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日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

罪について

2024-08-31 14:53:24 | ブログ
聖霊降臨後第14主日
エレミヤ15:15~21,ロマ12;3~21、マタイ16:21~28

主の祈り/罪について
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 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。

 さて、わたしたちは、これまで主の祈りについて考えてきましたが、もう少し続けたいと思います。そこで本日は「我らの罪を赦したまえ」を取り上げます。考えたいことは「罪とは何か」です。それは言うまでもないことかも知れませんが、イエスがどう考えていたかなのです。

 ところで、昨6月の17日、ルーテル神学校の鈴木浩先生が亡くなりました。神学者としての先生の業績はよく知られていますが、それとは別に、私には忘れられない話があります。先生は、日本ルーテル神学校を卒業したのち、再度アメリカの神学校に入学しました。その神学校で学んでいた時のことです。アメリカでも卒業論文は書かなければなりません。あるクラスメイトが質問しました。「ミスター・鈴木。あなたの論文のテーマは何ですか」。ミスター・鈴木は答えました。「わたしは罪について書きたいと思います」。それを聞いたクラスの全員が笑いました。「ミスター・鈴木、そのテーマは古い。時代遅れだよ」。
 なお、鈴木先生から聞いた話はここまででした。しかし私は興味深い話だと思っていました。なぜなら、鈴木先生がアメリカで学んでいたのも神学校ですから、クラスメイトは神学生で、やがて牧師にという人たちばかりです。しかし、そういう神学生たちが、罪をテーマに書こうとしていた彼のことを笑ったのです。しかしそれは、彼らがちゃらんぽらんな神学生だったからではなく、何か理由があると思ったのでした。

ところで、アメリカには、ウィリアム・ウィリモンという人がいます。牧師であり神学者である彼は『主の祈り』という題の本を書きました。その本で彼は、主の祈りの主語が二人称複数なのに注意をうながしました。たとえば、「われらの日ごとに糧」は「私の日ごとの糧」ではなく「われらの糧」である。「われらの罪」も「私の罪」ではなく「われらの罪」である。そこも大事なポイントだと言うのでした。
またこうも書いています。「わたしたちは罪を、個人の失敗みたいに、自分一人の事柄として理解しがちである。しかし主の祈りは、「私の罪」ではなく「われらの罪」と言う。つまり主の祈りが問題にするのは、共同で犯している罪なのである」。

さらに次のような実例で説明しています。「アメリカは、奴隷制度という実に深い傷を負い続けている国です。人種問題はいまだ未解決です。なぜなら、過去はもう変えることはできないし、その解決として白人たちが選べるのは、それを忘れてしまうことだけだからです。今までの差別があまりにも過ちに満ちていたため、もう正しいほうに向きを変えることが不可能になったほどの事態に直面している。私たちはいったい何ができると言うのでしょうか」。
ウィリモン牧師のこの考えは、罪の問題を決してあいまいにしないという姿勢の表れです。ここが、鈴木先生のクラスメイトとの大きな違いですが、ただ彼らもおそらく、子どもの時から教会で、罪についての教えは学んできたはずで、決して自分は罪びとではないと考えていなかったはずです。あえて考えるなら、ウィリモンほど突き詰めて考えてはいなかった、あるいは自分の罪はそんなに重大ではないと考えていたかな だと思うのです。

話は変わりますが、一昨日、1日は関東大震災が発生した日でした。1914年生まれの私の母は、当時9歳で、大阪の小学校に通っていました。当番だったのでしょう、授業後の教室の黒板をふき取り、その黒板にチョークを一本一本ずつ立てかけていた途中でした。そのチョークがいっせいに倒れてしまったのでした。あとで知ったのは、その日の午前11時58分に東京で起きた大地震の影響でした。
ところで、この地震発生の時に、在日の朝鮮人並びに中国人が虐殺されるという事件が起きました。地震が各地に火事を引き起こしたため、社会主義者か朝鮮人による放火のためというデマが飛びかい、そのため武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人たちを見つけ次第殺害しました。逆された者の数は、官庁の記録でさえ482人、歴史学者たちの調査では6644人と報告されています。
当時日本は朝鮮を日韓併合によって統治下に置いたため、朝鮮の民衆の反抗が激しく、当局は日本にいる朝鮮人にも警戒の目を光らせていました。日本の人たちも、朝鮮人はいつ暴動を起こすか分からないという恐怖心を抱いていました。なお、その中に中国人も含まれていたのです。だから、朝鮮人・中国人への差別意識が根強く、残虐な行為にもかかわらず、メディアは非難の声を上げませんでした。

