として自負して止まない国ですら,「戦時下」においては,国家安全保障を楯に,盗聴にしろ,拷問による情報収集にしろ法治の土台を揺るがした政治が行われている.ましてや60数年前の日米開戦後日系米国人の憲法で保障された権利を無視して,内陸等の強制収容所に送り込んだ実績を持つ国であり,更に,40年程前まで非白人の公民権にあれこれ制限を加える州法が国の憲法解釈上認められ,白人が黒人を殺害しても無罪放免が異常ではなかった国なのだ.この程度の建前と本音の乖離に驚いていてはいけないのかもしれない.
 現在伊拉克で進行中の旧政権担当者の裁判は,日本人に極東軍事裁判の意味を再考させる格好の教材と思われるが,米国の対伊拉克政策の一周期の終焉をも示唆している.或る駆け出し中の暴力を厭わない活動家を育てて伊拉克の大統領にまで盛り立て,自らの対伊朗(Iran)政策の失敗を伊拉克の軍事行動によって埋め合わせようとしただけでなく,二股をかけて両者の疲弊による傷み分けを画策した.科威特(Kuwait)との油田騒動で両者の蜜月は終了し,かつての戦略的相手は悪の権化に祭りあげられ,挙句の果てには物理的に一撃抹殺されるところであったが,極東軍事裁判の東條英機同様,将来米国に逆らう者への見せしめとして,裁判という「市中引き回し」という曝しを十分経てから,処刑(場合によっては無期懲役)にされるに違いない.米国自ら怪物を育て飼い主の手を噛めば処分するという過程は,米国の裏庭的存在の中南米では当たり前であったが,1979年伊朗では,前例を覆す原理主義政変があり,伊朗は当該周期から離れてしまった.来る2006年,あれ程肩入れした伊拉克が「合法」的に,1930年代の独逸同様,憲法を停止して伊朗同様の国体を目指したり,支那の三国志よろしく,二ヶ国足す一地域に実質分裂状態に陥る可能性がないとは言えない.当該二ヶ国が米軍に対してどの程度その出来にかかわる恩義を感じるかによって来年以降の米軍駐留の命運が決定されるに違いない.
 © 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:12/31/2005/ EST]

政治と行政の距離のとり方 西村眞悟衆院議員をめぐる一件で思うこと

2005-11-27 02:21:28 | 雑感
 最後の更新が9月末であったから,二ヶ月余り当網誌を留守にしていたことになる.今,米国は感謝祭の残照的週末で,普通の米国の家庭では,割引商品の特売による買物で多忙か,家で米式蹴球等の運動競技を電視観戦しながら寛(くつろ)ぐ,という形が多い.仕事の方は何とか感謝祭前に一息をつくことができたが,「初校が原稿」という仕事ぶりと同じで,具体的な形が可視状態になってから「注文の多い料理店」的にあれこれ破天荒な要求が出てくるのが普通であるから,まだまだ息が抜けない状態が続きそうだ.
