波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

文明化した社会の或る終着点 「血を見る」ことを忌避した社会の黄昏

2005-09-25 02:36:33 | 雑感
 最後に本網誌を更新してから3週間弱経ったが,仕事の締切が9月中旬から9月末に延びたため(実質10月に繰り延べか),更新する余裕が見出せないままになっていた.先月より職場が変わったが,仕事場の物理的環境の向上が,そこで働く雇用者の生産性を如何に高めるかを改めて感じている今日此の頃だ.そのような忙しい最中,ある大学教授の一時間程の講演を聞く時間を設けて聴講に出向いたが,講演の内容は今一つ以上のもので,あのまま仕事に専念していればよかったかなどと一瞬後悔したが,その後色々考える切っ掛けになったので,完全に無駄ではなかったようだ.当該教授は1950年代前半から在米生活50年余りで近頃名目上退職されたようだが,自分の在米体験と,第二次世界大戦前後米国Yale大学で教鞭をとっていた日本人教授の故 朝河貫一(あさかわかんいち:http://www.db.fks.ed.jp/txt/10011.103.nihonmatsu/index.html)の半世紀に渡る在米体験(昭和23(1948)年に逝去)を重ね合わせて,日露戦争と大東亜戦争の戦後について論じていた.早い話が,当該教授は,今の平均的日本人の心情(日露戦争は勝って良かったが,大東亜戦争は負けて残念だった)とは全く逆のことを感じている,即ち,日露戦争は勝ったものの問題を彼是残して良くなかったが(帝国主義の継続),大東亜戦争は負けたが戦後出来した新秩序は良かった(帝国主義の終焉),というものだ.敗戦時10歳であった此の教授はいわゆる「国民学校」の世代で,この世代の日本人は,昭和一桁前半以前に生まれた連中と比較して,一般的に,何か物足らなさを感じることが多い.結局当該教授は,戦後の米軍占領中に受けた洗脳を,疑うことなく,そのまま有難く頂いて今日まで研究・教育生活を続けてきたことが講演内容から分かった.まさに,片岡鉄哉氏が述べているところの「マッカーサーの宣伝相 ライシャワー」(『日本永久占領』第12章 標題)の申し子の一人として洗脳に沿って忠実に生きてきた人生と言える.
 この教授の講演を聴いていて思い浮かんだことは,彼が礼賛していた米露二大強国の均衡による第二次世界大戦後の世界秩序は或る暗黙の前提に基づいていて,今その前提が崩壊寸前にあるにもかかわらず,彼はこのことに気付いていないのではないか,気付いていても真剣に認識していないのではないか,ということだった.それは,統一された支那が経済的・軍事的に米露他の強国の後塵を拝したままでいるという前提だ.近年海外からの投資で潤ってきた中共は,その経済的成長を維持するため,形振り構わず,必要とされる資源を世界中から掻き集めることを意図していて,そのためには軍事的手段による威嚇その他の行使も厭わない立場を鮮明にとっている(例えば,沖縄近辺の海底油田問題等での日本に対する各種の威嚇).或る意味で,中共の地位を相変わらず見下して,自分(日本)よりも,社会経済的に数段下の国という趣の古い認識で,自分達の存在を脅かす競争相手という真剣な認識が欠落している.戦後賠償の一変形として日本から中共に公的な資金を恤(めぐ)んでやっているという事実をとられえて,日本の金持ちとしての立場の高さを彼是論じることは出来ようが,中共がそのように理解せず,米の核の傘の下に安住するような意気地なしの日本が中共の各種の威喝に怯えて見ヶ〆料的に「財政支援」している,というような認識をその国民に言い触らして周知徹底している現状がからすれば,笑止千万の自惚れではないか.確かに経済的に中共は日本程度の生活水準に未だ達していなので競争相手とは見做せないが,外交・軍事の断面については,そのような経済的な視点からの認識は全く通用しないのではないだろうか.外交・軍事では別の原理・原則が働いているのではないか.
