極楽とんぼは風まかせ

東は東、西は西。交わることなき二つとはいえ、
広い太平洋、東の風が吹き、西の風が吹き・・・

トラウマの糸(終)

2006年10月31日 | 今日の風の吹きまわし
1974年秋。彼は貯金をはたいて切符を買い、日本へやって来た。

彼にとっては初めての海外旅行だった。社員旅行で伊豆へ行っていた私はその朝早くバスに
乗って東京へ向かった。前夜の飲みすぎがたたって二日酔い気味だったけれど、胸だけは
躍っていた。乗り継ぎに乗り継ぎで羽田空港に着いて待つこと永遠、国際線の出口から彼が
出てきた。走り寄って、通路の真ん中で抱きついてキスを交わしたように思うけれども、それは
あまりにも映画のラブシーンのようでありすぎるかもしれない。

二人そろって千歳行きの飛行機に乗った。札幌に着いたのは夜遅く。私の両親が市内のバス
ターミナルで迎えてくれた。彼は私が予約しておいたホテルに落ち着き、私は帰宅した。

翌日は確かまだ顔合わせ程度だったと思う。本番の日、きちんとスーツを着た彼は一人でバスに
乗って、迷子にならずに我が家に到着した。日本の習慣だからと教えられた通り、私の父に
「娘さんを私にください」と申し入れ。彼はコチコチに緊張していた。いくつかのやり取りがあった。
間に入って通訳をしたのが当事者の「娘」ということもあってか、あまり難しい「尋問」はなく、父は
「OK」という返事と共に彼と握手をした。その翌々日、彼は私の両親の招きでホテルから我が家に
移り、残りの日々を家族の一員として過ごしたのだった。(後で何度も、にぎやかで睦まじい様子が
羨ましかったといっていた。)

来日までの間に、彼は弁護士や移民局に相談して、離婚まで私がカナダで暮らせる最善の方法を
探した。弁護士の助言は、その当時の移民法では、私がビジターとして来てビザを延長しながら
離婚成立を待つのが最善というものだった。私を当事者にしないで済む方法はなかった。私たちに
とって幸運だったのは、移民局で彼の相談に応じた年配の移民官が私たちの事情を理解してくれ、
私が来てからも好意的にできるだけの便宜を図ってくれたことだ。彼の父親が離婚を強く支持して
いたことも追い風になった。(彼女が嫌いだったという以外に理由はないらしかった・・・。)

1975年5月。私はスーツケースを3つ抱えて彼のところへ来た。日本で言うワンルームマンションの
慎ましい暮らしだった。わずかな家具もキッチンの道具や食器も、すべて彼が両親の使わなくなった
ものをもらって来ていた。彼はすぐに別居中の妻の弁護士のところへ出向いて不倫の事実を認め、
離婚訴訟が起こされた。財産は何もなかったし、彼女の方が収入が多かったから、金銭的な要求は
何もなかった。実は、双方納得ずくで訴因を作っての離婚訴訟は法律上無効なのだけど、別居中の
妻の方も恋人ができて離婚を急いでいたようだ。彼女が離婚後すぐに再婚したことを彼が知ったのは
24年後のことだ。大学時代に彼とも交友のあった相手とわかったとき、彼は自分のことを棚にあげて
「あいつは二股をかけていた」と憤った。

離婚訴訟は、予定の審理の日に彼女が病気になって延期されるハプニングはあったけれども、彼が
出廷する必要もなく、翌年の春に仮判決が下り、3ヵ月後には離婚が確定した。

1976年6月26日午後1時。引退した牧師の自宅で、証人の末弟夫婦だけが立ち会ってのひっそりと
した結婚式だった。私は妹がデザインして縫ってくれたウェディングドレスを着て、泣きっぱなしだった。
式が終わったとき、義妹が「とても感動したわ」と私を抱きしめてくれた。夕方、彼の家族を招待して、
朝から用意していた私の手料理でごくささやかな「披露宴」をした。すべてがささやかだったけれども、
私は幸せだった。


トラウマの糸(3)

2006年10月31日 | 今日の風の吹きまわし
不吉な電話があって、一日泣き明かしてから10日後、私は心配する母の反対を押し切って、
バンクーバーに着いた。気持は重かったけれど、もう一度あの真剣な目できちんと説明して
ほしかったのだ。

仕事を終わって私の滞在先のYWCAに現れた彼は少ししおれた白いカーネーションを
差し出した。オフィスの受付の花瓶から失敬して来たのだという。彼もひどくやせて、少し
ばかりしおれていた。でも、食事の間、別れの言葉はひとことも出てこなかった。あの電話は
私を離婚裁判のような泥の中に引き込みたくなかったからだったという。あれは軽率だった、
忘れてくれ、と。