 この二ヶ月余り,網誌を書く話題はそれなりにあったのだが,それらの背景にあるものが当網誌でこれまで述べてきたことの反復になるようなものばかりで,遅々として進まず期日破りが続いている仕事の進捗状態と相俟って,気が重くなり日本語を書く気力が失せてしまっていた.最近気懸かりになっている話題が,先の衆議院選挙で小選挙区で落選したものの比例代表で復活当選した西村眞悟代議士の政治生命を狙った弁護士法違反容疑による逮捕という策動だ.現在の自民党総裁が首相になってから,政治的減り張りが効いた行政(司法)の執行が頻繁に見られるようになった.国会において拉致問題や国防問題等で煩い彼を,今回は確り止めを刺すこと(逮捕・有罪判決+議員辞職)を目標に司法当局に対して指揮権を日々行使しているに違いない.「人権擁護」の御経に染まった日本の報道媒体が,や中共絡みの殺人事件を扱うように,裁判で有罪判決がでるまでは腫れ物に触るような感じで,容疑者・被告としての西村氏を扱うことができるかどうか.日本の報道媒体の網站の見出しを見た限りでは「否」という趣だ.
 選挙によって検察の幹部が入れ替わるような米国では,このような政敵に対する選挙後の「御礼参り」的character assassinationは日常茶飯事であり,これといって驚くようなことではない.例えば,過去二ヶ月間に米連邦司法当局の大きな動きが見られたCIA秘密工作員の身元暴露事件も,暴露の発端は現政権の方針に対して非協力的だった元外交官に対する意趣返しだった.また政敵の封じ込めの手段も,司直や報道媒体を活用したcharacter assassinationだけでなく,様々なやり方を持っている.例えば,米国を代表する大使に特命されることは名誉なことであり,国対する立派な御奉公ということで建前的に拒絶し難いものだ.米国史を振り返ると,自党内の強力な競争者を蹴落としたり,対立党の金庫番的顔役の米国内での献金獲得活動を封じたりするため,該当者を重要国の大使に特命したという例が散見される.1960年米大統領になったJFKの実父のJoseph Patrick Kennedyは第二次大戦前,大統領になる野望を持ちながら,FDRに嫌われ,かつ彼の強い人気が警戒されて,体良く駐英大使として英国に飛ばされている.Watergate事件等で自分の再選のためには手段を選ばなかった共和党選出大統領のNixonの場合,念には念を入れる形で,民主党の金庫番的存在の大幹部を大使としてわざわざ任命している.
 生臭い政治に振り回されない専門家による行政というものは,日米双方の歴史を振り返ってみても,昔より目指されてきた理想であるが,政治と行政との間の望ましい均衡点を求めて,それを維持することは容易ではない.日本の場合,「公を取り仕切る価値基準は常に一つ」というような思考から抜けきれず,政権交代に不可欠な「責任ある野党」という議会制民主主義の基本概念が中々根付かず,文・武双方において唯我独尊的な閉鎖的官僚組織の独走・組織防衛を許し,自らの法的存在を規定した大日本帝国自体の崩壊を誘引してしまった.20世紀初頭の米国で一世を風靡した進歩主義は,従来の選挙による猟官主義のもたらす弊害に対処するため,米国の自治体における行政の専門化を促進させた.しかし,行政組織が肥大化した20世紀後半においては,その時代の変化に対する適応力やその存在意義自体が厳しく問われ,「公」の最終的な象徴・聖域と思われてきた国防・警察すらも服務執行上の最終責任の所在が不明確のまま民間への外部委託が浸透する領域となり,今まさに「公」の意味が問いただされている.
 先の選挙で衆議院に戻ってきた辻元清美には,彼女に頼らざるを得ない「死に体」状態の政党が存在した.有罪判決後,刑執行等が終了したのち,西村氏を公認するような政党は果たしてあるだろうか.