 此処まで考えてふと思いついたのは,予てから考えていたcivilized society(文明化した社会)の「終点到達」現象だった.最近の太田述正氏の網誌では,度々日本その他の「いわゆる」先進国社会における中性化が論じられている.彼の中性化論で未だ詳しく論じられていないことに,中性化と武力の行使,或は流血を厭わない紛争解決を忌避する傾向の関係がある.戦後日本を振り返ると,国際紛争の武力による解決の原則否定の憲法を頂いてから,何事につけても,「血を見る」問題解決を最大限に忌避してきた,「血を見る」問題解決を行わないことが「文明化した社会」であるという建前を維持してきたと言える.勿論,本音は別で,国会での乱闘や暴力を伴う路上威示行為等に見られるように,公的な側の法的裏付けを持った暴力行使(警察)は「人権弾圧」の枕詞で極力否定・攻撃するが,非公的な側の自力救済的暴力行使は「革命肯定史観」に則り造反有理的に可であり,暴力を厭わないことが明らかで,「暴力反対」も所詮建前だけのことが分かる.紛争解決において武力行使を厭わない「文明化していない社会」と其れを厭う「文明化した社会」が衝突した際にどのような結果になるかは,人間の歴史を振り返れば自明だ.そのような武力を厭わない非文明化社会が,経済的に豊かで血を見ることを避けたがる社会に乗り上がり武断政治で統治を継続すると言う形態は,支那の「元」や「清」を見れば明らかであり,現在の中共の政治体制から判断すると,日本が米国から見放された場合,中共の餌食になり,朝貢国に転落ということも十分在り得る.
 世界の文明化した国が中共,そして或る程度露西亜に対して疑義を拭えないのは,彼等の国の規模の大きさだけでなく,彼等の武力行使機構に対する法的拘束やその運用にまつわる不透明さであり,いざとなれば,結果が全てを肯定するという「何でもあり」,という点にあると思われる.特に中共の場合,一党独裁状態が半世紀以上続き,自国民を何千・百万人死に追いやっても,共産党を牛耳っている限り,その責任を全く問われない,という指導者が「血を見る」ことに対して全く無神経な点も更に疑念を深くしていると推量される.米軍の日本占領を安全なものにして,占領終了後も日本を波多黎各(Puerto Rico)的な保護国として繋ぎ留めて置くためは,武力行使(血を見ること)の忌避の建前を「文明化した社会」の最重要条件として日本人に吹き込むことは大義名分の立つ有効な洗脳手段だったに違いない.勿論この現代版「刀狩」の背後には,元来軍人嫌いで有名な元外交官の吉田茂が長期に渡り首相として日本側の窓口になったという予想外の援助も当該洗脳を深化させ,また吉田の弟子が占領後の日本の政界を支配したことも洗脳の継続に役立った.「血を見る」ことを厭わない中共の最近のあからさまな世界戦略は,従来洗脳に浸かってきた日本人を漸く覚醒させることになったようだ.このように,今の極東の情勢は日支が対峙する日清戦争直前の世界に逆戻りしたと認識することが不可欠と考えられるが,「血を見る」ことを忌避し,経済的側面からしか日支関係を見ることが出来ない連中にとっては,元と宋,後金と明という関係の将来しか描けないのかも知れない.