実は、最初に大喧嘩をした後、彼は和解を試みたらしい。私の手紙が妻の目に触れないように、
郵便局に私書箱を開いて、私には住所が変わるかもしれないからといい、彼女にはもう何も
ないと宣言した。(私への手紙はオフィスで書いていたらしい。)彼女は戻ってきたらしいが、
いく日も日が経たないうちにかばんに入っていた私の手紙を見つけ、封を切って読んだという。
彼が外から戻ったとき、彼女は彼の目の前で手紙を破り捨て、「出て行って」と言い残してまた
実家へ行ってしまったそうだ。

そのときのアパートは元々彼女の住まいだった。彼は自分の持ち物を2つの大きなトランクに
詰め込み、バスでダウンタウンのYMCA に移った。「あの日のボクは胸のつかえが取れて
とてもハッピーだった」そうだ。短い結婚生活の間、家事分担を強要され、小さな癖までうるさく
批判され、安らぐことがなかったという。妻に触れたいという気にもならなかった、と。前の夏に
私と過ごしたほんのわずかな時間を思い出すことが慰めだった、と。

それからの私たちは当面の大きな障壁を乗り越えることばかり話していた。その頃の法律では
離婚は簡単なことではなく、3年もの別居期間を待たずに離婚するには、彼が「不倫」を理由に
訴えられるしか方法はなかったのだ。私の名前も不倫の当事者として訴状に載る。「それでも
いいか」と彼は聞いた。私は「それでもいい」と答えた。

私たちが進む道は決まった。「日本に来て両親に正式に結婚を申し込むこと」という私の父の
条件を彼が承諾して、来日は秋と決まり、私は帰国の途についた。羽田に降り立って、入管の
窓口に並んだとき、初めて私は自分の決定が異国で暮らすことを意味することを思い知った。
自分が置かれた状況に対応することに無我夢中で、国も人種も言葉も、すべてが違うことに
思いが及ばなかったのかもしれない。(こんなことをいっても、世界のどこへも簡単に行けて
出会いがたくさんある環境にいる今の日本の人は信じてくれないけれど、私にいえるのは、
盲目的な恋はあり得るということだけだ。)


トラウマの糸(2)

2006年10月30日 | 今日の風の吹きまわし
私が初めて愛した人は知らない間に既婚者になっていた。妻となった人は彼より7才年下の
裕福な家のお嬢さん。出会いは大学のキャンパス。彼女が高校から進学したばかりの秋だった
そうだ。結婚したとき、彼女は教師になっていた。

実は、私はいちどだけ彼女に会っていた。彼とピクニックにでかけた日、車を持っていた彼女を
同伴して来たのだ。彼はファーストネームだけで彼女を私に紹介した。二人の間にはもうすぐ
結婚するカップルのような雰囲気がまったくなかった。あったとしたら、彼を好きになっていた
私が直感的に気づかないはずはなかった。

事実を知らされたのは翌年の春。珍しく長い手紙だった。結婚は3ヶ月足らずで破綻したという。
彼の両親の家に届く私の手紙を彼女が見つけて大喧嘩になり、彼女は出て行った。当時は
協議離婚に近い形で離婚するには3年以上の別居が必要だった。その3年を待って正式に
離婚したら私に経緯を打ち明けてプロポーズするつもりだったのが、彼女のほうから急に「車を
買うお金をくれるなら離婚訴訟を起こしてあげる」といわれて、私に告白する決心がついたという。
私といっしょに暮らし始めれば、3年以上も待たずに離婚できる、と。

手紙が届く頃に電話で直接話したい、と書いてあった。何その電話が来るまで、私は手紙を何度も
読み返して、自問自答を繰り返した。すでに結婚が決まっている知っていたら、私は日本へ帰って
彼のことを忘れただろう。もし愛していなかったら、忘れるのはもっと簡単だったはずだ。でも、
「愛している」といったあの目は真剣だった。

どうして私に黙っていたのか。ペンパルの関係だから言う必要はないと思っていたのが、「初めて
会ったときにこの人しかいない」と思った、と。でも、その時には遅すぎた。本当のことを言ったら
私は日本へ帰ってもう二度と手紙すら書いてくれないだろう。あの時は他に私をつなぎとめられる
手立てがなかった。黙っていたことは悪かった、許して欲しい、と。「キミさえ良かったらボクたちは
結婚できる」・・・それが電話でのプロポーズの言葉。私はそれを受け入れた。

