日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

6月2日

2024-06-04 11:27:09 | 日記
申命記5:12~15、コリントⅡ4:5~12、ルカ18:1~8
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月2日(日)

「イエスと女性たち―その6」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、本日は「イエスと女性たち」の6回目ですが、ルカ18章の「やもめと裁判官のたとえ」を取り上げます。これはイエスのたとえ話ですが、深刻な社会問題が背景にあったことがあとで明らかになります。
たとえ話はこう始まっていました。「ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた」。それだけでもとんでもない裁判官ですが、もう少し見てゆきます。
さてイエスの時代には、裁判所という建物はありませんでした。町で何か裁判の必要が生じたら、広場にその場が設けられ、町の有力者が居並ぶ前で裁判が行われました。けれども、これだけは法律に精通している人間が必要ですから、裁判官の任務が果たせる人材もあらかじめ決まっていました。

 ところで、旧約聖書では不正な裁判がよく問題になります。裁判は本来公正であるべきでしたが、なかなかそうはならないみたいでした というのも、裁判は利害関係上の争いが取り扱われるからで、しかもどの町にも金持ちがいて、貧乏人がいました。強い人が弱い人と争えば、弱い人が裁判で勝つことは難しかったからです。
どういうことかというと、世間では賄賂が幅を利かせていたからです。だから、お金がたくさんある人は、前もって裁判官にお金を握らせ、自分に有利な裁判になるよう画策したからです。でも貧しい人はお金自体がありませんから、大半が泣き寝入りする。それがフツーという現実になっていたのでした。
だから、預言者イザヤはこう言ったのでした。「善を行うことを学び、搾取する者を懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ(1:17)」。これは、裁判官向けの言葉でした。つまり、賄賂を渡せない人の身になって裁け・・・。
ところで、本日の裁判官がいかなる人物だったかは一目瞭然です。なぜなら、やもめがひんぱんに彼の所に通ってきたからです。裏返せば、彼女はこの裁判官に賄賂を渡していなかった、否渡せなかったのでした。渡せば何度も来る必要はなかったからです。渡せないやもめは間違いなくどん底生活をしている女性でした。そして、イエスはそのような女性たちにふだん関心を寄せていたのでした。

ところで、彼女と対照的な人物がいました。それは彼女が裁判官に「相手を裁いてください」と要求したその「相手」でした。つまり、彼女はこの「相手」と裁判で争おうとしていたのでした。ということは、その相手とは、裁判官に賄賂を渡せる人、あるいはすでに渡している人なのでした。
ところで当時は、夫に先立たれた女性が非常に多く、社会問題になっていました。なお、やもめが多い理由の一つとして考えられることは、夫と妻の年齢の大きな開きがありました。たとえば、イエスの母マリアの夫のヨセフは、彼女には父親みたいな年齢だったと言われています。現に彼は、イエスの子ども時代に死んでいます。だから、マリアはやもめになって子育てをしたのでした。

さてマリアのことはさておくとして、やもめでも、男の子を産んでいればラッキーでした。なぜなら、その子は成人して亡き父の遺産を何らかの形で相続する権利を認められていたからです。それと、母子は夫の実家に留まる権利もありました。
ところが、男の子を残せなかった女性は、夫の死後はすぐ家から出るか、追い出されるかしました。そしてその先には二つの道がありました。一つは、自分の生家に戻って、再婚話が来るのを待つことでした。それは社会的にも推奨された方法でした。しかし、残りの一つは、もう丸裸で生きることでした。なぜなら、生家では両親も死んでいて、身内も彼女を拒否したからで、ひとりぼっちだったからです。
けれども当時の法律は、そのような気の毒な女性を救済する措置を定めていました。つまり、彼女は夫の実家から夫の遺産相続分の名目でと何がしかの支払いを受けることが出来るという定めがあったからです。やもめが餓死するようなことがあってはならないという法の精神がそこには働いていました。ところが、実際には経済的ピンチにあるやもめたちは後を絶たないのでした。

というのも、支払いを拒んでいる元夫の実家が非常に多かったからです。実家がそれを平気で出来た理由は、相手が女だったからでした。この実家を代表していたのは親族でした。もちろん男たちです。それに対して彼女には、守ってくれる男性も裁判で弁護に立ってくれる男性もいなかったのでした。
つまり彼女が「相手を裁いてください」と叫んだのは、いつまで待っても支払われる気配がないので、裁判に訴えるために裁判官のところに通っていたのでした。しかし彼は、賄賂も持ってこれないやもめは虫けら同然と見ていたのでした。ところが、そのような彼に変化が生じた。というのも彼は、「あのやもめはうるさくてかなわないから、裁判をしてやろう」と心に決めたからです。
たとえ話自体はここで終わっていました。彼女にとっては良い結果でしたが、しかしイエスは、この男は今後も「神を畏れず、人を人とも思わない」裁判官であり続けるのだという現実を見据えていたのでした。
ところで、イエスはこのたとえ話をするのは、いかなる現実にあっても、気をおとさずに絶えず祈るべきことを教えるためだと言っています。たしかに。裁判官や親族たちは、彼女がこれからも気を落とすタネであり続けるのでしょうが、それでしょげかえって泣き崩れるタイプの女性としてはたとえ話は語らなかったのでした。それは、イエスの周りに集まってきた女性たちが、やはりそのようなタイプに生まれ変わっていたからだと考えて、間違いなさそうなのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次週 6月9日 聖霊降臨後第3主日
説教題:イエスと女性たち ―その8
説教者:白髭義 牧師
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