 © 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:11/27/2005/ EST]

文明化した社会の或る終着点 「血を見る」ことを忌避した社会の黄昏

2005-09-25 02:36:33 | 雑感
 最後に本網誌を更新してから3週間弱経ったが,仕事の締切が9月中旬から9月末に延びたため(実質10月に繰り延べか),更新する余裕が見出せないままになっていた.先月より職場が変わったが,仕事場の物理的環境の向上が,そこで働く雇用者の生産性を如何に高めるかを改めて感じている今日此の頃だ.そのような忙しい最中,ある大学教授の一時間程の講演を聞く時間を設けて聴講に出向いたが,講演の内容は今一つ以上のもので,あのまま仕事に専念していればよかったかなどと一瞬後悔したが,その後色々考える切っ掛けになったので,完全に無駄ではなかったようだ.当該教授は1950年代前半から在米生活50年余りで近頃名目上退職されたようだが,自分の在米体験と,第二次世界大戦前後米国Yale大学で教鞭をとっていた日本人教授の故 朝河貫一(あさかわかんいち:http://www.db.fks.ed.jp/txt/10011.103.nihonmatsu/index.html)の半世紀に渡る在米体験(昭和23(1948)年に逝去)を重ね合わせて,日露戦争と大東亜戦争の戦後について論じていた.早い話が,当該教授は,今の平均的日本人の心情(日露戦争は勝って良かったが,大東亜戦争は負けて残念だった)とは全く逆のことを感じている,即ち,日露戦争は勝ったものの問題を彼是残して良くなかったが(帝国主義の継続),大東亜戦争は負けたが戦後出来した新秩序は良かった(帝国主義の終焉),というものだ.敗戦時10歳であった此の教授はいわゆる「国民学校」の世代で,この世代の日本人は,昭和一桁前半以前に生まれた連中と比較して,一般的に,何か物足らなさを感じることが多い.結局当該教授は,戦後の米軍占領中に受けた洗脳を,疑うことなく,そのまま有難く頂いて今日まで研究・教育生活を続けてきたことが講演内容から分かった.まさに,片岡鉄哉氏が述べているところの「マッカーサーの宣伝相 ライシャワー」(『日本永久占領』第12章 標題)の申し子の一人として洗脳に沿って忠実に生きてきた人生と言える.
 この教授の講演を聴いていて思い浮かんだことは,彼が礼賛していた米露二大強国の均衡による第二次世界大戦後の世界秩序は或る暗黙の前提に基づいていて,今その前提が崩壊寸前にあるにもかかわらず,彼はこのことに気付いていないのではないか,気付いていても真剣に認識していないのではないか,ということだった.それは,統一された支那が経済的・軍事的に米露他の強国の後塵を拝したままでいるという前提だ.近年海外からの投資で潤ってきた中共は,その経済的成長を維持するため,形振り構わず,必要とされる資源を世界中から掻き集めることを意図していて,そのためには軍事的手段による威嚇その他の行使も厭わない立場を鮮明にとっている(例えば,沖縄近辺の海底油田問題等での日本に対する各種の威嚇).或る意味で,中共の地位を相変わらず見下して,自分(日本)よりも,社会経済的に数段下の国という趣の古い認識で,自分達の存在を脅かす競争相手という真剣な認識が欠落している.戦後賠償の一変形として日本から中共に公的な資金を恤(めぐ)んでやっているという事実をとられえて,日本の金持ちとしての立場の高さを彼是論じることは出来ようが,中共がそのように理解せず,米の核の傘の下に安住するような意気地なしの日本が中共の各種の威喝に怯えて見ヶ〆料的に「財政支援」している,というような認識をその国民に言い触らして周知徹底している現状がからすれば,笑止千万の自惚れではないか.確かに経済的に中共は日本程度の生活水準に未だ達していなので競争相手とは見做せないが,外交・軍事の断面については,そのような経済的な視点からの認識は全く通用しないのではないだろうか.外交・軍事では別の原理・原則が働いているのではないか.
 此処まで考えてふと思いついたのは,予てから考えていたcivilized society(文明化した社会)の「終点到達」現象だった.最近の太田述正氏の網誌では,度々日本その他の「いわゆる」先進国社会における中性化が論じられている.彼の中性化論で未だ詳しく論じられていないことに,中性化と武力の行使,或は流血を厭わない紛争解決を忌避する傾向の関係がある.戦後日本を振り返ると,国際紛争の武力による解決の原則否定の憲法を頂いてから,何事につけても,「血を見る」問題解決を最大限に忌避してきた,「血を見る」問題解決を行わないことが「文明化した社会」であるという建前を維持してきたと言える.勿論,本音は別で,国会での乱闘や暴力を伴う路上威示行為等に見られるように,公的な側の法的裏付けを持った暴力行使(警察)は「人権弾圧」の枕詞で極力否定・攻撃するが,非公的な側の自力救済的暴力行使は「革命肯定史観」に則り造反有理的に可であり,暴力を厭わないことが明らかで,「暴力反対」も所詮建前だけのことが分かる.紛争解決において武力行使を厭わない「文明化していない社会」と其れを厭う「文明化した社会」が衝突した際にどのような結果になるかは,人間の歴史を振り返れば自明だ.そのような武力を厭わない非文明化社会が,経済的に豊かで血を見ることを避けたがる社会に乗り上がり武断政治で統治を継続すると言う形態は,支那の「元」や「清」を見れば明らかであり,現在の中共の政治体制から判断すると,日本が米国から見放された場合,中共の餌食になり,朝貢国に転落ということも十分在り得る.