会ってじっくり将来を話し合おうということになった。私はお金を借りてカナダ行きの切符を買った。
ところが、出発の10日ほど前、突然の電話で「すべて忘れてほしい」と。青天の霹靂としかいいようが
なかった。でも、電話の向こう彼も何か動転しているように感じられた。私は彼にはっきりと言った。
「それは私と向き合って直接言ってほしい」と・・・。


トラウマの糸(1)

2006年10月29日 | 今日の風の吹きまわし
トラウマの糸がどこまでつながっているのか。それをたどることは、ツレアイ君との馴れ初め
まで遡って自分の気持を検証することでもあると思う。

私たちは1969年3月にペンパルとして始まった。私は秘書学校生、彼は経済専攻の大学生
だった。日常や文化だけなく、政治や経済のことまで書きあった。若い女の子との政治経済の
話にまじめに応じてくれたのは彼が初めてだった。それは私にはとても新鮮なことだった。

初めて会ったのは1973年8月。同時に文通していたイギリス人と日系二世のご夫婦から
夏休みに来ないかと招待された。その頃、彼はオタワにいて、飛行機で数時間かけて行くだけの
お金も時間もなかったので、残念ながら会えないはずだった。それが、ひと月前になって彼が
急に帰郷を決めたことで「運命の出会い」になってしまったのだ。

彼は暑い中を私のステイ先まで自転車をこいで会いにきた。ドアを開けた時、逆光でほとんど
顔が見えなかったのに、なぜか胸がドキンとした。私の精一杯の英語での話を一生懸命聞いて
くれるやさしそうな目を見て、「好き」という気持が芽生えたと思う。

初めて愛してると言われたのは私が日本へ帰る前夜。最後のデートの後、玄関先でぐずぐず
していた彼が急にじっと私の目を見てそういった。真剣な目だった。うれしかった。そのとき私は
彼に恋をしていた。

私は何も知らされていなかった。実は彼には婚約者がいて、私と会ったときはすでに結婚式の
日が迫っていたのだ。(3日後だったことはずっと後になって知った。)前の年に一度結婚式を
直前にキャンセルして、帰郷したら結婚すると約束していたのだそうだ。

私は何も知らずに心から好きになって、愛しているという言葉を信じ、日本へ帰ってからも毎週
欠かさずに届くラブレターの言葉を信じた。クリスマスには国際電話で「愛している」といってくれた。
プレゼントも届いた。

彼は結婚式の最中に、それも誓いの言葉を交わす大事な場面で失神したそうだ。その原因が、
元義妹が私に言ったように、好きでさえなくなった婚約者と結婚しなければならないことがストレス
だったのか、あるいは人を騙した罪悪感なのかは、わからない。


今日のハイライト?

2006年10月28日 | 今日の風の吹きまわし
いつの間にか10月も残り少なくなっている。31日は第3四半期に徴収した消費税(GST)の
納付期限。翌日はニューオーリンズに向けて出発。やっと手が開いたところで、やることが
あれもこれも出てくる。ともあれ、ゆうべやっと3ヵ月分の帳簿付けを済ませたから、今日は
集めた消費税の納付と、アメリカドルの手当てと、ヘアカットをまとめて実行することにした。

行きつけのサロンでは、カットはオーナーのジュゼッペさん、カラーは奥さんのアンナさんの
担当だ。ジュゼッペさんはロマンチストだから音楽はいつもオペラのアリアやカンツォーネ、
たまにスペイン語の歌。今日はフラメンコが流れていた。

カットはいつものようにレイヤーにして、後ろを短か目に刈り上げてもらう。それからハイライト。
アンナさんが前髪をかき上げて「白髪が多くなった先に地色に染めなくちゃね」と。そうなのだ、
やたらと白髪が目立つなあと思っていたところ。早く女王様のようにきれいな白髪になりたい
と思うけど、現実は頭中に白いものが散らばっていて、ハイライトを入れると多色染め。

ということで、まず髪全体を地色に染める。30分ほど待って、シャンプー。鏡を見たら「昔の私」。
元の「濃い栗色」(黒ではないのだそう)になってみると、今までぜんぜん気にならなかった
白髪がこれからは気になりそう。いくら還暦が近くたって、そこは女なのだから・・・

ハイライトは明るいワインレッドにした。我ながら似合う色だと思う。全体を染めたらカッコいい
かな~などとドライヤーの中で勝手に想像してみる。シャンプーをして、ジュゼッペさんが
仕上げのはさみを入れてできあがり。自分が明るく、弾んで見えるのがうれしい。

