極楽とんぼは風まかせ

東は東、西は西。交わることなき二つとはいえ、
広い太平洋、東の風が吹き、西の風が吹き・・・

男の(女も)器は大きさよりも中身が大事

2011年09月13日 | 今日の風の吹きまわし
火曜日。午前11時30分、目覚ましで起床。あらっ、涼し~い!そういえばきのうの夜の天気予
報で「夏を楽しむなら今のうちですよ」なんて言ってたなあ。だからといって、まるで「更新」ボタン
をクリックするみたいに、いきなり夏から秋に切り替えるなんてのはなしにしてほしいもんだ。

朝食を済ませて、カレシを英語教室「午後の部」に送り出して、夕方が納期の仕事をやっつける。
いたって機械的な企業事務の書類は慣れていることもあって楽ちんでいい。ワタシの後ろに忍
び寄ってきては思考の流れをかく乱しようとするカレシもいないから、固有名詞の検索以外は辞
書を引くこともなくて、すいすい。カレシが帰ってくる前に終わってしまったから、きのうの閉店間
際に入ってきた大きそうな仕事の算段にかかる。文字カウントをかけて出て来た数字を原稿用
紙の400字で割ったら、あちゃ、約60枚。まったくテーマが違う別の仕事とパケット交換よろしく
の並行処理になりそうだなあ。なんか仕事が増えて来そうな感じがするけど、お盆と節電のシー
ズンが終わったせいかな。少し趣味の方に精を出そうと思っていたのに・・・。

カレシが「午後の部」から帰ってきて「夜の部」に出かけるまでの時間は3時間足らず。ひと休み
してから、夕食を食べさせて送り出すまでがけっこう忙しい。だからメニューはいつも簡単手抜き
料理。手っ取り早くパスタで済ませることが多いけど、今日はマグロのグリル。ステーキに市販
の餃子のたれを塗っておいて、オレンジ色のピーマンをグリルパンに載せ、付け合せのインゲン
を蒸し始め、頃合を見計らってマグロを焼き、最後に白ぶどうをひと掴みさっと焼いて完了。所
要時間30分足らずで、これがほんとのファストフード。

いつもながらあれがない、これがいると言って最後に「遅刻だ~」と出かけて行くカレシを送り出
して、きのう目に止まった小町のトピックにじっくり目を通す。『「器の大きい男性」って?』という、
いかにも小町横町らしい質問。でも、男女を問わず「器が大きい」というのはどういうことなのか
を考えてみる気にさせるトピックではある。もっとも、そもそも人間の「器」について明確に定義し
ないままでの質問だから、当然のっごとく返って来るのは小町横町の半径から見た「器の大き
さ」、つまり、トピックの主が言う「金銭的、精神的、体力的に己を切り詰めても常に女性を最優
先する男性」、端的に言えば「女にとって都合のいい男」のイメージが浮かんで来る。「己を切り
詰める」って、大きな器を切り詰めたら元も子もなくなりそうだけど、もしもワタシが男だったら、
「やってらんねぇ~」と悲鳴を上げて逃げ出すかもしれないな。

そこで、久しぶりに広辞苑を引っ張り出して「器」を引いてみたら、「事を担当するに足る才能、器
量、また、人物の大きさ」というのがあった。でも、「人物の大きさ」っていったいどうやって測るの
かな。体重計とテープメジャーで事足りるなら、いわゆる肥満体の人たちはみんな「器の大きい
人」ということになる。それは冗談だけど、要するに表面的には見えないかもしれない内面的な
ものの大小を言っているんだろうから、現実的にその表面に見えない「大きさ」をどんなものさし
で測るんだろうな。まあ、「器」というからには何らかの容積単位で測るんだろうと思う。だとすれ
ば、英語では「capacity」、あるいは「caliber」というところか。

そこでまず「capacity」を辞書で引いて、トピックで議論している「器」に相当しそうな語を見てみ
たら、まず「包容力、度量」、次に「適応力、耐久力」、さらに「可能性」。他に「(学問などを)学び
取る力、学問的才能、知的能力、理解力」というのもある。次に「caliber」を引いてみたら、「(心
の)度量、(知識の幅、知的能力などの)力量、才幹、(人物の)器量」とある。このcaliberは鉄
砲の口径を表す単位でもあるところがおもしろいけど、「金銭的、精神的、体力的に己を切り詰
めてでも(特に)女性を最優先」なんて犠牲的精神は微塵も感じられないし、だいたい(西洋の騎
士道精神はいざ知らず)日本の武士道精神にそんな女性崇拝的な思想があったとも思えない
な。つまりは、「器の大きい男性」というのは(わがままで自己中な)女性が夢に描く(ちょっと古
いけど)「3高 の王子様」のことかな。中国では大都市で「公主病(お姫様病)」というのが蔓延し
ているそうだけど、小町横町でもバブル頭いまだ弾けやらずということなのかもしれないな。

人間は誰でもが持って生まれて来る「器」があって、人それぞれが違うように、その器の容量も
みんな同じということはありえないと思う。でも、人間には「成長」の過程でその容量を大きくする
機会も与えられていると思う。それが「capacity」に包含される「可能性」の意味ではないかな。
まあ、人間の「器」がどっちの方向に変化しているのか知らないけど、いくらでっかい「器」を抱え
て生まれて来ても、(書き込みにあったように)それをゴミで満杯にしたらたしかにどうしようもな
いだろうし、逆に、与えられた器が少しくらい小さめでも、きれいな宝石がいっぱい詰まっていた
ら、その人の心はきらきらと輝いているだろうし、温かなスープで満たされていれば、人をほの
ぼのと幸せな気分にさせるだろうし、滋養の高いスープだったら病める人も元気なるかもしれな
いな。つまり、容積の大小に関係なく、その「器」に何を入れるかによって、嫌われる人間にも、
好かれる人間にもなり得ると言うことで、何を入れるかはその器の持ち主しだいだと思う。

それにしても、小町横町女性たちが定義する「器の大きい男」って、いったいどんな人だろう。た
ぶん、年収が1000万以上あって、女のおねだりに気前よく応じてくれて、女のどんなわがまま
も笑って聞いてくれて、絶対に女性を下に見ることなく、結婚したら「ボクが養ってあげるから」と
専業主婦をさせてくれて、おまけに家事や育児も平等に分担してくれて、寝ても覚めても女性の
ためならエンヤコラ・・・いるのかなあ、そんな男?