列王記下4:42~44、エフェ3:14~21、ルカ14:15~24
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二日市教会主日礼拝説教 2024年7月28日(日)
「イエスのたとえ話 大宴会」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日はルカ14章の「大宴会のたとえ」をごいっしょに考えてみたいと思います。
ところで、これを考える前に、鉄道のことを考えたいと思います。それは、鉄道模型や、子どものプラレールに欠かせないレールのポイントのことです。走ってきた汽車が、その先はA方向かB方向かを選ばなければならない分岐点に必ずあるのがポイントだからです。先日のフランス高速鉄道事件でも、犯人はポイントの破壊をねらっていたようで、そのようにポイントは鉄道の生命線に等しい存在なのです。
なお、AかBのどちらか選ぶのも、列車の運転手ではなくポイントという機械です。ポイントは、昔は転轍機と呼ばれていて、その場所に鉄道員が行き転轍機のかなり大きなレバーを前方か後方にぐいと倒しますと、レールがちゃんと音を立てて右か左に動いて、レールを正しい進行方向に向けて調整しました。今では全部電気仕掛けになって、転轍機は姿を消しました。
ただしポイントという機能は今でも大事です。それが故障した時に汽車が猛スピードで走って来て、正しい方向に進めなかったために大事故になったこともありました。本日のたとえ話も、このポイントを思わせるものが出てくるのです。
ところで、このたとえ話には、奇妙なことが書かれていました。なぜなら、宴会の主催する主人が、宴会に招待したい人を選んで早めに案内状を送り、当時の出欠の確認まで取っていたというのに、当日になって家の僕を行かせて、宴会の準備が整いましたからどうぞお越しくださいと言わせたところ、誰もがそれを断ったという話になっていたからです。
たしかに奇妙な話ですが、それでは彼らがなぜ断ったのかが大事になります。ところで、僕が彼らから聞いた理由は、一見もっともなことでした。たとえば最初の人の理由は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」で、二番目の人は「牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べているところ」だったからです。当時のことをほとんど知らない私たちなら、「それは大変、欠席も仕方ないよね」となるのかもしれませんが、このたとえ話をイエスからじかに聞いていた人たちには、とんでもないあきれた理由でしかありませんでした。
というのも、たとえば「畑を買った」人ですが、私たちは簡単に「畑を買う」と言いますが、当時はそれが人生の一大事だったからです。緑が豊かな日本ならいざ知らず、聖書の舞台の中東は耕作可能な土地が限られていたので、畑の売買もめったに行われず、手に入れたいと思ったら、何年もかけて現地を視察し、本当に耕作に適しているかチェックし、石橋をたたいて渡った末に売買契約をして支払いをしました。しかしこの人は、買った土地を今初めて見に行くと言ったものだから、イエスのこのたとえ話を聞いていた人たちは、何と間抜け!なとも思いますが、待てよこの男は大嘘をついて宴会への招待を足蹴にしたのではと思ったのでした。
さて二番目の「牛を買った」男の言い訳もあやしいものでした。彼は牛を10頭も買った。今からその牛を見に行くというのですが、牛10頭とは相当な資産家がすることでしたが、それにしても、自分はそのため大金を払ってしまったところだから、今ただちにその牛たちを点検に行かねばならない。この言い訳にも、何かうさんくさい匂いがただよっていました。
というのも、牛を持つ目的は耕作のためで、耕作に適しているかどうかは、体つきや皮膚の状態、また性質など数多くのチェック項目があったからです。お金を払ったあとで傷を見つけてもあとのまつり。買う前に時間をかけるのが常識だったのに、この男はそれをしていない。イエスの話を聞いていた人たちは、この男も愚かというよりは意図的に宴会を台無しにしてやろうという魂胆があったにちがいないと思ってしまうのでした。
なお、三番目の人間の「妻を迎えたばかり」云々は、当時の感覚では、男がけっして人々の前で口走ってはならない、卑猥で露骨なセリフでした。これを、せっかく宴会に招待してくれた主人にあてつけがましく口にすることは、主人をとんでもなく侮辱したことにほかなりませんでした。彼はこんなことをしてまで、宴会の主人の顔に泥を塗ったのでした。