ツレアイ君は「ゴージャス!黒のイブニングドレスを着たらエレガントだよ」と持ち上げてくれた。
でも、この頃はイブニングドレスでお出かけの機会がないなあ・・・残念。

1本の木なのだけど

2006年10月26日 | 今日の風の吹きまわし
我が家と北隣の裏庭の間には大きなトウヒの木がある。というよりは、ついさっきまであったのだ。

トウヒはクリスマスツリーになる形の良い木だ。それが、植えられた場所が悪かったばかりに
伐られることになった。というのは、前の住人が我が家との間の塀のそばに若木を植えたのが、
15年ほどの間に高さ15メートルほどの大木に育ち、塀を越えて我が家の方へ広がった枝が
電気の引込み線をすっぽり飲み込んでしまった。強い風が吹くと枝といっしょに電線が大きく
振れる。少し雪が降ると垂れた枝といっしょに電線も垂れる。大雪が降ったら重みで電線が
切れてしまいかねない。我が家だけでなくご近所まで停電してしまうかもしれないのだ。しかも
個々の引き込み線の復旧費用は家の所有者負担。

冬ごとに心配を募らせていたら、今のお隣さんが根が地表に出て庭がでこぼこになったので
伐ろうと思うと言い出した。こちらに異存のあろうはずがない。費用の半分を出しましょう。そうなると
お隣さんにも迷いはなく、利害が一致して話はとんとん拍子・・・のはずがそうはいかなかった。

バンクーバーでは、私有地であっても許可なく胸高直径20センチ以上の木を伐ることができない。
もっとも手続きは簡単だし、許可料はわずか15ドル。問題は許可の条件なのだ。同等の木を
新しく植えなければならない。市内の緑を開発から守ろうという狙いなのだが、お隣さんが金が
かかりすぎるし、もう大きな木はいらないとむくれてしまった。ツレアイ君と私が交代で市役所に
電線が切れる危険があるのだから代替は免除できないかとお伺いを立てたら、電線云々は市の
関知するところではないから、規則は規則とそっけない。停電の心配は電力会社に相談しなさい。
電力会社に相談すると、木を伐りなさい。お隣は伐りたいのに市役所が伐らせてくれないんですが、
というと、それは市役所に相談しなさい。まさに堂々巡りの行き止まり。お隣さんはアイリッシュの
反骨精神で血が沸き立ってしまった。

そんなときに造園業者が「さっさと伐ってしまえばいい。替わりの木は市役所が気づいて文句を
言ったら考えればいい」と入れ知恵をしてくれた。そんなの常識だよ、とも。というわけで、今日
トウヒは、業者が下のほうから枝を払い、残った幹を上の方から輪切り。その場で機械が全部
粉砕して、わずか1時間ほどで大木はきれいになくなってしまった。市役所が気が付くかどうかは
わからない。それよりも今は、もう嵐が来ても雪が降っても停電の心配をしなくて済むのがうれしい。

トラウマ

2006年10月25日 | 今日の風の吹きまわし
時折わけもなく、とにかく手放しで泣きたいと思うことがある。たいていは仕事がちょっと
途切れたときのような、たぶんに緊張感がふっと緩んだようなときに起きる。毎日の暮らしが
落ち着いているはずなのに、悲しいことは何もないはずなのに、とにかく思い切り泣きたい。
時にはバスルームに閉じこもって、涙が出なくなるまでじっと待つ。

あれは8年前の10月だった。ひと月近く仕事を休んで、二人そろって日本の休暇・・・の
はずだった。ツレアイ君に何の疑いも持っていなかった。初めて愛しているといわれた
25年前の夏と同じに彼を信じていた。ツレアイ君がペンパルサイトで知り合ったという
若い女性に会うためにいそいそとおみやげまで用意するほどに。

最初の大爆発が起こったのはその女性と神戸で会った翌々日、長崎でのことだった。
夜、一日むっつりしていたツレアイ君に何気なく「どうしたの?」と聞いた瞬間、彼は切れた。
「もう二度とお前とは日本へ来ない」と。それからホテル中に聞こえそうな大声で、私が
気を利かせて留守番をするべきだったのに、日本までついて来た私の「身勝手」を罵倒
し続けた。二人で日程を計画した旅行だったのに・・・。

あの日、私たちは蝶々夫人の舞台と言われるグラバー邸を訪れた。その後のことはあまり
覚えていない。接近する台風に追われるように長崎を後にして、岡山で追いついた台風が
吹き荒れる様をホテルの窓から見ていた記憶だけが鮮明に残っている。その後を予言して
いたといえばあまりにもできすぎた話だけど、それから2年以上も、何かがプツンと切れて
発作的に自殺を図ってしまうまで、私は台風に翻弄され続けた。しばらくはその自分の行為
さえ受け入れられずに、事故だったと言い訳していた。

