1974年秋。彼は貯金をはたいて切符を買い、日本へやって来た。
彼にとっては初めての海外旅行だった。社員旅行で伊豆へ行っていた私はその朝早くバスに
乗って東京へ向かった。前夜の飲みすぎがたたって二日酔い気味だったけれど、胸だけは
躍っていた。乗り継ぎに乗り継ぎで羽田空港に着いて待つこと永遠、国際線の出口から彼が
出てきた。走り寄って、通路の真ん中で抱きついてキスを交わしたように思うけれども、それは
あまりにも映画のラブシーンのようでありすぎるかもしれない。
二人そろって千歳行きの飛行機に乗った。札幌に着いたのは夜遅く。私の両親が市内のバス
ターミナルで迎えてくれた。彼は私が予約しておいたホテルに落ち着き、私は帰宅した。
翌日は確かまだ顔合わせ程度だったと思う。本番の日、きちんとスーツを着た彼は一人でバスに
乗って、迷子にならずに我が家に到着した。日本の習慣だからと教えられた通り、私の父に
「娘さんを私にください」と申し入れ。彼はコチコチに緊張していた。いくつかのやり取りがあった。
間に入って通訳をしたのが当事者の「娘」ということもあってか、あまり難しい「尋問」はなく、父は
「OK」という返事と共に彼と握手をした。その翌々日、彼は私の両親の招きでホテルから我が家に
移り、残りの日々を家族の一員として過ごしたのだった。(後で何度も、にぎやかで睦まじい様子が
羨ましかったといっていた。)
来日までの間に、彼は弁護士や移民局に相談して、離婚まで私がカナダで暮らせる最善の方法を
探した。弁護士の助言は、その当時の移民法では、私がビジターとして来てビザを延長しながら
離婚成立を待つのが最善というものだった。私を当事者にしないで済む方法はなかった。私たちに
とって幸運だったのは、移民局で彼の相談に応じた年配の移民官が私たちの事情を理解してくれ、
私が来てからも好意的にできるだけの便宜を図ってくれたことだ。彼の父親が離婚を強く支持して
いたことも追い風になった。(彼女が嫌いだったという以外に理由はないらしかった・・・。)
1975年5月。私はスーツケースを3つ抱えて彼のところへ来た。日本で言うワンルームマンションの
慎ましい暮らしだった。わずかな家具もキッチンの道具や食器も、すべて彼が両親の使わなくなった
ものをもらって来ていた。彼はすぐに別居中の妻の弁護士のところへ出向いて不倫の事実を認め、
離婚訴訟が起こされた。財産は何もなかったし、彼女の方が収入が多かったから、金銭的な要求は
何もなかった。実は、双方納得ずくで訴因を作っての離婚訴訟は法律上無効なのだけど、別居中の
妻の方も恋人ができて離婚を急いでいたようだ。彼女が離婚後すぐに再婚したことを彼が知ったのは
24年後のことだ。大学時代に彼とも交友のあった相手とわかったとき、彼は自分のことを棚にあげて
「あいつは二股をかけていた」と憤った。
離婚訴訟は、予定の審理の日に彼女が病気になって延期されるハプニングはあったけれども、彼が
出廷する必要もなく、翌年の春に仮判決が下り、3ヵ月後には離婚が確定した。
1976年6月26日午後1時。引退した牧師の自宅で、証人の末弟夫婦だけが立ち会ってのひっそりと
した結婚式だった。私は妹がデザインして縫ってくれたウェディングドレスを着て、泣きっぱなしだった。
式が終わったとき、義妹が「とても感動したわ」と私を抱きしめてくれた。夕方、彼の家族を招待して、
朝から用意していた私の手料理でごくささやかな「披露宴」をした。すべてがささやかだったけれども、
私は幸せだった。
彼にとっては初めての海外旅行だった。社員旅行で伊豆へ行っていた私はその朝早くバスに
乗って東京へ向かった。前夜の飲みすぎがたたって二日酔い気味だったけれど、胸だけは
躍っていた。乗り継ぎに乗り継ぎで羽田空港に着いて待つこと永遠、国際線の出口から彼が
出てきた。走り寄って、通路の真ん中で抱きついてキスを交わしたように思うけれども、それは
あまりにも映画のラブシーンのようでありすぎるかもしれない。
二人そろって千歳行きの飛行機に乗った。札幌に着いたのは夜遅く。私の両親が市内のバス
ターミナルで迎えてくれた。彼は私が予約しておいたホテルに落ち着き、私は帰宅した。
翌日は確かまだ顔合わせ程度だったと思う。本番の日、きちんとスーツを着た彼は一人でバスに
乗って、迷子にならずに我が家に到着した。日本の習慣だからと教えられた通り、私の父に
「娘さんを私にください」と申し入れ。彼はコチコチに緊張していた。いくつかのやり取りがあった。
間に入って通訳をしたのが当事者の「娘」ということもあってか、あまり難しい「尋問」はなく、父は
「OK」という返事と共に彼と握手をした。その翌々日、彼は私の両親の招きでホテルから我が家に
移り、残りの日々を家族の一員として過ごしたのだった。(後で何度も、にぎやかで睦まじい様子が
羨ましかったといっていた。)
来日までの間に、彼は弁護士や移民局に相談して、離婚まで私がカナダで暮らせる最善の方法を
探した。弁護士の助言は、その当時の移民法では、私がビジターとして来てビザを延長しながら
離婚成立を待つのが最善というものだった。私を当事者にしないで済む方法はなかった。私たちに
とって幸運だったのは、移民局で彼の相談に応じた年配の移民官が私たちの事情を理解してくれ、
私が来てからも好意的にできるだけの便宜を図ってくれたことだ。彼の父親が離婚を強く支持して
いたことも追い風になった。(彼女が嫌いだったという以外に理由はないらしかった・・・。)
1975年5月。私はスーツケースを3つ抱えて彼のところへ来た。日本で言うワンルームマンションの
慎ましい暮らしだった。わずかな家具もキッチンの道具や食器も、すべて彼が両親の使わなくなった
ものをもらって来ていた。彼はすぐに別居中の妻の弁護士のところへ出向いて不倫の事実を認め、
離婚訴訟が起こされた。財産は何もなかったし、彼女の方が収入が多かったから、金銭的な要求は
何もなかった。実は、双方納得ずくで訴因を作っての離婚訴訟は法律上無効なのだけど、別居中の
妻の方も恋人ができて離婚を急いでいたようだ。彼女が離婚後すぐに再婚したことを彼が知ったのは
24年後のことだ。大学時代に彼とも交友のあった相手とわかったとき、彼は自分のことを棚にあげて
「あいつは二股をかけていた」と憤った。
離婚訴訟は、予定の審理の日に彼女が病気になって延期されるハプニングはあったけれども、彼が
出廷する必要もなく、翌年の春に仮判決が下り、3ヵ月後には離婚が確定した。
1976年6月26日午後1時。引退した牧師の自宅で、証人の末弟夫婦だけが立ち会ってのひっそりと
した結婚式だった。私は妹がデザインして縫ってくれたウェディングドレスを着て、泣きっぱなしだった。
式が終わったとき、義妹が「とても感動したわ」と私を抱きしめてくれた。夕方、彼の家族を招待して、
朝から用意していた私の手料理でごくささやかな「披露宴」をした。すべてがささやかだったけれども、
私は幸せだった。