さて、宴会に客を招待するにあたって、家の主人がいちばん考えることは、最も親しくお付き合いをしている人たちを招いたいということでした。気心が知れていて、楽しい会話が楽しめる者たちこそ、食事を共にするにふさわしいと考えるからです。なおこの主人の場合は、その人たちは裕福で上流階級の人間でしたが、そういうことよりも主人が大事に考えたことは、ベストフレンドを招待することでした。こうして選び抜いた招待客の誰もが断ってきたのである。ありえない、絶対にあってならないことが起きたのでした。
さて、ここで重要なキーワードが現れます。それは「主人の怒り」でした。「すると、家の主人は怒った」と書かれています。当然すぎるくらい当然だった。けれども、主人のこの怒りには、先があるのでした。
というのも、彼はここでポイントのレバーをぐいと引いたからです。すると、直進してきた怒りの汽車が、仕返しとか復讐という方面ではないもう一つの方面に向かうレールの上を走り始めたのでした。(結論を先取りしてしまいますが、このことにイエスが考える愛の神の本質が現れているのです)。
さて、どんなレールだったかというと、彼は僕に、誰でもいいから通りにいる人を家に連れて来るように命じたからでした。自分はこれから、見知らぬ人たちと食事を共にしたいのだと言ったのでした。それには、貧しい人も、体の不自由な人も、目の見えない人も、足の不自由な人もいるのだが、そういう人も誰一人排除してはならない。こうして家は客人でいっぱいになりました。めでたし、めでたし。
ところでこのたとえ話は、現実にはありえないようなことの積み重ねでした。それでも、社会的に親密な関係にある人たちが、大宴会への招待を目前にして、とんでもないことを口走り始めたことは、神の国の宴会に招待されているにもかかわらず、それに応じようとしない人間のかたくなな心の現実が描写されていたと言えるかも知れません。
しかし、それ以上に大事なことは、天国の宴会に招かれることは夢にも思ったことがない人たちが、実はそれに招かれているという神の国の現実を、イエスは語っていたのかも知れません。ところが、その人たちが招待に応じて行ってみても、優先的に招待されていたはずの人たちの姿が見当たらなかったという、もうひとつの現実をも、イエスは示唆していたと思われるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 8月4日 聖霊降臨後第11主日
説教題:二人の家造り大工
説教者:白髭義 牧師
≪暑中お見舞い申し上げます≫
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二日市教会主日礼拝説教 2024年7月28日(日)
「イエスのたとえ話 大宴会」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日はルカ14章の「大宴会のたとえ」をごいっしょに考えてみたいと思います。
ところで、これを考える前に、鉄道のことを考えたいと思います。それは、鉄道模型や、子どものプラレールに欠かせないレールのポイントのことです。走ってきた汽車が、その先はA方向かB方向かを選ばなければならない分岐点に必ずあるのがポイントだからです。先日のフランス高速鉄道事件でも、犯人はポイントの破壊をねらっていたようで、そのようにポイントは鉄道の生命線に等しい存在なのです。
なお、AかBのどちらか選ぶのも、列車の運転手ではなくポイントという機械です。ポイントは、昔は転轍機と呼ばれていて、その場所に鉄道員が行き転轍機のかなり大きなレバーを前方か後方にぐいと倒しますと、レールがちゃんと音を立てて右か左に動いて、レールを正しい進行方向に向けて調整しました。今では全部電気仕掛けになって、転轍機は姿を消しました。
ただしポイントという機能は今でも大事です。それが故障した時に汽車が猛スピードで走って来て、正しい方向に進めなかったために大事故になったこともありました。本日のたとえ話も、このポイントを思わせるものが出てくるのです。
ところで、このたとえ話には、奇妙なことが書かれていました。なぜなら、宴会の主催する主人が、宴会に招待したい人を選んで早めに案内状を送り、当時の出欠の確認まで取っていたというのに、当日になって家の僕を行かせて、宴会の準備が整いましたからどうぞお越しくださいと言わせたところ、誰もがそれを断ったという話になっていたからです。
たしかに奇妙な話ですが、それでは彼らがなぜ断ったのかが大事になります。ところで、僕が彼らから聞いた理由は、一見もっともなことでした。たとえば最初の人の理由は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」で、二番目の人は「牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べているところ」だったからです。当時のことをほとんど知らない私たちなら、「それは大変、欠席も仕方ないよね」となるのかもしれませんが、このたとえ話をイエスからじかに聞いていた人たちには、とんでもないあきれた理由でしかありませんでした。