きっと、カウンセリングでも、新しい名前の新しい自分になることでも、創作の形で感情を
吐き出すことでも、まだ癒しきれないトラウマが心の奥に残っているのだろう。

「泣くのはヘルシーなんだよ」とドクターはいった。何が悲しいのかわからなくてもいい。
こうしてときどき泣きたくなるのは私の心が生きているからなのだと思えばいい。

なくて七癖

2006年10月24日 | 今日の風の吹きまわし
癖といっても、習い性と良くない性質の二通りがある。「癖のある人」というと、ちょっと
変わっている人を横目で見ていうらしい。これが「何とか癖」と呼ばれるようになるとあまり
うれしい評とはいえなくなることが多い。

だけど、人間は誰しもなくて七癖。私だってひと癖も、ふた癖もある。たとえば・・・

*話しながら手を振り回す癖。 子供の頃からよく「そんなに手を振り回さないの!」と
いわれたから、たぶんその頃からジェスチャーが大きかったのだろう。夢中になると手が
華麗に?踊り、指先まで雄弁になる。何千年も前にどこからかはぐれてきたラテン系の
遺伝子が混じり込んだのかもしれない。

*とにかくやってみる癖。 これも子供の頃からだと思う。世の中にはおもしろそうなことが
多すぎるのだ。ちょっと興味を持つと、見よう見まねでやってみる。たぶん門前の小僧
としては天才レベルかもしれないと内心思ったりする。もちろん、下手の横好きも星の数
ほどあるけれど、持って生まれてこなかった才能を恨んでもしかたがない。

*白日夢を見る癖。 コンサートを聴きながら頭の中で詩を書いていたりする。学校時代は
先生の話を聞きながら、つい関係ないことを考えてばかり。だから教室にいても講義は
あまり頭に入らない。その点、自習しなければならない通信教育は私にぴったり。なんだか
ADDっぽいけれど、ひょっとしたらそうかもしれないという気もする。

*茫漠としたことを考える癖。 人生の酸いも甘いも噛み分けた(はずの)年なのに、今だに
宇宙的なとりとめもない超遠視の議論をしたがる。もしかしたらカール・セーガンの「コスモス」
の影響かもしれない。いや、天体望遠鏡を覗いていたのはそれよりもずっと前のことだ。
何億年、何十億年も前の壮大な出来事を今ちっぽけな地球から見ていると、宇宙のスケール
から見たら人間などまさにナノ秒の存在。その瞬く間をどう生きるかが難しい。

*急いでいないのに走る癖。 別にせっかちではないのに、特に急いでいるわけでもないのに、
なぜかよく走る。ある職場で上司が「危なくてしょうがない」と笑いながらキーリングにつける
鈴をくれた。猫に鈴とはいうけれど、私はねずみ年の生まれ。おまけに牡牛座生まれなので、
ねずみのようにちょろちょろ走るかと思えば、牡牛のように猛進する運命なのかもしれない。

それにしても何と変な「癖」の多いこと。何となく自分像が見えてくるようだ。ひとつ自分で良い
所だと思うのは、開けっぴろげだということ。確かに無防備すぎるくらいかもしれないけれど、
そこが極楽トンボの私なのだ。

引き算人生

2006年10月23日 | 今日の風の吹きまわし
掲示板などで「引く」という表現に出くわすことが多くなった。日本だけではない、ローカルの
掲示板でも、いたるところで「引く」、「引いてしまった」、「引かれた」の連発だ。

私が辞書から解釈する限りでは、「引く」といえば、何かを自分の方に近寄せることであり、
「退く」の意味であれば、自分が何かから遠ざかることだ。人目や関心を引くのはけっこう
華々しいが、身を引くのはちょっと暗い。よく読んでみると、どうも近頃は自分から遠ざかる
「退く」の意味に使うようだ。それも人間から遠ざかる、つまり「距離をおく」ということ、
うがった見方をすれば、何らかの理由でその人とは交流を持ちたくないということらしい。

理由というのは、だいたいがその人と価値観が、職業が、見てくれが、ライフスタイルが
合わない・・・早く言えば、自分の「好み」や「期待」に合わないということらしい。つまりは、
相手が自分のものさしに合わないから嫌だということなのだろう。思い込みが強いと、嫌が
高じて「思いっきり引く」となり、ついには「ドン引き」となる。まるで、「こんなの嫌い!」と
後ずさりの挙句に踵を返して走り去るような印象を受ける。

引かれる相手の方はきっとたまったものではないだろう。でも、逃げてゆく相手を追っても
エネルギーの浪費というもの。ここは「去るものは追わず」で悠然と見送った方が、長い
人生の最後の決算は黒字ということになるのではないだろうかう。自分の短いものさしに
合わないものを捨てまくる「引き算人生」では、最後の帳尻はゼロ、へたをすると大赤字に
なっているかもしれないのだから。

仕事が終わったぞ!