 世界の文明化した国が中共,そして或る程度露西亜に対して疑義を拭えないのは,彼等の国の規模の大きさだけでなく,彼等の武力行使機構に対する法的拘束やその運用にまつわる不透明さであり,いざとなれば,結果が全てを肯定するという「何でもあり」,という点にあると思われる.特に中共の場合,一党独裁状態が半世紀以上続き,自国民を何千・百万人死に追いやっても,共産党を牛耳っている限り,その責任を全く問われない,という指導者が「血を見る」ことに対して全く無神経な点も更に疑念を深くしていると推量される.米軍の日本占領を安全なものにして,占領終了後も日本を波多黎各(Puerto Rico)的な保護国として繋ぎ留めて置くためは,武力行使(血を見ること)の忌避の建前を「文明化した社会」の最重要条件として日本人に吹き込むことは大義名分の立つ有効な洗脳手段だったに違いない.勿論この現代版「刀狩」の背後には,元来軍人嫌いで有名な元外交官の吉田茂が長期に渡り首相として日本側の窓口になったという予想外の援助も当該洗脳を深化させ,また吉田の弟子が占領後の日本の政界を支配したことも洗脳の継続に役立った.「血を見る」ことを厭わない中共の最近のあからさまな世界戦略は,従来洗脳に浸かってきた日本人を漸く覚醒させることになったようだ.このように,今の極東の情勢は日支が対峙する日清戦争直前の世界に逆戻りしたと認識することが不可欠と考えられるが,「血を見る」ことを忌避し,経済的側面からしか日支関係を見ることが出来ない連中にとっては,元と宋,後金と明という関係の将来しか描けないのかも知れない.
 米国の様子を眺めていると,先に触れた社会の中性化が必ずしも「血を見ることの忌避」に直結していないのではないか,と思われてならない,日本とは違い,「紛争解決の最終手段としての武力」に対する認識には変化がないように見える.典型的な性差による認識からすれば,社会が女性的な極に接近する形で中性化が進めば,武断的な行動は忌避されることになるはずだが,米国の場合,この点に関しては女性側が社会的進出を認知されるために男性的な極の方向に歩み寄る形になったようだ.女性が知事や自治体の首長を努める条件として,警察・軍等の指揮能力が不可避であり,そのような意志・能力がなければ選挙では勝てないことになる.またどの国でも同じだが,武力行使に対する認識や尚武の傾向も地域や社会層によって差があり,戦前の日本では,九州,北海道出身者には強兵が多いが,商都であった大阪からの兵隊は今一つと見做されていたように,米国の場合,田舎の州ほど銃規制への反対など武断的或は尚武的傾向が強い.また,尼日利亜(Nigeria)出身の留学に昔聞いた話では,同国の軍隊の基幹を構成しているのが北部の田舎の回教徒系で,南部の基督教徒系は都会育ちの軟弱傾向で兵隊には向いていないそうだ.
 時によっては血を流すことも逡巡しない人間を世襲の社会の指導層として維持して来たのが日本の幕藩体制の政治的一側面であった.戦後の日本は,そのような「侍」の存在の意味を忘却し,尚武という価値観を否定することによって成立してきたと言える.平成15年の内閣府の世論調査(「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」:http://www8.cao.go.jp/survey/h14/h14-bouei/index.html)を見ても自衛隊や防衛問題への関心に対する女性の関心は男性より明らかに低い.最近の日本の保守系論者による社会の中性化批判は,中性化=武力解決の忌避あるいは尚武の否定,という等式を暗黙の前提としているのではないだろうか.米国の先の例を見る限り,中性化=女性化でない以上,男性側に女性側が歩みよる中性化の選択肢もありうる.最近の保守系論者による法的な男女平等の実現を脇に置いた鸚鵡返し的「ジェンダー・フリー」攻撃は,人間社会において武力というものが最終説得手段である,という事を「血を見る」ことを厭う「戦後民主主義」的人間に対して巧く得心させることが出来ずにいる苛立を別表現したものではないか.多分,尚武というものを男の独占物とみなし,兵役・国防の責任を男女共通のものとみなしていないことに根本的な問題があると思われる.男女平等の原則に立脚していれば,以色列(Israel)で実施しているように,女性に対しても兵役の義務を課することは可能で.武力という最終説得手段の行使も不可避なのが人間社会の理(ことわり)であり,国防の基本原則の一つである,という風に女性を説得させることも可能なはずだ.従来男の独占物であった尚武の精神を性別を超えた普遍的な価値に高め,自由民主主義国家の基幹である男女平等の原則を逆手にとって女性側にも「血を見る」ことの不可避性を納得させない限り,戦後の洗脳=「血を見ることの忌避」から解脱できない状態が続き,日本が中共にとって実質的な一朝貢国に成り下がる日も遠くないかもしれない.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:09/24/2005/ EST]