というのも、たとえば「畑を買った」人ですが、私たちは簡単に「畑を買う」と言いますが、当時はそれが人生の一大事だったからです。緑が豊かな日本ならいざ知らず、聖書の舞台の中東は耕作可能な土地が限られていたので、畑の売買もめったに行われず、手に入れたいと思ったら、何年もかけて現地を視察し、本当に耕作に適しているかチェックし、石橋をたたいて渡った末に売買契約をして支払いをしました。しかしこの人は、買った土地を今初めて見に行くと言ったものだから、イエスのこのたとえ話を聞いていた人たちは、何と間抜け!なとも思いますが、待てよこの男は大嘘をついて宴会への招待を足蹴にしたのではと思ったのでした。
さて二番目の「牛を買った」男の言い訳もあやしいものでした。彼は牛を10頭も買った。今からその牛を見に行くというのですが、牛10頭とは相当な資産家がすることでしたが、それにしても、自分はそのため大金を払ってしまったところだから、今ただちにその牛たちを点検に行かねばならない。この言い訳にも、何かうさんくさい匂いがただよっていました。
というのも、牛を持つ目的は耕作のためで、耕作に適しているかどうかは、体つきや皮膚の状態、また性質など数多くのチェック項目があったからです。お金を払ったあとで傷を見つけてもあとのまつり。買う前に時間をかけるのが常識だったのに、この男はそれをしていない。イエスの話を聞いていた人たちは、この男も愚かというよりは意図的に宴会を台無しにしてやろうという魂胆があったにちがいないと思ってしまうのでした。
なお、三番目の人間の「妻を迎えたばかり」云々は、当時の感覚では、男がけっして人々の前で口走ってはならない、卑猥で露骨なセリフでした。これを、せっかく宴会に招待してくれた主人にあてつけがましく口にすることは、主人をとんでもなく侮辱したことにほかなりませんでした。彼はこんなことをしてまで、宴会の主人の顔に泥を塗ったのでした。
さて、宴会に客を招待するにあたって、家の主人がいちばん考えることは、最も親しくお付き合いをしている人たちを招いたいということでした。気心が知れていて、楽しい会話が楽しめる者たちこそ、食事を共にするにふさわしいと考えるからです。なおこの主人の場合は、その人たちは裕福で上流階級の人間でしたが、そういうことよりも主人が大事に考えたことは、ベストフレンドを招待することでした。こうして選び抜いた招待客の誰もが断ってきたのである。ありえない、絶対にあってならないことが起きたのでした。
さて、ここで重要なキーワードが現れます。それは「主人の怒り」でした。「すると、家の主人は怒った」と書かれています。当然すぎるくらい当然だった。けれども、主人のこの怒りには、先があるのでした。
というのも、彼はここでポイントのレバーをぐいと引いたからです。すると、直進してきた怒りの汽車が、仕返しとか復讐という方面ではないもう一つの方面に向かうレールの上を走り始めたのでした。(結論を先取りしてしまいますが、このことにイエスが考える愛の神の本質が現れているのです)。
さて、どんなレールだったかというと、彼は僕に、誰でもいいから通りにいる人を家に連れて来るように命じたからでした。自分はこれから、見知らぬ人たちと食事を共にしたいのだと言ったのでした。それには、貧しい人も、体の不自由な人も、目の見えない人も、足の不自由な人もいるのだが、そういう人も誰一人排除してはならない。こうして家は客人でいっぱいになりました。めでたし、めでたし。
ところでこのたとえ話は、現実にはありえないようなことの積み重ねでした。それでも、社会的に親密な関係にある人たちが、大宴会への招待を目前にして、とんでもないことを口走り始めたことは、神の国の宴会に招待されているにもかかわらず、それに応じようとしない人間のかたくなな心の現実が描写されていたと言えるかも知れません。
しかし、それ以上に大事なことは、天国の宴会に招かれることは夢にも思ったことがない人たちが、実はそれに招かれているという神の国の現実を、イエスは語っていたのかも知れません。ところが、その人たちが招待に応じて行ってみても、優先的に招待されていたはずの人たちの姿が見当たらなかったという、もうひとつの現実をも、イエスは示唆していたと思われるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 8月4日 聖霊降臨後第11主日
説教題:二人の家造り大工
説教者:白髭義 牧師
≪暑中お見舞い申し上げます≫