波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

江戸と明治の間  「へこ」が意味するもの

2005-08-01 06:55:23 | 江戸
 昨日網誌『ヒロさん日記』に「へこたれる」という言葉にまつわる話が載っていた.少々気になることがあったので,Gooの辞書(三省堂提供「大辞林」)で調べてみると,「へこ」には,少なくとも「褌(=ふんどし)」と「兵児(へこ)」という意味があることが分かった.Gooの辞書には,褌としての「へこ」の使用例として,『東海道中膝栗毛』でのものが掲載されていたので,江戸時代の江戸では間違いなく使われていた=江戸詰めの武士や商人を通じて全国的に知られていた可能性が高いようだが,後者の「兵児」は早くとも明治維新頃までは薩摩方面の地方語と思われる.愛媛県の中予(松山,今治近辺)では,男がしまりがなく気合が入っていない状態であることを意味する語として「へこだすい」(「だすい[=緩い]」←「堕する」?)という地方語がある.果たして,ここでの「へこ」は素直に江戸以来の褌を意味する「へこ」と解すべきなのか,それとも後述する明治末全国区的地位を得ていた「兵児帯」由来のものなのか,思わず気になってしまったのだ.
 和服の歴史を調べると,明治維新以前は薩摩方面限定であった「兵児帯」は,薩長閥の新政府のおかげで,日本全体に広がり,明治末期には既に全国区的存在になったことが知られている.例えば,夏目漱石の『我輩は猫である』の第9章では,漱石である苦沙弥先生の出で立ちが描写されている:
この座布団の上に後(うし)ろ向きにかしこまっているのが主人である。鼠色によごれた兵児帯(へこおび)をこま結びにむすんだ左右がだらりと足の裏へ垂れかかっている。
(出典:http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html)
江戸生まれの江戸っ子で薩長を文化的に見下した感が端々に窺われる金之助(漱石)ですら明治39(1906)年頃兵児帯をしていたことがわかる.兵児帯も,褌同様,締りが悪いと着物の前が開けて下帯等が丸見えとなり,だらしないこと此の上ないため,意味合いによって語源を特定するのは難しい.結局,愛媛における昔の書き物その他をあたって古い使用例を探していくしかないのかもしれない.
 現代人が明治維新以降の事物をそれ以前の江戸時代に誤って投影してしまっているものは沢山ある.例えば,「であります」という語尾は元々長州言葉で,明治以降,新政府,特に陸軍を支配した長閥により,軍隊言葉として標準語に紛れ込んでしまった.よって,江戸末期の幕臣や佐幕派である新撰組の,武州生まれで関東育ちの局長近藤勇が「...であります」というような喋り方をすることはない.ところが,昨年NHKで放映された『新選組!』では,香取慎吾扮する近藤勇が「...であります」という件があり,「時代考証が比較的確りしている」とされるNHKでも脚本上の言葉までは考証が十分に及んでいなかったようだ.
 
註:
兵児帯については以下の網頁・網誌を参照:
http://www.kimono-taizen.com/know/hekoobi.htm
http://www.kimono-taizen.com/wear/w_heko1.htm
http://plaza.rakuten.co.jp/sekkourou/diary/200507220000/

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故林美一氏(1922-99)について

2005-07-22 03:28:36 | 江戸
 林美一(よしかず)という名前を聞いて何を連想するか,時代劇の時代考証家であろうか,それとも浮世絵や草双紙の研究者だろうか.林氏の著作との最初の出会いは,残念ながら竜頭蛇尾的な形で10巻打ち止め終了になった河出書房新社刊行の叢書,『江戸戯作文庫』の第一回配本だったと思う.草双紙の各葉に加えられていた解説を通して,江戸時代,行列中の掛け声「下にー下にー」は将軍家に対してのみ使われ,それ以外の大名は「わきよれ,わきよれ」だった等のことを知ったのも当該書だった.時代劇向けの時代考証に注がれた林氏の熱意に感服し,その後同氏の本を色々読み漁り,いい加減な時代考証の時代劇に随分憤慨したものだった.今でも印象強く覚えているのが,燗徳利((今では銚子と呼ばれるようになってしまった)が登場するのは江戸末期であり,それ以前は銚釐(ちろり)を用いていた,また,江戸時代,蒲団といえば敷蒲団を意味し,江戸では今風の矩形の掛蒲団ではなく夜着あるいは掻巻が用いられていた等々. 林氏の長年に亘る注意が漸く時代劇界の常識になったのか,昨年NHKが放映した大河ドラマ「新選組!」では,飲み屋で銚釐が確り登場し,日本で撮影して(?)米国公共放送局PBSで放映された以下の江戸時代番組でも銚釐が使われていた:
 
Japan: Memoirs of a Secret Empire [もののふたちの記憶]
http://www.pbs.org/empires/japan/
 
 江戸時代,既婚の女性は鉄漿(おはぐろ)をしていたが,この習慣を今日日の時代劇で出演女優にやらせて撮影したというようなものを見たことが無い.ところが,今から30年余り前の昭和46(1971)年,林氏が時代考証を担当した番組「天皇の世紀 第一部」では鉄漿の女性が登場し,幸運にも当該番組を見る機会に恵まれた.しかしTV受信機が白黒だったので,何と無く不気味に見えたことを今でも覚えている.勿論,当時この番組の時代考証を林氏が担当したことなど知る由もなかったが.このような林氏の時代考証への熱意がいつの間にか伝染してしまい,歴史上の誤解を正す作業に強い関心を持つようになったと言えるかもしれない.因みに,先日の記入で触れた『寺子屋式 古文書手習い』の著者である吉田豊氏も,同書によると,林氏の『江戸戯作文庫』を読んで同氏に師事することになったらしい.