2004年米国大統領選挙にまつわる闇 「自由民主主義国」米国の選挙をめぐる建前と実際

2005-09-04 23:24:34 | 雑感
 当該網誌を始めることを決めた際,此の話題について何時か書き留めなくてはと思っていた.来週日曜,日本は衆議院選挙日であるし,また当該話題に関連するのだが,昨夜米国連邦最高裁判所長官が死亡ことでもあるし,時宜にかなっているだろう.細かく書きたいところだが,仕事の締め切りが迫っているので,要点だけに止めよう.
 昨夜死亡した米連邦最高裁長官は,米国における法曹界の頂点に立つ者として資格を厳しく疑われる過去を持っていた.そのような過去を彼は連邦議会上院での連邦最高裁判事承認委員会において否定し,後日それが偽証だったことが判明する.このような如何わしい背景を持つ男が1980年代に長官に指名され,昨日まで法曹界を牛耳っていたことになる.
 彼の過去とは,その昔,亜利桑那州における選挙の際,共和党代表立会人として,投票場で非白人の投票者に対して彼等の投票資格について彼是疑問を呈するなどして,投票阻止・妨害を行ったことである.1960年代の公民権をめぐる法改正・各新法制定までは,米南部では非白人に投票をさせない色々な仕組みがあった.前出の投票場での立会人による投票阻止は,投票場に行けるだけ未だ御手柔らかな遣り口で,非白人を投票過程に全く係わらせないようさせる手段が色々考案されていた.前米連邦最高裁長官が立会人としてやったことが,当時の亜利桑那州の州法や連邦法に抵触していたのか確認していないが,他国に「自由民主主義」を説教して止まない米国の法曹界の頂点に立つ者として,その様な行いが相応しいかどうか自明であろう.
 米国における選挙・投票の実践を観察している,手段を選ばない人間の知恵には限界が無いということをつくづく痛感させられる.確かに,1960年代の公民権運動で,建前上,人種その他の紐付きなしの成人の投票が可能になった.しかし,米国は建国以来,民権の拡大派と制限派の鬩ぎ合い状態にあり,選挙・投票もその好例で,投票の運営における技術的な点を最大限に利用して,都合の悪い連中(特に,非白人)にはなるべく投票させないという地下水が今でも脈々と流れている.米国憲政史に名を残している政治家の中には,明らかな選挙違反をして選出されたという「武勇伝」を持つ者が少なからず居る(L.B.Johnson大統領は,得克薩斯州から連邦上院議員として選出された際,当時の得克薩斯州の選挙常法に従い,僅差で勝利を収めている).
 2000年の大統領選挙では,佛羅里達州で集計作業が紛糾し,結局,米連邦最高裁が大統領を決定した.後日の大学関係者による再集計の結果では,前副大統領の民主党候補者の表が上回っていたことが判明したが,9.11事件による戦時体制突入により,現政権の正当性に疑いを挟むことは米主流媒体界では禁忌となった.また,前出の佛羅里達州の再集計で一部露呈していた投票をめぐる様々な疑惑・問題は,一部電子投票の導入の促進で解決されるかと思われたが,結局,投票過程を更に不透明化して,監察不可能な投票という悪魔を出来させることになった.そして,2004年の大統領選挙だが,投票前,投票中,投票後,という三段階において,俄亥俄(Ohio)州その他で,近年まれに見る選挙妨害・違反その他が出来した.俄亥俄州は同州選管によると現大統領が勝利したことになっているが,報道媒体による情報や連邦下院議員による調査によると,当日投票機の不備その他で投票を断念せざるを得なかった者,投票入場券を受け取れなかった者,投票したものの無効票扱いになったものが多数あり,また,請求され実施された投票後の抽出再集計も,手作業による全数集計を防ぐため,「やらせ」の「無作為」抽出で行われ,集計をめぐる疑惑も解明されることがなかった.
 日本の選挙の感覚からすれば,投票所で候補者名を名前を所定の用紙に書いて所定の箱に入れ,後で集計すれば終わり,という単純作業に見える.住民票という基本的な台帳が投票者名簿作成を簡単にしているのだが,米国にはその様な住民票はないので,自己申告による登録が不可欠だ.よって,日本のように,選挙の時期になると役所から律儀に入場券が自動的に郵送されるような甘やかされた仕組みとは全く違い,関心の無い者には投票させないものとなっている.また,この投票者登録自体が非常に米国的で,役所だけでなく,民間団体が投票者申請の代行を行えるようになっている.確かに,自分と思想信条を共にしている連中を組織的に募りたい場合には,結構なやり方だが,法的縛り等で無党派の看板を掲げて申請書をまとめても,覆われた下地により,当該団体と立場が異なる側で登録した者を廃棄することも可能で,事実そのような事例が昨年の選挙の場合西部の州で見られた(今の米国には,連邦が運営する選挙は無い.連邦議員も大統領(選挙民)にしても,すべて州単位で選出することになっているので,現在実施の各選挙を規定するのは州以下の法とになる.米国の投票登録申請は,大抵の州で,自分の党派を明記させるようになっているので,申請者が民主党,共和党,その他であるかが申請書により一目瞭然となる).このような民間代行も可というような認識では,投票者台帳を正確に随時更新するかどうかは,各政府のやる気・懐具合次第で,州によっては財政難を盾に更新が遅れているとこもあるようだ.よって,申請しても,投票所入場券が郵送されてくるまでは,安心できない.また,不在者投票にしても,「なるべく投票させない」というのが原則からすれば,彼是条件を厳しくして,実質投票不可能にもっていくことも技術的に可能だ.昨年の俄亥俄州の例では,病院の入院患者に不在者投票が認められず,点滴道具をつけたままの患者が投票場の長い列の中にいたそうだ.