 米国の様子を眺めていると,先に触れた社会の中性化が必ずしも「血を見ることの忌避」に直結していないのではないか,と思われてならない,日本とは違い,「紛争解決の最終手段としての武力」に対する認識には変化がないように見える.典型的な性差による認識からすれば,社会が女性的な極に接近する形で中性化が進めば,武断的な行動は忌避されることになるはずだが,米国の場合,この点に関しては女性側が社会的進出を認知されるために男性的な極の方向に歩み寄る形になったようだ.女性が知事や自治体の首長を努める条件として,警察・軍等の指揮能力が不可避であり,そのような意志・能力がなければ選挙では勝てないことになる.またどの国でも同じだが,武力行使に対する認識や尚武の傾向も地域や社会層によって差があり,戦前の日本では,九州,北海道出身者には強兵が多いが,商都であった大阪からの兵隊は今一つと見做されていたように,米国の場合,田舎の州ほど銃規制への反対など武断的或は尚武的傾向が強い.また,尼日利亜(Nigeria)出身の留学に昔聞いた話では,同国の軍隊の基幹を構成しているのが北部の田舎の回教徒系で,南部の基督教徒系は都会育ちの軟弱傾向で兵隊には向いていないそうだ.
 時によっては血を流すことも逡巡しない人間を世襲の社会の指導層として維持して来たのが日本の幕藩体制の政治的一側面であった.戦後の日本は,そのような「侍」の存在の意味を忘却し,尚武という価値観を否定することによって成立してきたと言える.平成15年の内閣府の世論調査(「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」:http://www8.cao.go.jp/survey/h14/h14-bouei/index.html)を見ても自衛隊や防衛問題への関心に対する女性の関心は男性より明らかに低い.最近の日本の保守系論者による社会の中性化批判は,中性化=武力解決の忌避あるいは尚武の否定,という等式を暗黙の前提としているのではないだろうか.米国の先の例を見る限り,中性化=女性化でない以上,男性側に女性側が歩みよる中性化の選択肢もありうる.最近の保守系論者による法的な男女平等の実現を脇に置いた鸚鵡返し的「ジェンダー・フリー」攻撃は,人間社会において武力というものが最終説得手段である,という事を「血を見る」ことを厭う「戦後民主主義」的人間に対して巧く得心させることが出来ずにいる苛立を別表現したものではないか.多分,尚武というものを男の独占物とみなし,兵役・国防の責任を男女共通のものとみなしていないことに根本的な問題があると思われる.男女平等の原則に立脚していれば,以色列(Israel)で実施しているように,女性に対しても兵役の義務を課することは可能で.武力という最終説得手段の行使も不可避なのが人間社会の理(ことわり)であり,国防の基本原則の一つである,という風に女性を説得させることも可能なはずだ.従来男の独占物であった尚武の精神を性別を超えた普遍的な価値に高め,自由民主主義国家の基幹である男女平等の原則を逆手にとって女性側にも「血を見る」ことの不可避性を納得させない限り,戦後の洗脳=「血を見ることの忌避」から解脱できない状態が続き,日本が中共にとって実質的な一朝貢国に成り下がる日も遠くないかもしれない.

© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:09/24/2005/ EST]

2004年米国大統領選挙にまつわる闇 「自由民主主義国」米国の選挙をめぐる建前と実際

2005-09-04 23:24:34 | 雑感
 当該網誌を始めることを決めた際,此の話題について何時か書き留めなくてはと思っていた.来週日曜,日本は衆議院選挙日であるし,また当該話題に関連するのだが,昨夜米国連邦最高裁判所長官が死亡ことでもあるし,時宜にかなっているだろう.細かく書きたいところだが,仕事の締め切りが迫っているので,要点だけに止めよう.
 昨夜死亡した米連邦最高裁長官は,米国における法曹界の頂点に立つ者として資格を厳しく疑われる過去を持っていた.そのような過去を彼は連邦議会上院での連邦最高裁判事承認委員会において否定し,後日それが偽証だったことが判明する.このような如何わしい背景を持つ男が1980年代に長官に指名され,昨日まで法曹界を牛耳っていたことになる.
