美容院を出てすぐに時計を見た。午後1時を少し過ぎていたが、ほぼ予定通り。それでも少し早足で、私は次の目的地に向かった。
雨雲ではないが、薄鼠色の雲が空全体を覆っていて、五月晴れらしい抜けるような青空はどこにも見当たらない。3連休最後のこどもの日だというのに惜しい天気だった。
でも、久しぶりに髪全体にストレートパーマをかけて、仕上げに毛先を緩く内側に巻いてもらったヘアスタイルが気に入って、私の気持ちは弾んでいた。もちろん、気持ちがフワフワと浮き立っているのは、微風をはらんで揺れる髪だけが理由ではないけれど。
途中、お気に入りのセレクトショップの前を通り掛かった。店のウィンドウに映る自分の姿をちらりと見る。去年の秋口にバッサリ短く切った髪は、ようやく肩先まで伸びて、最近はシュシュで結ぶことが出来るまでになった。ショップには夏物の新作が並んでいたが、あいにく今は立ち寄って買い物を楽しむ余裕はない。今日は、その先の信号を渡った所のスーパーマーケットに用がある。
信号が青に変わるのを待ちながら、私は今日のメニューに必要なものを、頭の中でもう一度リストアップした。
彼から電話がかかってきたのは、実家から戻ってきたばかりの昨日の夜中だった。
―おまえ、いま実家?
「ううん、さっき帰ってきた。金曜日、仕事だし」
―そっか。明日は何するん?
「明日?特に予定ないから家にいると思うけど……」
言ってから思い出した。
「あっ、お昼は『ヒルナンデス』見るよ」
―その『ヒルナンデス』終わった後なんやけど、そっち行ってもかまへん?
「私はかまへんけど。時間あるの?」
―レコメンまでずっと空いてんねん。
それじゃあ来れば?待ってるからと電話を切ってから、もうすぐ彼の誕生日だということを思い出した。もちろん、プレゼントは用意してある。連休前、クライアントの仕事に付いて行ったロサンゼルスで買ってきたTシャツ。
現地滞在わずか2日間という強行スケジュールの中、仕事場所が目当てのショップに近かったことと、クライアントも興味を持っていたブランドだったことが幸いだった。
ちょっと早いけど、明日渡しちゃおうかな。今の彼の仕事のスケジュールだと、渡すタイミングを逃しちゃうかもしれないし。でも、家に来た彼にプレゼントを渡すだけというのも何だかなあ……
というわけで、ちょっと手間暇かけて、手料理を振る舞うことにしたのだ。
家に着くと、スーパーで買った食材をキッチンに置いて、私はテレビのスイッチをつけた。
番組は、ちょうどエンディングの真っ最中だった。彼のために番組が用意したバースデーケーキを横目に、スタジオからここに来るまでにかかる時間を気にしながら、私は調理に取りかかった。
まず、下ごしらえにアスパラガスの皮を削いで、ベーコン、じゃがいも、玉ねぎを細かく切りながら、小鍋に湯を沸かして、アスパラガスを軽く茹でる。
番組が終わったのをきっかけに、テレビからCDに切り替えた。コンポから流れるaikoの歌のリズムにのって、大きめのボールに豚の挽き肉、生卵、刻んだベーコンを入れ、そこに塩、胡椒、薄力粉を混ぜ合わせ、さらに牛乳を少量ずつ加えながら、ハンバーグのタネをせっせと作る。出来たタネを大きなスプーンですくって、熱したフライパンの上にふわりと落として形を整えた。
ハンバーグに焼き色がつくまでの間、パスタの準備を始める。ブラウンとホワイト、2つのマッシュルームを加えたスパゲティーニ・アッラ・ジェノヴェーゼ。スパゲティより細麺のスパゲティーニに絡めるバジルソースは、以前にイタリアの惣菜専門店で買った。自分で作るよりずっと美味しいし、これを混ぜるだけでプロの味に変わるので重宝している。
パスタを茹でる前にハンバーグの仕上げにかかった。ひっくり返したハンバーグを弱火でじっくり加熱している間に、じゃがいも、玉ねぎを炒め、玉ねぎが透き通ってきたタイミングで、茹でたアスパラガスを加えて、塩と胡椒で味付ける。
盛り付け用に、食器棚から備前焼の大きな皿を引っ張り出した。
あれは、去年のソロコンサートが終わった後だったか。
4月から始まったツアーの間、彼とは電話でよく話をしていたのだけれど、5月のあの日を境に彼との連絡が途絶えた。ツアーが終わった後も音沙汰がなく、誰もが知り得る情報しか入ってこない。