2006年10月22日 | 今日の風の吹きまわし
カレンダーに載っていた最後の仕事を仕上げて納品した。

月末までの予定はゼロ。カレンダーは空白。あまりに久しぶりのことで、空白の日が並ぶ
カレンダーがまぶしいくらい。まとまって手の空く日を待っていたまっさらなカンバスも
まぶしい。そういえば、今年は一枚も絵を描いていないんだっけ・・・

フリーの稼業は仕事がない日が週末だし、まとまって何日か仕事が途切れたときが休暇。
なぜか忙しいと週末も休暇もない。誰が「自由業」と呼んだのかわからないけど、明日は
明日の風が吹く稼業を17年もよく続けてきたものだと思う。

天職のように思えるこの仕事。人生の危機の中で私を支えてくれたこの仕事。今は我が家の
家計を支えているこの仕事。万が一この先独りぼっちになっても私の経済基盤となるのが
この仕事なのだ。興味があって好きな仕事なはずだけど、やっぱり時々は疲れて、本当に
好きなのかどうかわからなくなるときもある。

もう今年はこのまま店じまいしたいなあ、とぜいたくなことを考えたりもする。ぜいたくなのは
わかっているのだけど、今年はもう去年1年の仕事量を超えたから、このあたりでたっぷり
休養した方が・・・と言い訳を考える。でも、手の空いているときに仕事の依頼があれば
どうしてもNOとはいえないのが私。ニューオーリンズ行きまであと10日。どうか、どうか、
このまま休みが続きますように・・・


ロマンス騒動

2006年10月21日 | 今日の風の吹きまわし
よくカナダの政治は退屈だといわれる。歴代のどの政府もアメリカやイギリス、フランスに伍して
世界に注目してもらおうと一生懸命だけど、どう見ても注目度はイマイチ。世界政治の舞台で
注目される政治家もあまりいない。そんなカナダの政治家がアメリカのメディアに注目されて、
びっくりしたカナダのメディアが大騒ぎした。

アメリカのライス国務長官が、9/11のテロでアメリカに着陸できなくなった旅客機を受け入れ、
市民が立往生した旅客を自宅に泊めて世話をしたカナダに謝意を示すためにノヴァスコシア州を
訪れた。アメリカの外務大臣であるライス長官の訪問だからカナダの外務大臣が同行するだろう。
しかもノヴァスコシアはマッケイ外相の地元だから、当然あちこちの見所に「ご案内」もするだろう。
ところが・・・

テレビのニュースには、カジュアルな服装のマッケイ外相とライス長官が楽しそうに談笑しながら
海辺をそぞろ歩きしたり、カナダ名物のティム・ホートンで仲良く飲み物を注文したりする姿が画面に
映った。そして、共同記者会見で、ライス長官がマッケイ外相をにこやかに「ピーター」とファースト
ネームで呼んだから、さあ大変・・・。

マッケイ外相は40才の独身。二世議員で保守党の副党首だ。野党時代、億万長者の新人議員
ベリンダ・ストロナックと公然の仲だった。ところが、当時の自由党政権の存続が危うくなった時、
ストロナック議員は閣僚のイスを約束されてあっさりと自由党に鞍替えしてしまい、マッケイ氏は
故郷の農場で「破れた恋」の傷心を吐露して大いに同情されたという経歴がある。

そのマッケイ外相に今度は同じく独身のライス国務長官とのロマンスか、とアメリカのメディアが
持ち上げた。そうなるとカナダのメディアも騒ぐ。議事堂で記者団に探りを入れられた外相は
「彼女はとてもシャープな人ですよ」とはぐらかして階段を駆け上がって行った。一方、ワシントンの
アメリカ国務省では「二人で食事をした」ことについて質問された報道官が、「十何人もの護衛官と
何人もの補佐官に囲まれていてはロマンチックも何もあったものじゃない。もちろん、テーブルには
キャンドルはなかった」と水をかけるのに大わらわ。

外務大臣同士という大型ロマンスの噂が冷めきらないうちに、マッケイ外相を袖にしたストロナック
議員がメディアの注目を集めた。引退したホッケー選手タイ・ドミの離婚裁判でドミ選手の不倫相手
として名指しされてしまったのだ。ドミ選手の特技はグラブを脱ぎ捨てての「けんか」。ペナルティで
歴代何位かの記録を持つ。

退屈なはずのカナダの政治家が珍しくメディアを騒がせたロマンス騒動。マッケイ外相は世界を翔る
ライス国務長官がお相手で大いに株を上げ、一方、ストロナック議員はペナルティの多さが自慢の
元ホッケー選手がお相手で大いに株を下げ、天井桟敷の野次馬は久しぶりに沸いたのだった。

いくつに見られたい?