 彼の過去とは,その昔,亜利桑那州における選挙の際,共和党代表立会人として,投票場で非白人の投票者に対して彼等の投票資格について彼是疑問を呈するなどして,投票阻止・妨害を行ったことである.1960年代の公民権をめぐる法改正・各新法制定までは,米南部では非白人に投票をさせない色々な仕組みがあった.前出の投票場での立会人による投票阻止は,投票場に行けるだけ未だ御手柔らかな遣り口で,非白人を投票過程に全く係わらせないようさせる手段が色々考案されていた.前米連邦最高裁長官が立会人としてやったことが,当時の亜利桑那州の州法や連邦法に抵触していたのか確認していないが,他国に「自由民主主義」を説教して止まない米国の法曹界の頂点に立つ者として,その様な行いが相応しいかどうか自明であろう.
 米国における選挙・投票の実践を観察している,手段を選ばない人間の知恵には限界が無いということをつくづく痛感させられる.確かに,1960年代の公民権運動で,建前上,人種その他の紐付きなしの成人の投票が可能になった.しかし,米国は建国以来,民権の拡大派と制限派の鬩ぎ合い状態にあり,選挙・投票もその好例で,投票の運営における技術的な点を最大限に利用して,都合の悪い連中(特に,非白人)にはなるべく投票させないという地下水が今でも脈々と流れている.米国憲政史に名を残している政治家の中には,明らかな選挙違反をして選出されたという「武勇伝」を持つ者が少なからず居る(L.B.Johnson大統領は,得克薩斯州から連邦上院議員として選出された際,当時の得克薩斯州の選挙常法に従い,僅差で勝利を収めている).
 2000年の大統領選挙では,佛羅里達州で集計作業が紛糾し,結局,米連邦最高裁が大統領を決定した.後日の大学関係者による再集計の結果では,前副大統領の民主党候補者の表が上回っていたことが判明したが,9.11事件による戦時体制突入により,現政権の正当性に疑いを挟むことは米主流媒体界では禁忌となった.また,前出の佛羅里達州の再集計で一部露呈していた投票をめぐる様々な疑惑・問題は,一部電子投票の導入の促進で解決されるかと思われたが,結局,投票過程を更に不透明化して,監察不可能な投票という悪魔を出来させることになった.そして,2004年の大統領選挙だが,投票前,投票中,投票後,という三段階において,俄亥俄(Ohio)州その他で,近年まれに見る選挙妨害・違反その他が出来した.俄亥俄州は同州選管によると現大統領が勝利したことになっているが,報道媒体による情報や連邦下院議員による調査によると,当日投票機の不備その他で投票を断念せざるを得なかった者,投票入場券を受け取れなかった者,投票したものの無効票扱いになったものが多数あり,また,請求され実施された投票後の抽出再集計も,手作業による全数集計を防ぐため,「やらせ」の「無作為」抽出で行われ,集計をめぐる疑惑も解明されることがなかった.
 日本の選挙の感覚からすれば,投票所で候補者名を名前を所定の用紙に書いて所定の箱に入れ,後で集計すれば終わり,という単純作業に見える.住民票という基本的な台帳が投票者名簿作成を簡単にしているのだが,米国にはその様な住民票はないので,自己申告による登録が不可欠だ.よって,日本のように,選挙の時期になると役所から律儀に入場券が自動的に郵送されるような甘やかされた仕組みとは全く違い,関心の無い者には投票させないものとなっている.また,この投票者登録自体が非常に米国的で,役所だけでなく,民間団体が投票者申請の代行を行えるようになっている.確かに,自分と思想信条を共にしている連中を組織的に募りたい場合には,結構なやり方だが,法的縛り等で無党派の看板を掲げて申請書をまとめても,覆われた下地により,当該団体と立場が異なる側で登録した者を廃棄することも可能で,事実そのような事例が昨年の選挙の場合西部の州で見られた(今の米国には,連邦が運営する選挙は無い.連邦議員も大統領(選挙民)にしても,すべて州単位で選出することになっているので,現在実施の各選挙を規定するのは州以下の法とになる.米国の投票登録申請は,大抵の州で,自分の党派を明記させるようになっているので,申請者が民主党,共和党,その他であるかが申請書により一目瞭然となる).このような民間代行も可というような認識では,投票者台帳を正確に随時更新するかどうかは,各政府のやる気・懐具合次第で,州によっては財政難を盾に更新が遅れているとこもあるようだ.よって,申請しても,投票所入場券が郵送されてくるまでは,安心できない.また,不在者投票にしても,「なるべく投票させない」というのが原則からすれば,彼是条件を厳しくして,実質投票不可能にもっていくことも技術的に可能だ.昨年の俄亥俄州の例では,病院の入院患者に不在者投票が認められず,点滴道具をつけたままの患者が投票場の長い列の中にいたそうだ.