それから百年。先週の9月1日の前後には、東京の文京区や千代田区で、朝鮮人・中国人大虐殺・キリスト者追悼集会というのがいくつか開かれました。けれども、集会の企画者にしても、参加者にしても、大震災発生の時には誰も生まれていなかったのでした。しかし、当時のキリスト教はその事件にほおかむりをしていました。朝鮮人をかくまったり、殺されそうなところを命がけで守ったキリスト者はいましたが、組織としてのキリスト教は沈黙を守り続けました。だから、百年後のキリスト者たちは、そのことと自分は無関係と思えなかったので、「我らの罪を赦したまえ」を祈る行動に出たのでした。

最後になりますが、主の祈りの原文は、マタイ6章9節以下にあります。同じ主の祈りなのですが、私たちがふだん唱えている主の祈りとは、一点だけ違いがあります。それは私たちが口にする「罪」が、マタイ福音書では「負い目」となっていることです。実はマタイのほうがイエスの教えた祈りの言葉に忠実なのです。
つまりイエスの本来の主の祈りは、「我らの負い目を赦したまえ」だったのでした。ウィリモン牧師によれば白人アメリカ人には黒人に対する多大な「負い目」があるのでした。だから、「我らの負い目を赦したまえ」と祈るべきである。これに近い思いが、大震災後百年のキリスト者にも生まれていたのだと思われるのです。
わたしたちは、「われらの罪を赦したまえ」と祈る時、まず自分個人の罪を思います。しかし、そこで終わらず、「われらの罪」という意味の広がりにも、心を向けたいと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

※当日、白髭牧師入院中のため昨年の同じ主日のものを代議員さんに代読していただきました。
次週 9月1日 聖霊降臨後第15主日
説教題:種を蒔く人
説教者:白髭義 牧師

イエスは永遠の命に至るパン

2024-08-31 14:44:08 | 日記
2024年8月18日(箴 9:1-6、エフェソ 5:15-20、ヨハ 6:51-58)
聖霊降臨後第13主日

「イエスは永遠の命に至るパン」

本日与えられた福音書の箇所は、先々週の主日(つまり、今月の第1日曜日)から福音書の日課として取り上げられている、ヨハネ福音書6章12節以降の記事の続きに当たる箇所です。これらの記事に貫徹しているテーマは、「イエスさまは、ご自身を信じる人が永遠の命に至るためのパンである。イエスさまというパンをいただく人は、永遠の命に至る」ということです。
旧約聖書の出エジプト記にも記されているとおり、モーセによって導かれてエジプトを脱出したユダヤの人々は、モーセに対して「このような荒野を歩き続けて、私たちは飢え死にしそうだ」と不満を訴えます。それを聞いた神さまは人々に対して“天からのパン”として毎朝マンナという食べ物を与えて、人々の空腹を満たしました。
イエスさまは、このマンナを食べて人々の空腹を満たした出来事を引き合いに出しながら、ヨハネ福音書の5章34節で「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と語られます。さらに、48節から50節にかけて「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは(つまり、イエスさまは)、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」というイエスさまのみ言葉が記されています。
このように、エジプトから脱出したユダヤ人の先祖たちは飢え死にしないようにマナを食べてその時々の自らの空腹を満たしてきたが、イエスさまは人々のその時々の必要を満たすのではない、人々が永遠の命を受けるために、ご自身がパンとして人々のうちに留まるよう、天の父なる神さまから地上に遣わされたのだ、と語られます。

