日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

6月9日

2024-06-13 12:10:18 | 日記
「創世記3:8~15、コリントⅡ4:13~5:1、マタイ25:1~13
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月9日(日)

「イエスと女性たち―その7」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
これまで「イエスと女性たち」という題で考えてきましたが、本日が最終回になります。今回は、イエスと女性たちと言っても、これまでとは違った角度から検討してみたいと思います。取り上げるのはマタイ福音書25章の「十人のおとめ」です。
なお、「十人の乙女」は西欧の画家たちがとても好んで、作品にしてきました。そのひとつですが、英国のロンドン・テート・ギャラリーという美術館に、ウィリアム・ブレイクという人が書いた十人の乙女の絵があります。なお、ブレイクがその絵につけた題は『貞淑な乙女たち』ですが、この題は考える価値がありそうです。ところで、ブレイクは美術愛好家には有名な画家とは言えないかも知れません。世界人名事典によると、ウィリアム・ブレイクは「生涯狂人扱いにされて」いたのだそうで、それでも「大胆な自由思想と神秘的な宗教思想が渾然一体化している数々の不滅の傑作を残した」と書かれています。なお、彼は詩人としても知られています。

さて、ブレイクのその絵ですが、左側に立っている五人の賢い乙女がいます。スラリとしたいわゆる美人たちですが、表情に温かみは感じられません。それに目も、泣き崩れる友人たちには向けられておらず、遠いかなたを見ている感じです。
ところが、右側の五人の愚かな乙女ですが、激しく嘆き悲しみ取り乱しています。ただ、顔の表情は観る者に親近感のようなものを抱かせる描き方になっているのです。なお、ブレイクの絵のことはあとでまた考えます。

ところで、イエスのたとえ話、「十人の乙女」はこんな内容でした。……あるところに、これから婚宴を開く家があった。家の息子が結婚したからだが、これから彼は花嫁を家に連れてくるために、彼女をその実家に迎えに行こうとしていた。
さて、当時の慣わしだったが、花嫁は花婿の実家まで花嫁行列をすることになっていて、その行列には彼女の友人たちが付き添うことになっていた。なお、これらのことは全て日没後に行われたので、友人たちは夜間照明用のランタン(角灯)を持参していた。あとは花婿の到着を待つのみだったが、その到着がひどく遅れていたため、十人は全員眠りこけてしまった。
ところが、真夜中に、花婿到着を知らせの声がした。彼女たちは飛び起き、出迎えに行こうとしたが、十人の内の五人の愚かな乙女は、ランタン用の油の予備を忘れたことに気がつき、五人の賢い乙女に、油を分けてほしいと頼んだが、断られた。彼女たちもぎりぎりしか持っていなかったからである。
そうしているうちに行列は動き出し、賢い五人の娘たちはその列に連なった。しかし愚かな娘たちは、油を分けてくれる人をさがしていたため、婚宴の家に来た時はもう始まっていた。
さて、このあとですが、戸が彼女たちの目の前で閉ざされ、家から彼女たちに対する拒絶の声がしてきた―と書かれています。しかし、そこは本来のイエスのたとえ話にはなかったと考えてかまいません。なぜなら、必死の思いで油を入手し、息も切れ切れに走ってやってきた彼女たちが非情にも拒絶されるという話の終わり方は、イエスの流儀にはまったく合わないからです。

それから、まだ問題があります。なぜなら、当時の中東地域の家屋は、本日の新郎の家も含めて、外部から遮断される仕切り、つまり塀も垣根もなかったからです。だからわが国の武家屋敷のような門も入口もなくて、地元の人間は自由に出入りが出来たからです。それに、この夜はまた特別めでたい婚礼の晩ですから、遅かろうが何だろうが、やって来る人間は誰でも大歓迎を受けるのでした。だから、彼女たちが拒絶されるなんて、まったくありえないことだったからです。

そういうことなので、本日の話の最後にある主人の拒絶は、あとでキリスト教関係者が終末に来るキリストの言葉として理解すればよいのです。婚宴を心の底から楽しんでいた人たちのことを思えば、それはなおさらなのです。
ところで、聖書学者の山口里子はこう書いていました。「乙女とは適齢期の若い女性を指す言葉だった。女性は12歳で結婚可能と考えられていた。このたとえ話の乙女たちは、12歳か13歳ぐらいの女性が想定されていたことだろう。なお、彼女たちにとって、友人の結婚式は自分を共同体の人々にアピールできる絶好のチャンスだった。美しいだけではダメで、大事な行事での役目を卒なく果たせていることを見てもらえる機会なので、誰もが真剣だった」。
つまり、イエスはそういう女の子たちをたとえ話の主人公にしていたのでした。そして、そういうたとえ話を聞いていたのは、同じ年頃の子どもたちがいる親の世代だったので、彼ら・彼女らも興味深く聞いていました。だから、悲惨な目に遭う娘たちの話などイエスがしたなんて、とうてい考えられないのであります。

ところでここで、ブレイクに戻ります。彼の絵の女性たちは12~Ⅰ3歳にしてはあまりにも大人すぎます。それは大目に見るとして、ブレイクはきれいだけどツンとしている賢い乙女たちと、支離滅裂で大騒ぎをしている愚かな乙女たちを描き分けているのですが、絵の題を『貞淑な乙女たち』にしたのでした。つまり、十人は誰もが貞淑な乙女なのでした。貞淑なのかどうかはよくわかりませんが、彼は聖書、あるいはイエスに逆らって、人を賢いとか愚かとかに分け隔てするやり方に異を唱えていたのかもしれないのであります。

ところで、このたとえ話が、大人にとってはどんなメッセージだったかも考える必要があります。そのポイントは、花婿の到着がひどく遅れたことにあるのです。なぜなら、そのために十人全員が、例外なく眠りこけたからです。そして、イエスはそのことは責めていません。そのこと自体は失敗かも知れないが、失敗は誰の人生にも付き物だからです。むしろ、長い時間眠りこけてはいたけれども予備の油が確保されていたか、されていなかったか。あなたはそのどちらに属する人間だろうか。これがイエスの問いかけなのでした。
つまり、愚かな乙女たちも、長く眠れたくらい時間がたっぷりあったのですから、その時間を活用して油を手に入れてくることは、少しもむつかしいことではなかったはずだ。それが問題点なのでした。
ところで、イエスがたとえ話で言うその「油」とは何だったのか。それは自分自身の問題として、各自考えるようにとイエスは教えていたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 6月16日 聖霊降臨後第4主日
説教題:イエスのたとえ話 その1
説教者:白髭義 牧師
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