2006年10月20日 | 今日の風の吹きまわし
ひと仕事終わったところで、また読売の小町をのぞいたら、「実年令マイナス何歳くらいに
見られたいか」という問いかけ。いつもまでも若くありたいと思うのは世界共通だけど、
「若いこと」と「若く見えること」と「若々しいこと」はまったく別ものではないかと思う。

若さのものさしは短い。私が適齢期だった頃は、女は25才で未婚だとクリスマスケーキと
呼ばれた。翌日は半額セール、30才は年末の在庫一掃大売出しか。バースデーケーキは
毎年のことなのに・・・。

まだ見合い結婚が主流の時代で、私だって縁談がなかったわけではないけれど、実は父が
みんな門前払いしたらしい。やきもきする母を尻目に、私はボーナスをはたいて買った天体
望遠鏡で夜な夜な星を追いかけ、未婚のまま25才を迎えた。

若さには魔力がある。私が若かった頃は、若いということには経験不足から来る怖いもの
知らずの傲慢さがあったように思う。今は若さと同時に「かわいらしさ」も要求されるようだ。
若さのものさしが、かっては「子供」とされた年令ラインまで詰められてしまって、女も男も
カワイイ志向の観がある。さっさと年を取っておいてよかった、という気にもなってくる。

前に「永遠の少女でいたい」というトピックがあったが、どうも17才がそのラインらしかった。
自分も永遠の少女でいるために着るものやメークやしぐさに気を使っているというのもあった。
二十代の社会人の目標が「永遠の少女」ではダウングレードではないのかと思うけど、中身
と外見が釣り合った方がいいのかもしれない。

さて、私としては実年令マイナス何歳に見られたいか?ざっと読んで行くと、マイナス5才、
マイナス10才、若い方がいい、年相応と反応はいろいろ。私の年令になるとあまり若く
見てもらっても素直に喜べないし、年相応といっても精神年令によってはお世辞にも悪口
にもなる・・・と思っていたら、「年齢不詳」というのがあった。うん、これはご名答。
私もこの先は年齢不詳で行くことにしよう。女はちょっぴりミステリアスな方がいいから。

収集癖

2006年10月18日 | 今日の風の吹きまわし
ツレアイ君にはかなりの収集癖がある。

もっとも人間は何かとモノを集めたがる動物だそうなので、ツレアイ君が特に珍しいわけ
ではない。ただ、何かを集め始めると執着してしまうところがある。子供の頃に「アニマル・
クラッカー」という動物の形をしたビスケットがあって、おやつに買ってもらっては手垢で
汚れて食べられなくなるまで並べて遊んだという。

要するに、収集する対象のモノに興味があるというよりは、集めるという行為と、集めた
ものを並べて、それを並べ替えるという行為に夢中になってしまうのだ。だから集める
対象はころころ変わるし、熱の冷めるのが意外に早いものもある。でも、執着の度合いに
よっては日常生活が疎かになって、立派な中毒と思われる状態になってしまうことがある。
客観的に見ると、日本の女子高生ポルノの収集も、Jガールとの恋愛ごっこも、実は子供が
お菓子のおまけを集めるのとあまり変わりがなかったのだろう。

オンナノコは多い時には一度に20人以上もいた。これだけの数に毎日のようにメールを
書くには大変な労力がいる。よほど執着しなければできないことだ。カノジョたちの名前を
取り違えることもしばしばだった。もらったメールはすべて印刷して分厚いバインダーに綴じ、
差し替えたり、並べ替えたり。見事にツレアイ君を翻弄した既婚女性を除けば、いっときでも
「もしかして!」と胸をときめかせたお嬢さんたちには悪いけれど、昔のアニマル・クラッカーと
まったく変わらない。どう見ても大人の男の浮気にはほど遠い感じがする。(だから許せるの
かもしれないけれど・・・)

収集癖は一種の強迫神経症と関係があるといわれる。もうひとつ、平面いっぱいにモノを
並べないと気がすまないのも奇癖といえば奇癖。空間にしろ、時間にしろ、ぽっかり空いた
スペースが怖いのではないかと勘ぐってしまうが、心の奥深いところで「見捨てられ不安」
とつながっているのかもしれない。

今、ツレアイ君はネットラジオからジャズ演奏を集めるのに夢中だ。一日の大半が録音した
ファイルを並べ替えたり、自分だけのコレクション作りに費やされる。それでも、オンナノコを
集めるよりは健全だと思って、二人の生活に支障がない限りはそっとしておこう。

赤信号、一億そろって渡れば?