 米国における投票日における投票妨害の典型が,警察官を投票場に貼り付けて,逮捕や任意同行の恐怖心を起こさせて投票場に近づけない,駐車違反その他各種科料の未納名簿を用意しておき,該当する投票者が現れれば,完納するまで即時逮捕・拘置という御触れを出しておく(=>貧乏人は逮捕に怯えて投票所に現れない)である.また,昨年の俄亥俄州の妨害例の傑作が,民主党候補への投票傾向が強い黒人が集中している貧困都市部では,投票日に水道の検査日を故意に重ねて,日中の成人(投票者)の在宅を義務付け,違反すれば水道の供給中止という御触れを出して,母子・父子家庭を合法的に投票所に行かせないようにした自治体もあった.また,投票機を満遍なく配備しないで(黒人地区等の民主党地区には少なく配備),人工的に長蛇の列(投票までに数時間)を作って,これまた合法的に,投票を断念させるという遣り方も昨年の俄亥俄州で見られた.
 日本では最近電子投票が試みられて色々な問題に突き当たったようだ.しかし,電子投票が広がっている米国では日本や加拿大(Canada)の紙による投票を羨む者もいる.米国の電子投票の問題は,投票機が民間業者からの賃貸であり,投票機の軟体(software)の監査,集計過程の安全性が政府によって厳しく審査されていなことと(投票者が自分の投票結果を紙で受領することなども義務付けられていないところが多い),投票機を製作している会社中,市場を占有している大手二社の社主が兄弟関係にあり,彼等と基督教系のcult集団との関係が疑われていることだ.日本でたとえるならば,創価学会やオウム真理教の子会社が投票機を製作して,息のかかった支持政治家の口添えで各自治体に無理やり賃貸契約を結ばせ投票機賃貸市場を占有し,選挙管理員会の投票機監査要求に対しては企業秘密を盾に拒絶する,あるいは,適当に御茶を濁す,というものだ.よって,投票所におかれた投票機の実際の作動・精度を適宜操作することや(A候補に投票しても,B候補に投票されるようにする,集計時に集計結果を操作する),各地の集計結果を網路経由で送り選管でまとめる際に「からくり」を埋め込んで,特定の支持候補が最終的に勝てるようにする,などの操作が可能になり,監査も手緩いので此のような「からくり」もばれない.平均的な米国人は現在の電子投票の危険さを殆ど理解していないようで,事務の効率化,税金節約というような視点でしか見ていない.事実,電子投票にまつわる疑惑が全米各地で報じられているが,政権党である共和党に取っては投票機は打ち出の小槌的存在であり,厳しく規制したり監査したりという姿勢は全く窺われない.
 最後に,投票後の集計・再集計における操作だが,日本でも仕込んでおいた投票用紙を集計中にこっそり入れ替える事件があったため,職員がステテコ姿で集計していた時代があった.米国の場合,日本の記入式は違法(かつて,南部では元奴隷の非白人を投票させないため識字試験を課するという投票妨害があった)になるはずなので機械による投票・集計が殆どだ.投票用紙に穴を開けて集計する形式の場合,穴あけ・読み取り精度の問題だけでなく,用紙の設計も問題となる.昨年の俄亥俄州の場合,投票所毎に穴あけ(候補者)の順番を変えるなど複雑な決まり事があり,集計結果を煩雑にさせて,集計の錯誤をわざわざ招くような形式になっていた.また,投票しても,所定の投票所以外で投票すれば無効票にするというような集計上での操作も,米国で良く見られる無効票出来による投票妨害の一つだ.電子投票の場合は,機械に一蓮托生で,停電・故障その他で機械を再立ち上げした際,それ以前の投票結果が果たしてそのまま残っているのかどうか,監査が緩いため不明なことが多い.昨年の俄亥俄州の場合,OECD関係者が開票の立会いを求めたところ,様々な法的手段を講じて直の立会いを拒絶したことは報道媒体上では殆ど報じられていない.
 このように昨年の大統領選では,俄亥俄州で近年まれに見る,選挙前,選挙中,選挙後の妨害が発生したが,9.11事件以降戦時下にある米国では,主流報道媒体は,此れまでの各国の戦時下の報道媒体と違わず,現政権と距離を詰めることはあっても乖離しない道を選択して今日に至っている.真実の報道が報道媒体の至上の価値であるならば,Iraqの大量破壊兵器をめぐる論議で厳しい立場をとる事ができたはずだが,米国の主流報道媒体はその様な選択をしなかった.昨年の大統領選挙の違反・妨害についても同様だった.州の選挙管理の元締めである州総務長官(共和党)の強力な指導の下,1960年以前を彷彿させるような選挙妨害が明らかに俄亥俄州等で進行していたにもかかわらず,米の主流媒体はIraqの民主化には口を挟んでも,自国の民主主義の実践が腐敗・堕落していることには目を半分瞑り続けた.そして,投票日あからさまの投票妨害が発生したにもかかわらず,米主流報道機関は現職の勝利に注目するだけで,その過程が如何に疑問符が付くものであったかも殆ど報じなかった.一方,野党の民主党も,戦時下の野党に典型的な現政権との対決回避で御茶を濁し,当該問題を殊更追及しなかった.2004年の大統領選挙について彼是論じることは,現在の米媒体では,「電波」を飛ばすことと見做され,人権派系の言論人・媒体のなかにも世間体を憚って,殊更否定に躍起になっているものもある.
 Iraqに自由民主主義をもたらそうと自国の多大の税金と人命をかけ,自由民主主義国の盟主と自負する国ですら,自由民主主義の実践についてこの程度しか達成できていない.「(非白人には)なるべく投票させない」という不文律が建国以来地下水として流れている以上,自分達に投票しない連中については関心が散漫になり,ましてや今年は選挙の年ではない,そのような価値観が図らずも露見したのが今回の颶風で浸水した新奧爾良(New Orleans)市への連邦政府等による救援の出遅れだった.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:09/04/2005/ EST]

