日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

6月16日

2024-06-20 16:08:37 | 日記
エゼキエル17:22~24、コリントⅡ5:6~10,14~17、ルカ10:25~37
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月16日(日)
「イエスのたとえ話―その1
善いサマリア人①」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 今週から、イエスの色々なたとえ話を取り上げながら、そこにあるメッセージを考えてゆきたいと思います。そこでまず取り上げるのは、ルカ福音書10章の「善いサマリア人」です。なお、このたとえ話は2回以上に分けて考えます。
ところで、今読んだのは、ルカ10章の25節から29節までで、たとえ話の直前まででした、けれども、この箇所で、イエスがなぜたとえ話を話したのか?の理由が分かります。ある律法の専門家がイエスに、どうすれば永遠の命を自分のものに出来るかと質問したからでした。

なお、律法学者は並の人と違って、聖書を知り尽くしている学者でした。とうぜん永遠の命も知っているので、この質問はあくまでイエスを試すためでした。しかしそれを見抜いたイエスから「その答は聖書にはどう書かれているか」と逆質問されたので、律法学者は、神を愛し、隣人を愛せよと書かれていますと返事をしたのでした。するとイエスは、「正しい答だ。それを実行しなさい」と言った。さて、律法学者はここでやめておけばよかったのに、むきになって「では、わたしの隣人とはだれか」と食い下がった。これが彼にとって命取りになるのでした。

ところで話は変わりますが、本日お配りした可愛い絵があるプリントはこどもさんびかのコピーです。この楽譜の上にある大きな字の「ウリエイウッソン」が歌の題なのです。これはごらんのように韓国語の歌ですが、「ウリエイウッソン」の意味は「わたしの隣人はだれですか」です。なお、プリントの半分は歌の歌詞になっていますが、韓国語のハングル文字の歌詞と日本語の歌詞(翻訳)が並んでいます。
なお、これは二日市教会でも使っている『こともさんびか』という歌集に載っているものです。日本語のこどもさんびかに外国語が印刷されるのは珍しいのですが、今の時代の反映かも知れません。なお、ハングル文字の発音の仕方は五線譜の間を見ればわかります。そこに記されるカタカナが発音の仕方だからです。
そこを少しだけ朗読します。「ウリエイウッソン」。すなわち「となりびとはだれでしょう」。この言葉で始まるこの歌は、「わたしの隣人とは誰ですか」と言った律法学者と肩を並べ合っています。子どもさんびかはそれに続いて、「みんなともにさがそうよ」と声をかけあいながらうたい出すのですが、とにかくこの歌は、「善いサマリア人」の歌なのです。子どもたちはこのあと、「弱く貧しいお友だち、病んで苦しむ人たちもとなりびと」と展開してゆくからです。もしこの場にイエスがいたら「正しい答だ。それを実行しなさい」と言ってもらえることでしょう。そこで子どもたちはさらに踏み込んで、「みんなともに考えよう。つらいことも共にして、小さいことも信じあう」。そんな隣人になりましょう。と歌いあげてゆくのです。

 ところで、ハングルと日本語が併記のこのこどもさんびかですが、最初は在日大韓基督教会の教会学校の韓国語こどもさんびかに載っていました。ところがそのあと、日本のキリスト教も日本の子どもたちのさんびかにも載せることにしたのでした。けれども外国の歌を日本に紹介する時は、たとえば「もろびとこぞりて」や「きよしこのよる」はその日本語訳は載せましたが、原語まで載せることはしたことがありませんでした。ところが、「となりびとはだれでしょう」は韓国語の原語までも紹介したのでした。しかも子どもたちに、です。
 これはすばらしい試みでした。なぜなら、朝鮮半島の民族と日本人の間にはずっと不幸な歴史があって、特に心ある日本人はそれを負の遺産として受け継いできているからです。しかし、このように両国間の言葉の壁をたくみに乗り越えて、わだかまりさえも乗り越えてイエスの教えを分かち合えたら、これからの新しい世代への相互理解の橋渡しの一助となりうるのではないかと思うのであります。

 ところで話はあの律法学者に戻ります。彼もまた、子どもたちと同じように、「わたしの隣人とはだれですか」と言いました。けれどもそれを言ったのは、天においては神への、地においては隣人への愛ですと、イエスの前で明言した直後でした。そしてその瞬間、イエスは律法学者の本音を見抜いたのでした。
 さて、「では、私の隣人とは誰ですか」は、イエスに対する開き直りでした。なぜなら彼は、イエスの愛の教えにかねがね警戒心を抱いていたからでした。なぜなら、イエスは愛に関しては無防備で、敵も味方もない、どのような人をも区別しない、差別を心から嫌っていると見ていたからです。
 それに対して、律法学者は愛つまり人間関係には厳格な線引きが重要と考える人間でした。つまり、その線の内側の人間を徹底的に愛することが正しい隣人愛であると考えていたからです。ということは、線の外側の人間との区別も厳格に守らないと、けじめがつかなくなるという考えでした。
 だから彼がイエスに「私の隣人とは誰ですか」と聞いたのは、この人間は隣人、この人間は非隣人のような仕分け・色分けをしないと気が済まなかったからなのです。しかしこれは、子どもたちの「ウリエイウッソン」とは根本的に違っていました。そしてイエスは、律法学者の問題点を念頭に「善いサマリア人」のたとえを語ったのでした。次回引き続きこのことを考えたいと思います(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次週 6月23日 聖霊降臨後第第5主日
説教題:イエスのたとえ話 善いサマリア人②
説教者:白髭義 牧師
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