 米国における投票日における投票妨害の典型が,警察官を投票場に貼り付けて,逮捕や任意同行の恐怖心を起こさせて投票場に近づけない,駐車違反その他各種科料の未納名簿を用意しておき,該当する投票者が現れれば,完納するまで即時逮捕・拘置という御触れを出しておく(=>貧乏人は逮捕に怯えて投票所に現れない)である.また,昨年の俄亥俄州の妨害例の傑作が,民主党候補への投票傾向が強い黒人が集中している貧困都市部では,投票日に水道の検査日を故意に重ねて,日中の成人(投票者)の在宅を義務付け,違反すれば水道の供給中止という御触れを出して,母子・父子家庭を合法的に投票所に行かせないようにした自治体もあった.また,投票機を満遍なく配備しないで(黒人地区等の民主党地区には少なく配備),人工的に長蛇の列(投票までに数時間)を作って,これまた合法的に,投票を断念させるという遣り方も昨年の俄亥俄州で見られた.
 日本では最近電子投票が試みられて色々な問題に突き当たったようだ.しかし,電子投票が広がっている米国では日本や加拿大(Canada)の紙による投票を羨む者もいる.米国の電子投票の問題は,投票機が民間業者からの賃貸であり,投票機の軟体(software)の監査,集計過程の安全性が政府によって厳しく審査されていなことと(投票者が自分の投票結果を紙で受領することなども義務付けられていないところが多い),投票機を製作している会社中,市場を占有している大手二社の社主が兄弟関係にあり,彼等と基督教系のcult集団との関係が疑われていることだ.日本でたとえるならば,創価学会やオウム真理教の子会社が投票機を製作して,息のかかった支持政治家の口添えで各自治体に無理やり賃貸契約を結ばせ投票機賃貸市場を占有し,選挙管理員会の投票機監査要求に対しては企業秘密を盾に拒絶する,あるいは,適当に御茶を濁す,というものだ.よって,投票所におかれた投票機の実際の作動・精度を適宜操作することや(A候補に投票しても,B候補に投票されるようにする,集計時に集計結果を操作する),各地の集計結果を網路経由で送り選管でまとめる際に「からくり」を埋め込んで,特定の支持候補が最終的に勝てるようにする,などの操作が可能になり,監査も手緩いので此のような「からくり」もばれない.平均的な米国人は現在の電子投票の危険さを殆ど理解していないようで,事務の効率化,税金節約というような視点でしか見ていない.事実,電子投票にまつわる疑惑が全米各地で報じられているが,政権党である共和党に取っては投票機は打ち出の小槌的存在であり,厳しく規制したり監査したりという姿勢は全く窺われない.