2006年10月17日 | 今日の風の吹きまわし
日本中に「一億総白痴化」ということばが爆発的に広まったのは50年近くも前。もっとも、
ことテレビに関しては、今や世界総白痴化の観がある。

その後に「一億総中流」ということばが続いた。猫も杓子も中流意識。これはバブル後も
あまり変わっていないという。というよりは、バブル時代に「一億総成金」のハイソサエティ
だったのが15年かけて元のレベルに戻ったと言った方が近いのかもしれない。

それにしても、この「一億総なんとか」は日本の社会心理の真髄といえるのではなかろうか。
EQUALITYを日本語では「平等」というが、なぜか昔からこの「平」の字が引っかかる。
もとより人間は外観、能力、気性、器と、それぞれに違う。元々「個人差」があるのだ。人間の
平等とはその個人差に拘らず誰もが人間として同じ価値を持っているということのはずだ。
それを日本では「初めに平らありき」で、その差を無視して、とにかく何でもまっ平らに
押し均そうとするから、逆に二者択一的な価値判断を強いる「格差社会」を作ってしまって
いるように見える。

それにしても、いともあっけらかんと「一億総なんとか」になれる社会はちょっと怖い。
「一億総」というキーワードでネットを検索してみたら、あるわ、あるわ。目に付いたもの
だけを挙げるだけでも、「一億総サラリーマン化」、「一億総恋愛時代」、「一億総IT時代」、
「一億総うつ時代」、「一億総思春期」などなど。「一億総貧乏時代」という暗いものもある。

さて、日本という枠の外にいて掲示板などをながめていると、日本人は実に不安な人たちだ
という印象を受ける。何かがあれば不安、なければまた不安。何をするのも不安、しないのも
不安、毎日が不安。将来が不安。いっそ「一億総不安神経症」とでも呼べば、みんなと同じで
少しは安心できるのではないかと、少々イジワルなことを考えてしまうのだけど・・・

人間のスペクトラム

2006年10月16日 | 今日の風の吹きまわし
当地の日刊紙「バンクーバー・サン」の記事によると、カナダでは子供の165人に1人が
自閉症スペクトラムのどこかに属するそうだ。ほとんどそれとわからない子から、話すことが
できない子まで、その数は小児ガンよりずっと多いという。

記事のタイトルは「ひとつの障害、さまざまな症状」。20年ちょっと前には子供1万人あたり4人
くらいの割だったのが、今は60人。これが今の先進国の平均値らしい。子供の人口の0.6%。
数字だけを見ると、まるで自閉症がある種の流行病のように蔓延しつつあるような印象を受ける。
でも、急増しているのは単に研究や医療の進歩で診断しやすくなったためで、10年前なら
ほとんどが知能発達障害、あるいは学習障害の数に数えられていただろうという。ということは、
昔からそれだけ多くの子供たちが自閉スペクトラムのどこかにいて、しかもその多くが成人して
社会のどこかで生産活動に加わってきたということになる。

考えてみればこだわり性だったり、注意散漫だったり、切れやすかったりする人はどこにでもいる。
特定のブランドにこだわったり、人の気持を思いやれなかったり、何ごとにも飽きやすかったり
する人間はそこらへんにごろごろしている。私だって小学校の頃は注意散漫だといわれたし、
ツレアイ君だって些細なことでパニックを起こす傾向がある。ツレアイ君のパパも相当のこだわり性
だし、周囲の空気にはまったく無頓着しない。それでも、他人とギクシャクしたり、生きにくさを
感じたりしながら、普通の人間として機能している。

でも、ひょっとしたらこの「普通の人間」が問題なのかもしれないのだ。特にアスペルガー症候群、
注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)と診断される「症状」は、人間性スペクトラムの
中に誰もが持っている性質の領域にある突出したサブセットなのかもしれない。たまたまその
部分が際立っているために、特に突出したもののないごく「普通」の人間が作った「社会の規範」
が複雑さを増すに連れてうまくかみ合わなくなり、そのために普通人が「障害」の範疇に入れて
しまっているとしたら、こんな迷惑な話はないだろう。

最近出版された『ADHDサクセスストーリー』(トム・ハートマン著、嶋垣ナオミ訳、東京書籍)
を読んで、「普通の人間」とは何なのだろうかと考えていたところだった。こうした子供たちが
一人の大人として社会で能力いっぱい活躍できるようになるためには、まず「普通の人間」の
定義を考え直さなければいけないかもしれない。