註:
 林氏が生涯に亘って蒐集した膨大な草双紙等の資料は,同氏の死後散逸が心配されたが,立命館大学に一括寄贈され,そのうち一部分が以下の網站で検索閲覧可能(修正なし)となっている:
 
林コレクションプロジェクト:
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/biiti/index-j.html

立命館大学 ARCデジタル書籍閲覧システム:
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/db1/syoseki/search.htm
 
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地下鉄車内での暇つぶし

2005-07-13 01:05:30 | 江戸
 自宅と職場の間は徒歩で50分弱の距離であるが,地下鉄を利用すると,丸の内線の中野坂上から後楽園という趣の遠回りになり,また,始発と最終以外は実質時刻表がない悪名高き波士敦地下鉄の「柔軟」運行により,最短40分から∞となる(大抵は一時間前後).この1時間弱の間何をするか,今流行のiPodやCDで音楽を聴くという生活様式に馴染みがないので何かを読むことになる.各駅で無料で配布している地元密着情報系の日刊小報(tabloid)は回収利用条例等で後始末が面倒で,購読している新聞も,日本の日刊紙のように一冊ではなく,複数冊構成で分厚く携行性が悪い云々と持ち前のものぐさぶりで,結局,本か複写物等の刷り物に決まってしまう.
 最近は老眼の徴候が見え始め,余り明るいとは言えない車内で細かい文字に焦点を合わせるのが苦痛になってきた.ならば,どの様なものを読むか,救いは思わぬところにあった.江戸時代のいわゆる往来物(複写)である.往来物は,文字を覚えつつ同時に特定主題についての基礎知識も得ることを目指した教科書で,色々な主題について出版された(http://www.bekkoame.ne.jp/ha/a_r/indexOurai.htm).往来物は仮名漢字混じりの版本で,大抵文字も大きく,難しい漢字には振り仮名がついているので近世の古文書読解の上達にも役に立つ.
 かつて古文書読解の講義を受講した際には,読解辞典片手に地方(じかた)文書の典型である借用証に直接体当たりという学習方法だった.このような大学における正統的学習方法ではなく,版木物の仮名から漢字へ,そして実際の文書へという江戸時代の手習いの経路による勉強法を教えてくれたのは,吉田豊氏の『江戸かな 古文書入門』(柏書房刊)だった.今日日の日本人が,挨拶状,商業文,公文書を作成するに当たって各種の虎の巻を参考にするように,江戸時代の武士も町人も,先ず往来物で基本型を学んだ後に個々の書状を書いたのである.よって,書状作成の往来物を読んで当時の型を覚えておけば,よくある用件についての古文書の読解が楽になるのは言うまでもない.因みに,今読んでいるものは,『寿賀多百人一首小倉錦(すがたひゃくにんいっしゅおぐらにしき)』という小倉百人一首についての往来物だ(http://library.u-gakugei.ac.jp/orai/f014_055.html).
 明治維新以降の日本で筆字の役割が低下するに従い,江戸時代では直結していた読む作業と書く作業が分離してしまい,今では,先に触れた大学の古文書読解のように,文字を書きもせずに文字を読む事が当たり前になってしまった.何故,つづけ字(行書)・くずし字(草書)を書く事を通して行書・草書を読むことを学ばないのか,というのが従来の疑問だったが,数年前,故駒井鵞静氏の『つづけ字の知識と書き方』(東京美術刊)という本を読み疑問が氷解した.同書によると,江戸時代の手習いが実用本位の行書先習であったのに対して,明治以降,一時期を除き,楷書先習がとられため行書の学習が疎かになり,ここで最初の文化的亀裂が発生した.その後,行書学習に楔を打ち込んだのが,何と戦後のGHQによる書簡検閲だった.なぜならば,当時の大人の日本人は手紙を主に行書・草書で書いていたため,検閲官は判読に苦労し,その結果,文教政策に介入して「楷書体以外の学習は望ましくない」としたのである(前掲書29頁).駒井氏は現在の書道教育政策が当該介入を未だ引きずったものになっているではないかと見ていた.
 このような経緯で,今日の日本人は,江戸時代の御先祖様の残した書き物を直に読み彼等の心に直接触れる術を義務教育でしっかり学ぶ機会を失った.この先何処まで上達するか分からないが,せめて浮世絵等に書き込まれている仮名や簡単な漢字が自由に読めて,他人に説明できる位の読解力が付けば,と願いつつ電車の中で往来物の複写を捲っている日々が続いている.
 