米国で自然災害と無縁の州とは

2005-09-02 23:21:04 | 雑感
今日で九月も二日目だが,米国人にとって実質的な夏の終わりは,九月第一週月曜日のLabor Day休日に焼肉野餐(barbecue party)を済ませた後になる(因みに,米国の暦の上での夏の終わりは秋分の日となっている).心機一転の新年度の始まりは,大学等の米式足球の対抗試合の開始など,何となく御祭り気分的な雰囲気が漂うのが例年のならいだが,今年は密西西比河の河口付近の地域が颶風により多大の被害を受けたため,例年の御祭り気分も霧散してしまい,今日の夕方の定時電視新聞(news)番組も全て当該颶風絡みのものだった.
 今日或る日本の外交報道系系の網誌を覘いたところ,いわゆる州兵(national guard)の投入が今回遅れた事にについて,米国州兵が災害救助慣れしていないような批判が展開されていた.この網誌が外交報道専門でなければ無視してしまうのだが,外交報道でそれなりの情報提供をしている網誌だったので少々残念でならなかった.当該網誌主宰者が忘れているのは,現在米国の各州の州兵は交代でIraqまたはAfghanistanに派遣されていて,当該派遣についても動員の長期化・要員の補充不足その他で様々な問題を生じている状態であり,平時とは違い,今の米国には簡単に州兵を自国内で投入できる余裕が全くないのだ.更に,治安悪化が伝えられた路易斯安那(Louisiana)州新奧爾良(New Orleans)市が隣接している密西西比州の州兵は現在Iraqに派遣されて留守なので,対岸の同市の救援に向けることは出来ない.結局,現在帰国中の土地勘の無い遠方の州の州兵の日程を遣り繰りして投入せざるを得ず,更に準備に手間取ることになったと言える.日本の電視新聞番組では,新奧爾良市辺りの治安悪化を殊更強調しているそうだが,米国の報道では被災した人々の窮状についてのものが殆どだ.やはり,此処辺りにも,報道の自由がある国(米国)については彼是批判するが,報道の自由の無い国(中共・北朝鮮等)には沈黙を守るという,日本の報道機関特有の内弁慶的性質が如実に現れているようだ.また,着の身着のままで避難所に向かい,停電・断水でしかも市,州,連邦政府から三日余り何の援助もなく夏の炎天下の下に置かれた人々にとって,生き延びるために残された手段が略奪による水・食糧の調達であってもおかしくない.まさに,「衣食足りて礼節を知る」という箴言(しんげん)の通りだ.
 あのような規模の自然災害を見ると,米国での住む場所の選び方について色々考えざるを得ない.米国本土外の阿拉斯加州は酷寒で,太平洋の夏威夷(布哇)は確かに常夏ではあるが,颶風と津波は覚悟しなくてはいけない.では,米国本土はどうか.寒い所が駄目というのが最重要基準であれば緯度の低い州に住むしかない.しかし,低緯度地域は東から西まで,数年,数十年に一度の割合で何らかの自然災害に出会い,家財・家屋だけでなく自分の命まで失う可能性がある.即ち,東海岸から,颶風,中西部は竜巻,そして西海岸の地震である.亜利桑那州や新墨西哥州は乾燥していて雨とは無縁と思われるが,此のような地域でも稀に豪雨による鉄砲水による山津波が発生する.北東部は,海岸沿いの州が偶に颶風に襲われることが,地震もなければ竜巻もない.しかし,豪雪は数年に一度は必ずある.中西部の加拿大(Canada)沿いの州は,颶風とは縁がなく,竜巻も頻繁にあるわけでもないが,豪雪は覚悟しなくてはいけないし,冬場に晴天を拝める日が限られているのも難点だ.では,洛磯山脈(Rocky Mountain)辺りの州には自然災害の問題はなく穴場なのだろうか.実は,老忠實〈Old Faithful〉噴泉があるように,当該地域の地下には超特大の休火山があり,万か百万だったか,正確な周期は忘れたが,定期的に噴火してきたことが判明している.よって,非常に長い目で見れは安全な所とはいえない.この休火山が爆発すると,中西部の穀倉地帯はもちろん米国各地が火山灰を被り,他国へ食糧供給どころではなくなるらしい.勿論,そのような巨大火山の噴火は火山灰が太陽光線を長期に渡って遮るので,地球に氷河期をもたらす事は間違いない.
 このように米国のどの州を選んでも大抵自然災害との共存の覚悟がなければ,やっていないことになる.あの米国人の能天気な明るさや実際的な気質も,過去の各種の自然災害という篩いにかけられた選民の結果あるいは記憶ではないか,即ち,生き抜く意志・器量・体力・運などの点で特定の範囲に居た者が不条理な災害を乗り越えて生き延びてきた,と.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:09/05/2005/ EST]