 最後に,投票後の集計・再集計における操作だが,日本でも仕込んでおいた投票用紙を集計中にこっそり入れ替える事件があったため,職員がステテコ姿で集計していた時代があった.米国の場合,日本の記入式は違法(かつて,南部では元奴隷の非白人を投票させないため識字試験を課するという投票妨害があった)になるはずなので機械による投票・集計が殆どだ.投票用紙に穴を開けて集計する形式の場合,穴あけ・読み取り精度の問題だけでなく,用紙の設計も問題となる.昨年の俄亥俄州の場合,投票所毎に穴あけ(候補者)の順番を変えるなど複雑な決まり事があり,集計結果を煩雑にさせて,集計の錯誤をわざわざ招くような形式になっていた.また,投票しても,所定の投票所以外で投票すれば無効票にするというような集計上での操作も,米国で良く見られる無効票出来による投票妨害の一つだ.電子投票の場合は,機械に一蓮托生で,停電・故障その他で機械を再立ち上げした際,それ以前の投票結果が果たしてそのまま残っているのかどうか,監査が緩いため不明なことが多い.昨年の俄亥俄州の場合,OECD関係者が開票の立会いを求めたところ,様々な法的手段を講じて直の立会いを拒絶したことは報道媒体上では殆ど報じられていない.
 このように昨年の大統領選では,俄亥俄州で近年まれに見る,選挙前,選挙中,選挙後の妨害が発生したが,9.11事件以降戦時下にある米国では,主流報道媒体は,此れまでの各国の戦時下の報道媒体と違わず,現政権と距離を詰めることはあっても乖離しない道を選択して今日に至っている.真実の報道が報道媒体の至上の価値であるならば,Iraqの大量破壊兵器をめぐる論議で厳しい立場をとる事ができたはずだが,米国の主流報道媒体はその様な選択をしなかった.昨年の大統領選挙の違反・妨害についても同様だった.州の選挙管理の元締めである州総務長官(共和党)の強力な指導の下,1960年以前を彷彿させるような選挙妨害が明らかに俄亥俄州等で進行していたにもかかわらず,米の主流媒体はIraqの民主化には口を挟んでも,自国の民主主義の実践が腐敗・堕落していることには目を半分瞑り続けた.そして,投票日あからさまの投票妨害が発生したにもかかわらず,米主流報道機関は現職の勝利に注目するだけで,その過程が如何に疑問符が付くものであったかも殆ど報じなかった.一方,野党の民主党も,戦時下の野党に典型的な現政権との対決回避で御茶を濁し,当該問題を殊更追及しなかった.2004年の大統領選挙について彼是論じることは,現在の米媒体では,「電波」を飛ばすことと見做され,人権派系の言論人・媒体のなかにも世間体を憚って,殊更否定に躍起になっているものもある.
 Iraqに自由民主主義をもたらそうと自国の多大の税金と人命をかけ,自由民主主義国の盟主と自負する国ですら,自由民主主義の実践についてこの程度しか達成できていない.「(非白人には)なるべく投票させない」という不文律が建国以来地下水として流れている以上,自分達に投票しない連中については関心が散漫になり,ましてや今年は選挙の年ではない,そのような価値観が図らずも露見したのが今回の颶風で浸水した新奧爾良(New Orleans)市への連邦政府等による救援の出遅れだった.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:09/04/2005/ EST]

米国で自然災害と無縁の州とは

2005-09-02 23:21:04 | 雑感
今日で九月も二日目だが,米国人にとって実質的な夏の終わりは,九月第一週月曜日のLabor Day休日に焼肉野餐(barbecue party)を済ませた後になる(因みに,米国の暦の上での夏の終わりは秋分の日となっている).心機一転の新年度の始まりは,大学等の米式足球の対抗試合の開始など,何となく御祭り気分的な雰囲気が漂うのが例年のならいだが,今年は密西西比河の河口付近の地域が颶風により多大の被害を受けたため,例年の御祭り気分も霧散してしまい,今日の夕方の定時電視新聞(news)番組も全て当該颶風絡みのものだった.