さて、本日の日課の箇所には、それまでの箇所には出てこなかった「肉」そして「血」という言葉が出てきます。パン以上に、食事としての現実性・リアリティが与えられるような言葉です。イエスさまは、51節で「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、54節では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と語られています。
本日の日課を読みますと、クリスチャンの人々(言い換えますと、洗礼を受けている人々)は、「肉を食べる」そして「血を飲む」という表現を聞きますと、聖餐式のことをすぐに思い浮かべられるのではないか、と思います。
主日礼拝の中で聖餐式が行われる場合、牧師はまず設定として、パンを取って「これは、あなたがたのために与える私のからだである」と言われ、ぶどうジュース又はぶどう酒を取って「これは、罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す、私の血における新しい契約である」と言われます。これによって、クリスチャンは聖餐式においてイエスさまのからだとしてのパンを、そして、イエスさまの血としてのぶどう酒・ジュースをいただきます。そして、最後に配餐後の祝福として「私たちの主イエス・キリストのからだとその貴い血とは、あなたがたを永遠の命に至らせてくださいます」との祝福を受けます。
このように、聖餐式はイエスさまが最後の晩餐の中で言われたように、罪の赦しのための聖礼典として、言い換えますと、私たちがイエスさまにおいて永遠の命に至ることを神さまから目に見える形で祝福されるために、すべての教会で行われます。

本日の日課ではありませんが、旧約聖書の申命記12章23節には次のように記されています、「(主が与えられた牛や羊を屠るときに、)その血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである。」つまり、当時のユダヤ人が守っていた律法では、血を飲むことは律法に反することでした。
この律法があったために、イエスさまの話を聴いていたユダヤ人たちは、イエスさまの「わたしの血を飲む者は」という言葉に「律法に反するではないか」という強烈な拒否感を覚えたに違いありません。52節には、ユダヤ人たちが「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論した、と記されています。ユダヤ人たちはイエスさまが言われた「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」という言葉を聞いて、イエスさまご自身の(筋肉や脂肪等といった)身体の肉を食べることと受け取ってしまって、本当にそんなことができるのかと議論を始めたわけです。

このように、ユダヤ人たちにはイエスさまのたとえの表現が理解できず、彼らはイエスさまの言葉につまずいてしまいます。58節に「先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(つまり、マンナ)とは違う」というイエスさまの言葉がありますが、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖がエジプトを脱出して歩んでいる荒れ野の中でマンナという神さまからの恵みをいただいて空腹を満たしたという、目に見える物質的な意味での捉え方しかできません。目に見えるパンに心を奪われてしまっていた彼らに対して、永遠の命を受けるために本当に必要で大切なことは何か、ということをイエスさまは語られているのです。つまり、イエスさまのみ言葉がたとえた真意とその場にいたユダヤ人たちの理解との間には、大きなギャップがありました。

しかし、それでもイエスさまは“ご自身を受け入れる”ということを、「信じる」という言葉ではなく、「食べる」あるいは「飲む」という言葉で表現されました。飲食(つまり食事)は誰にとっても日常的なことであり、喜びを与えられ、特に複数の人たちで食事をするときはその喜びを分かち合う時です。イエスさまは、私たち一人ひとりの罪を赦し、永遠の命を与えてくださるために、十字架にかかられました。その血はイエスさまの十字架での犠牲を象徴していますが、「食べる」そして「飲む」行為自体は日常生活の中で覚える喜びであるはずです。

イエスさまはご自身を“命のパン”にたとえられました。そして、普段の食事と同じように、ご自身の「肉」を食べ「血」を飲む人々の内に留まることによって、十字架にかかられたイエスさまを救い主として信じて受け入れ、ご自身と一体となって永遠の命を得る、そしてそれが大いなる喜びである、と言われます。この「肉」や「血」とは、イエスさまのみ言葉そして命、つまりイエスさまの存在すべてをたとえて言われた言葉です。
聖書の表現になぞらえて言えば、私たちがイエスさまの「肉」を食べ「血」を飲むことは、イエスさまが私たちの罪の赦しのために十字架につけられた、という事実を私たちが受け入れ、私たちがイエスさまを救い主キリストとして受け入れることを指しています。これによって、イエスさまは、私たちが永遠の命を得て、同時に私たちの内にご自身がいてくださって一体となり、地上だけでは終わらない、ご自身と共に歩む永遠の命を与えられるのだ、と語られます。
このイエスさまの言葉に励まされて、私たちは新しい毎日をイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。(信徒説教者:田村圭太)

次週 8月25日 聖霊降臨後第14主日
説教題:罪のゆるし
説教者:代読(白髭牧師コロナの為)