網誌人(blogger)が燃え尽きるとき:新年度の始まり

2005-08-27 14:01:41 | 雑感
網誌を色々覘いていると,仕事持ちの主宰者の場合,勤務形態の変更等により,本人が「燃え尽き」状態になり,網誌が停止・廃止になった事例に時々遭遇する.日本で通勤している網誌人の場合,新年度が始まる四月前後に集中することになるのだろうか.網誌『殿下さま沸騰の日々』で有名な安田隆之氏も,半年に渡る求職期間の後,この四月に目出度く転職に成功されたようだが,新しい職場での勤務は網誌を書く余暇の時間を侵食していたようで,遂に先月末「燃え尽き」状態に至ったのか暫く休筆となった.以前,さるさる日記で自分の都合に合わせて自由に書いていたころと違い,月刊WILLに記事が掲載されて,読者からの期待が高まると,いい加減な仕事(網誌)を日々残すわけにはいかなくなったという,有名人ならでは「縛り」という理由もあると思われる.
 日本で新年度と言えば,大抵四月と相場が決まっているが,かなり昔,即ち,夏目漱石の小説『心』の主人公が大学を終えた頃は,英米と同様,新学期は秋から始まり卒業式が夏だったことが文中から読み取れ,業界によって年度の始まりが異なっていたことが分かる.四月始まりの軍関係学校等との関係で,明治中期に小学校は四月始まりになったようだが,東京帝国大学が此れに従ったのは大正になってからのようだ.明治維新後,欧米の教育制度に倣って九月始まりにしたと思われるが,この背景には欧米からの御雇外国人との契約もあったに違いない.東大の前身の各学校の頃から御雇外国人が講師として教育機関等に多数雇われていたが,彼等の母国の流儀(仕事の始まりは九月からで春で仕事は御開き,夏は避暑・旅行による同業者間の交流・執筆活動等に充てる)に,日本の制度を合わせざるを得なかったのではないか.特に,日本の高温多湿の夏を考慮すると,学期間に長期の夏季休暇を入れることによる学習効率上の問題も含めて,御雇外国人にとっては九月始まりの方が望ましかったに違いない.そして,このような御雇外国人への妥協による制度は,帝国大学の教官がほぼ自前(日本人)で補充できるようになり,外国人教官への依存が解消された頃(大正時代)に消え去った,と.
 このような四月始まりの日本に対して,米国の役所の会計年度は全く一貫性が無い.連邦政府は10月始まりだが,大抵の州が此れに従わず独自の会計年度を持っていて,また市町村の段階でも州に従わず独自の会計年度をもっているところもある.このような年度開始の頭だし調整なしでも役所・社会がそれなりに動いているということは,米国において公的機関が果たす役割が1930年代のNew Deal政策が始まるまでは最小限に抑えられていて,財政規模が非常に小さかったので,連邦・地方の会計年度をそろえて効率化を図るような必要がなかったことが背景にあると思われる.公的機関の果たす役割が肥大化した現代の米国で,未だに国と地方が異なる会計年度を維持していることは,人間の適応力の幅が如何に広いかを示しているのではないか.このような米国でも,教育機関は何処でも九月乃至,緯度の高いところは八月末より始まる.九月の第一月曜日はLabor Day休日で,この休日にかけて昔米国が農業国だった名残の農畜産物の収穫祭というべきState Fairが各州で開催される.農畜産物の即売だけでなく,他の芸能系の興行や移動遊園地が一緒になった大規模のものもある.農業機械化以前の労働集約型農業のため,夏の農繁期には子供も重要な労働力であり余暇のように見做されていた学業は収穫終了までは休止という,工業化以前の社会を反映した流儀が,今でも米国の教育界だけでなく,他の業界,月刊誌,TV,古典音楽・歌劇その他に残っている.これらの業界では基本的に秋から春までが本稼動の期間で,夏の間は休業ないし間引き操業(月刊誌の場合,昔は七月と八月は合併号で済ませるのが普通だったらしい)状態となっている.また,自動車の新型販売が始まるのも九月からで,今秋販売開始されるのが2006年型のもので,七・八月は前年型の在庫一掃の特売の宣伝がTV上で頻繁に放映されることとなる.基督教系の教会にしても,信者が地元に居ない事が多い夏季中は各種の付加活動が停止状態になっていることが多い.
 このように米国に在住の網誌人にとっては新年度の始まりの九月前後が鬼門と言えるが,本網誌も肩に力を入れず,書きたいことを適宜暢気に書いていく形で続けていきたいものだ.

註:日本の学校の年度始まりの経緯については,取りあえず,以下の網頁を参照(詳しく調べれば,より学術的な網頁を見つけることができると思うが)
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/akasyo%20body.htm
http://homepage2.nifty.com/osiete/s542.htm

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:08/27/2005/ EST]

波士敦でみる英国風のもの

2005-08-24 23:33:23 | 雑感
 昨日23日は,今回の長期渡米が満6年になった日であった.人間ならば生まれてそろそろ小学校入学ということになる期間だ.そして今日24日は,竣工間近の棟に引越しての最初の勤務日だった.電話番号は引越前と同じものと聞いていたが,電話機自体が,新品が支給された同室の同僚とは違い,かつての仕事場から引き抜かれて他の引越荷物と一緒に運び込まれていたのには驚いた.英国式の各階の番号付けは,一階がground floor,二階が1st floorとなるが,米国の場合,日本同様,素直に一階は1st Floorとなるのが一般的で,偶に例外に遭遇することがある.新しい職場も,そのような例外の一つで,一階がground floorで,二階が2nd floor,そして地下一階はconcourseというものだった.
 波士敦近辺は旧大陸英国との関係が深いのか,英国風の物がそれなりにあり,余所者泣かせの一つになっているのが,円形交差点(rotary,英語ではroundaboutと呼ぶらしい)だ.確かに,信号機等の設備投資と電力供給が不要であり,停電に強いと言えばそれまでだが,慣れないと長縄跳びに飛び込んでいくような緊張感に襲われる.また,出口先の案内が悪いと,とんでもない出口に出てしまうことになるが,出口がはっきり分からない場合は,焦らず,目的の出口が分かるまで交差点中をぐるぐる回って標識等を確認してから出れば良い,というのが経験者の助言だ.即ち,普通の十字その他の交差点では,進行方向を間違って選ぶとそれで終わりだが,円形交差点の場合は,行き先に自信が持てるまでは交差点内をぐるぐる回っていても良い,という御気楽なものという見方もあるのだ.
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