二日市教会主日礼拝説教 2023年11月12日(日)
聖霊降臨後第24主日
アモス5:18~24,Ⅰテサ4:13~18,マタイ25:1~13
「クリスマスの起源」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
今年のクリスマスは、12月3日のアドベント第一主日の日曜日から始まります。少し早いかも知れませんが、私たちもクリスマスのことを考えてみたいと思います。
ところで、クリスマスの話は聖書にもとづいています。受胎告知にしても馬小屋での誕生にしても、福音書に書かれているからです。ところが、それらは全部マタイとルカに書かれていて、マルコやヨハネにはありません。つまり、福音書にはクリスマスがあるのと無いのとに分かれるのです。
さて、クリスマスはそうなのですが、受難物語、つまりイエスの死と復活の話は全福音書にあります。つまりクリスマスがなくても問題にならないのですが、受難物語がなかったら大騒ぎになるからです。
そのことを念頭に、話を進めたいと思います。さて、マルコにはクリスマスがなくて、ルカ、マタイにはありました。それはなぜなのかを考えてみたいのです。なお今回はヨハネを除外し、次回で考えます。そこで残るのは、クリスマスが無いマルコと、有るマタイ・ルカになります。ではなぜそうなったのか。それを考えるには、それぞれの福音書がいつ出来たかを調べる必要があります。そして結論を言うと、歴史上で一番最初に書かれた福音書はマルコで、その次にマタイ・ルカがほぼ同時に書かれました。そして、マルコが書かれた時代にはクリスマスはあまり問題ではありませんでした。ところが、マタイ、ルカが書かれるようになった頃には、クリスマスが急速にクローズアップされるようになっていたのでした。
つまり、二つの時代の間には大きな変化があったのでした。その変化とはグノーシス主義という思想の出現と蔓延でした。ところでこのグノーシス主義についてはキリスト教の学校の授業の教科書にも書かれています。すなわち、「グノーシス主義は初期のキリスト教にとっては最大の敵であった」。またさらに、グノーシス主義の基本的考えは「肉体や物質は悪である」だった。それがキリスト教と結びついて、「悪である物質を創造した旧約聖書の神は新約の神より劣る」となり、さらに「イエス・キリストは天から下った善なるお方であるから、悪である肉体を取ることは不可能だ。」という考えもなりました。しかし、そうなると人間の救いはどうなるのかですが、グノーシス主義はこう教えたのでした。すなわち、悪である肉体を持つ人間は、天からやってきたキリストと交わり、そのことですごい力が与えられ、悪なる肉から解き放たれ、天へと上ってゆける。
教科書にはここまで書かれていました。しかし、その先も必要です。なぜなら、グノーシス主義の教えに魅惑され教会から離れていった人たちがたくさんいたからです。それでは困りますから、教会側も対抗策を考えてグノーシス主義と戦いました。そしてその際武器として用いられたのが「クリスマス」だったのでした。言い換えるなら、そういう時期に書かれたのがマタイとルカだったのでした。ということは、クリスマス物語がこの世に登場したのは、グノーシス主義が盛んだった時期なのでした。
しかし、それにしても、それが戦いの武器として十分だったのか。なぜなら、福音書に書かれたクリスマスは、父親が不明な子どもを産んだ田舎娘の話だったり、悪臭に満ちている家畜小屋で生まれた赤ん坊の話だったりで、知性と教養を好む大都会のグノーシス主義者たちの目には、いかにもダサい話に映ったかもしれないからです。しかし、すべては歴史が証明しました。やがて多くの人が、そのダサい話の福音書を受け入れ、グノーシス主義は日に日に衰えていったからです。
ところで、グノーシス主義とキリスト教の対立点はこうでした。グノーシス主義者たちは、神が人となれば、その悪に染まるので救いは不可能だと言いました。それに対してキリスト教徒は、人間がその深みに沈み込んでいる罪の中に神の子が入ってきたからこそ本物の救いが実現したのだと言いました。
ところで、先ほどの教科書にはこうも書かれていました。「現代のキリスト教の教えは、先人たちが厳しい試練に打ち勝った結果のものである。ところで、今の社会でのキリスト教は、どのような試練に向かい合わなければならないのだろうか」。もちろん、ライオンの穴だけが試練ではありません。思えばグノーシス主義は、当時の知識人たちに人気がある思想でした。しかし、その思想もよくよくながめてみれば、人生の現実からいかに上手に逃げだすかを教えていたにすぎませんでした。ただ、そういう意味であれば、現代のグノーシス主義もありえるのではないかと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次回11月19日聖霊降臨後第25主日
説教題: 「 降誕② ヨハネのクリスマス 」