註:草書・行書共にくずし方に一定の原則があり,これに従わない自己流で書くと,暗号解読と同じで,受け取った相手が読めないことになる.江戸時代の公用書体は,幕府が採用した御家流だった.因みに,幕末の志士達は若い頃から政事に奔走して手習いが疎かになったようで,明治の元勲達が残した書簡は字のくずし方がで自己流で読解が難しい.
註:GHQの郵便検閲の実態について,日本側関係者の証言は少ない.最近の例としては,西村幸祐氏の網站で「GHQの郵便検閲を振り返って 横山陽子さんに聞く」が閲覧可能:
http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:07/13/2005/ EST]

謾録,それとも漫録?

2005-04-29 00:49:41 | 江戸
 テレサ・テンや都はるみ等についての著作で有名な有田芳生氏が書き綴っている網誌の標題は『酔醒漫録』で,三水の「漫」とになっている.一方,当該網誌の標題では常用漢字外の同音異字「謾」が使われている.『角川必携漢和辞典』で調べると,「謾」の三番目の意味として「ひろい」を挙げ,「荘子」中の使用例を引用している.今から百七十年程前の江戸末期は天保8(1837)年,或る浪華生まれで当時江戸深川住まいの日本人が,此の世での自分の知的営みの証として,近代以前の意味での「文学」に挑戦しようと思い立った.しかし,哀しい哉これといった主題に思い至らず,自分が見聞きした三都(大坂[従来使用の坂が「土に反える」と読めることを忌んで阜(こざと)偏の阪に変えたのは明治以降の筈],京都,江戸)の比較を絵入で今日で言う所の百科事典風に丹念に書き綴っていく事にした.これが今日,時代劇の考証や江戸末期の民俗的研究において貴重なネタ本的存在になっている『守貞謾稿』の由来である.標題中の「守貞」の部分は勿論同著者である喜田川守貞の名前から来ている.同書名の響きを気にする者(東日本系と想像される)がいるのであろう,明治以降は姑息にも『[類聚]近世風俗志』という勿体振った書名で刊行されている(岩波書店刊の文庫版も此れを踏襲).市井の庶民の日常生活に注目して云々の仏歴史学者フェルナン・ブローデル等のアナール派が台頭したのが前世紀中葉だったが,彼等に繋がるような視座を持った人間が二百年近く前の日本に存在していたのだ.『守貞謾稿』を捲った者は,大抵此処彼処(ここかしこ)的に挿入されている図の豊富さに圧倒されるが,後世の我々は喜田川守貞の筆記力だけでなく素描力にも感謝せざるを得ない.

註:明治以前の「文学」の意味については,坂本多加雄『20世紀の日本 11 知識人:大正・昭和精神史断章』の第一章の山路愛山について論じた部分を参照

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved.[last Update: 5/5/2005 EST]

波士敦,それとも波士頓?

2005-04-28 16:58:10 | 江戸
 明治4(1871)年から同6(1873)年にかけて欧米を歴訪した岩倉使節団の記録である米欧回覧実記では,米国のBostonの漢字訳を「波士敦」としている.現在米国で発行されている支那語新聞等での漢字訳は「波士頓」を使っている.喜劇俳優の故 益田喜頓氏を覚えている世代の日本人にとっては,後者の方が馴染み易いかもしれない.米野球のファンには,毎年アメリカン・リーグ東地区のペナント・レースで常勝NYヤンキーズの後塵を拝してきたレッド・ソックスの本拠地として知られているに違いない.ベイブ・ルースを新興NYヤンキースに放出して以来,90年近くワールド・シリーズで優勝出来なかったレッド・ソックスも昨秋このジンクスを遂に破り,昨年まで贔屓チームの不甲斐無さを酒の肴や日々の会話の枕詞に頻用していた自虐的かつ熱狂的地元レッド・ソックス・ファンも今年は何か自信を持ってレッド・ソックスの帽子やジャケットを着用しているような印象を街角で受ける.
 この自虐的かつ熱狂的なファンという点では,数十年に一度という頻度でしか日本シリーズで優勝できない日本の阪神タイガースに通じるものがある.漫画家西原理恵子の『できるかな』シリーズの中で面白可笑しく描かれている大阪は梅田出身の阪神タイガース・ファンの新保信長氏(同シリーズの編集者)のようなファンが波士敦には沢山いて全米にその名を轟かせているのだ.後から来た者に先を越されてしまったという非対称的に屈折した精神風景が,大阪対東京,波士敦対新約克(上記の実記中でのNew York漢字訳,現在の一般的な漢字訳は「紐約」)の間に平行して存在しているように思われてならない.抜き去った者は抜かれた者を歯牙にも掛けていないのだが,抜かれた者は分を弁えず,在りし日の事を思い出しては,ごまめの歯軋りを繰り返している.「週刊アカシックレコード」の或る号で,この非対称的屈折感情の分析枠組みを日韓関係に適用していたが,正鵠を射たものだった事を今でも覚えている.