 今日或る日本の外交報道系系の網誌を覘いたところ,いわゆる州兵(national guard)の投入が今回遅れた事にについて,米国州兵が災害救助慣れしていないような批判が展開されていた.この網誌が外交報道専門でなければ無視してしまうのだが,外交報道でそれなりの情報提供をしている網誌だったので少々残念でならなかった.当該網誌主宰者が忘れているのは,現在米国の各州の州兵は交代でIraqまたはAfghanistanに派遣されていて,当該派遣についても動員の長期化・要員の補充不足その他で様々な問題を生じている状態であり,平時とは違い,今の米国には簡単に州兵を自国内で投入できる余裕が全くないのだ.更に,治安悪化が伝えられた路易斯安那(Louisiana)州新奧爾良(New Orleans)市が隣接している密西西比州の州兵は現在Iraqに派遣されて留守なので,対岸の同市の救援に向けることは出来ない.結局,現在帰国中の土地勘の無い遠方の州の州兵の日程を遣り繰りして投入せざるを得ず,更に準備に手間取ることになったと言える.日本の電視新聞番組では,新奧爾良市辺りの治安悪化を殊更強調しているそうだが,米国の報道では被災した人々の窮状についてのものが殆どだ.やはり,此処辺りにも,報道の自由がある国(米国)については彼是批判するが,報道の自由の無い国(中共・北朝鮮等)には沈黙を守るという,日本の報道機関特有の内弁慶的性質が如実に現れているようだ.また,着の身着のままで避難所に向かい,停電・断水でしかも市,州,連邦政府から三日余り何の援助もなく夏の炎天下の下に置かれた人々にとって,生き延びるために残された手段が略奪による水・食糧の調達であってもおかしくない.まさに,「衣食足りて礼節を知る」という箴言(しんげん)の通りだ.
 あのような規模の自然災害を見ると,米国での住む場所の選び方について色々考えざるを得ない.米国本土外の阿拉斯加州は酷寒で,太平洋の夏威夷(布哇)は確かに常夏ではあるが,颶風と津波は覚悟しなくてはいけない.では,米国本土はどうか.寒い所が駄目というのが最重要基準であれば緯度の低い州に住むしかない.しかし,低緯度地域は東から西まで,数年,数十年に一度の割合で何らかの自然災害に出会い,家財・家屋だけでなく自分の命まで失う可能性がある.即ち,東海岸から,颶風,中西部は竜巻,そして西海岸の地震である.亜利桑那州や新墨西哥州は乾燥していて雨とは無縁と思われるが,此のような地域でも稀に豪雨による鉄砲水による山津波が発生する.北東部は,海岸沿いの州が偶に颶風に襲われることが,地震もなければ竜巻もない.しかし,豪雪は数年に一度は必ずある.中西部の加拿大(Canada)沿いの州は,颶風とは縁がなく,竜巻も頻繁にあるわけでもないが,豪雪は覚悟しなくてはいけないし,冬場に晴天を拝める日が限られているのも難点だ.では,洛磯山脈(Rocky Mountain)辺りの州には自然災害の問題はなく穴場なのだろうか.実は,老忠實〈Old Faithful〉噴泉があるように,当該地域の地下には超特大の休火山があり,万か百万だったか,正確な周期は忘れたが,定期的に噴火してきたことが判明している.よって,非常に長い目で見れは安全な所とはいえない.この休火山が爆発すると,中西部の穀倉地帯はもちろん米国各地が火山灰を被り,他国へ食糧供給どころではなくなるらしい.勿論,そのような巨大火山の噴火は火山灰が太陽光線を長期に渡って遮るので,地球に氷河期をもたらす事は間違いない.
 このように米国のどの州を選んでも大抵自然災害との共存の覚悟がなければ,やっていないことになる.あの米国人の能天気な明るさや実際的な気質も,過去の各種の自然災害という篩いにかけられた選民の結果あるいは記憶ではないか,即ち,生き抜く意志・器量・体力・運などの点で特定の範囲に居た者が不条理な災害を乗り越えて生き延びてきた,と.
© 2005 Ichinoi Yoshinori. All rights reserved. [Last Update:09/05/2005/ EST]