説教者: 白髭義牧師
聖霊降臨後第24主日
アモス5:18~24,Ⅰテサ4:13~18,マタイ25:1~13
「クリスマスの起源」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
今年のクリスマスは、12月3日のアドベント第一主日の日曜日から始まります。少し早いかも知れませんが、私たちもクリスマスのことを考えてみたいと思います。
ところで、クリスマスの話は聖書にもとづいています。受胎告知にしても馬小屋での誕生にしても、福音書に書かれているからです。ところが、それらは全部マタイとルカに書かれていて、マルコやヨハネにはありません。つまり、福音書にはクリスマスがあるのと無いのとに分かれるのです。
さて、クリスマスはそうなのですが、受難物語、つまりイエスの死と復活の話は全福音書にあります。つまりクリスマスがなくても問題にならないのですが、受難物語がなかったら大騒ぎになるからです。
そのことを念頭に、話を進めたいと思います。さて、マルコにはクリスマスがなくて、ルカ、マタイにはありました。それはなぜなのかを考えてみたいのです。なお今回はヨハネを除外し、次回で考えます。そこで残るのは、クリスマスが無いマルコと、有るマタイ・ルカになります。ではなぜそうなったのか。それを考えるには、それぞれの福音書がいつ出来たかを調べる必要があります。そして結論を言うと、歴史上で一番最初に書かれた福音書はマルコで、その次にマタイ・ルカがほぼ同時に書かれました。そして、マルコが書かれた時代にはクリスマスはあまり問題ではありませんでした。ところが、マタイ、ルカが書かれるようになった頃には、クリスマスが急速にクローズアップされるようになっていたのでした。
つまり、二つの時代の間には大きな変化があったのでした。その変化とはグノーシス主義という思想の出現と蔓延でした。ところでこのグノーシス主義についてはキリスト教の学校の授業の教科書にも書かれています。すなわち、「グノーシス主義は初期のキリスト教にとっては最大の敵であった」。またさらに、グノーシス主義の基本的考えは「肉体や物質は悪である」だった。それがキリスト教と結びついて、「悪である物質を創造した旧約聖書の神は新約の神より劣る」となり、さらに「イエス・キリストは天から下った善なるお方であるから、悪である肉体を取ることは不可能だ。」という考えもなりました。しかし、そうなると人間の救いはどうなるのかですが、グノーシス主義はこう教えたのでした。すなわち、悪である肉体を持つ人間は、天からやってきたキリストと交わり、そのことですごい力が与えられ、悪なる肉から解き放たれ、天へと上ってゆける。
教科書にはここまで書かれていました。しかし、その先も必要です。なぜなら、グノーシス主義の教えに魅惑され教会から離れていった人たちがたくさんいたからです。それでは困りますから、教会側も対抗策を考えてグノーシス主義と戦いました。そしてその際武器として用いられたのが「クリスマス」だったのでした。言い換えるなら、そういう時期に書かれたのがマタイとルカだったのでした。ということは、クリスマス物語がこの世に登場したのは、グノーシス主義が盛んだった時期なのでした。
しかし、それにしても、それが戦いの武器として十分だったのか。なぜなら、福音書に書かれたクリスマスは、父親が不明な子どもを産んだ田舎娘の話だったり、悪臭に満ちている家畜小屋で生まれた赤ん坊の話だったりで、知性と教養を好む大都会のグノーシス主義者たちの目には、いかにもダサい話に映ったかもしれないからです。しかし、すべては歴史が証明しました。やがて多くの人が、そのダサい話の福音書を受け入れ、グノーシス主義は日に日に衰えていったからです。
ところで、グノーシス主義とキリスト教の対立点はこうでした。グノーシス主義者たちは、神が人となれば、その悪に染まるので救いは不可能だと言いました。それに対してキリスト教徒は、人間がその深みに沈み込んでいる罪の中に神の子が入ってきたからこそ本物の救いが実現したのだと言いました。
ところで、先ほどの教科書にはこうも書かれていました。「現代のキリスト教の教えは、先人たちが厳しい試練に打ち勝った結果のものである。ところで、今の社会でのキリスト教は、どのような試練に向かい合わなければならないのだろうか」。もちろん、ライオンの穴だけが試練ではありません。思えばグノーシス主義は、当時の知識人たちに人気がある思想でした。しかし、その思想もよくよくながめてみれば、人生の現実からいかに上手に逃げだすかを教えていたにすぎませんでした。ただ、そういう意味であれば、現代のグノーシス主義もありえるのではないかと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次回11月19日聖霊降臨後第25主日
説教題: 「 降誕② ヨハネのクリスマス 」
説教者: 白髭義牧師