まだ電話で話す程度の付き合いしかしていない彼のプライベートにどこまで立ち入っていいのか迷いながら、気持ちだけは伝えたくてメールした。返事は来なかった。
頼りにもされない、心の支えにもなれない、彼にとって私はどういう存在なんだろう……まるで底無しの深淵を覗いている気分のまま、時間だけが淡々と過ぎていく。
ようやく彼から連絡がきたのは、梅雨入りの声を聞いた頃だった。梅雨の晴れ間に恵まれた休日の午後、久しぶりに彼と会った。
「ここ来る途中、骨董市やってたけど、ちょっと見に行かん?」
骨董なんかにまったく興味がなさそうな彼が珍しいことを言うと思ったけれど、もしかしたら気を使ってくれているのかもしれないと、二つ返事でいいよと答えた。
近所の商店街の空き店舗を利用して開かれていた骨董市には、日常で使えそうな食器から高価そうな掛け軸やインテリアまで所狭しと並んでいた。
店内をひやかしながら一回りした私たちは、食器が置かれた一角でなんとなく立ち止まった。彼が茶碗を一つ手にとって、その値段を見て目を丸くした。
「なにこれ、茶碗1コでこんな値段ついてるで」
「古伊万里だからじゃないの」
「骨董ってすごいな」と言いながら、彼はなぜか真剣に茶碗を物色し始めた。
私は周りを見回して、ふと目に付いた備前焼の大皿を手に取った。素朴な風合いになんとも言えない味わいがある。ただ、一人暮らしの身には不要な大きさだ。それでも迷って眺めていると、「なあ」と彼が横に立って、渋い焼き色の大ぶりの茶碗を差し出した。
「これ……」
「え?」
「おまえんとこ、置いといてええか、俺用に」
始めは彼が何を言っているのか、分からなかった。ぽかんと口を開けた私を見て、イエスと解釈したわけではないだろうが、彼は私の返事を待たずに、私が持っていた大皿を取り上げて
「これも一緒に買っとくわ。刺身とか乗せたら旨そうやもんな」
そう言って、皿の値段も確認しないで会計に行ってしまった。
私の部屋の食器棚に、彼の茶碗。
それは、私たちの関係を少し先に進めてもいいという彼の気持ちの表れなのか。彼がはっきりと言葉にして言わない分、私の心はまだ不安定に揺れていた。そこへ支払いを終えた彼がニコニコしながら戻ってきた。
「びっくりしたぁ、俺の茶碗の方が高かったわ」
「いくらしたの?」
彼は首を横に振った。「言わん」
「言ってよ。どれくらい取り扱いに気を使えばいいのか気になるじゃない」
「いや、言わん」
彼は笑うばかりで、結局、値段は教えてくれなかったけれど、そのあと刺身の盛り合わせを買って帰り、備前焼の大皿と、彼専用の茶碗をさっそく使った。
そして、最初から2人の間で決まっていたことのように、どちらから言い出すわけでもなく、いとも自然な流れで、私たちは初めて、一晩を一緒に過ごした。そこに確かな言葉はなくても、私の中で渦巻いていた不安のかけらは、彼を受け入れたことでいつしか消えていた。
あれから何度となく使った大皿は、ここ1年の間に少しずつ色目が変わり、さらに風合いを増している。付け合わせの野菜炒めを敷いてその上にハンバーグを盛った。
茹で上がったスパゲティーニにバジルソースを絡めて色づけし、それから炒めたマッシュルームを軽く混ぜ合わせて、パスタ皿にそれぞれ盛り付ける。
最後に、オーガニック野菜でサラダを作っている所に、「なんや美味しそうな匂いがするぅー」と言いながら彼がやって来た。
「うっわ、これハンバーグやん。てか、なんでaikoちゃんの曲流してんの?」
料理するのにちょうどリズムが合うのよ、と言い訳しながら冷蔵庫を開けた。
「ビール……じゃない方がいい?このあと仕事だし」
「ええよ。まだ時間あるし。もしアカンかったら全部ヒナにしゃべらせるから」
「もうすぐ30歳になる人の発言とは思えないなあ」
美奈子に教えてもらったオリジナルのフレンチドレッシングをサラダにかけて、缶ビールと一緒にテーブルに持っていった。
「おまえの料理、久しぶりやな。どしたん?」
「ああ……いちおう誕生日祝い、のつもり……」
「ホンマに?ありがとうな」
「ゴメン、ケーキは用意してないんだけど」
「ええって。ケーキばっか食ってたら、俺、ぽっちゃりしてまうで。おまえ、そんなん嫌やろ」
体型のことを言うなら、ビールもどうかと思うけどね、と私は心の中で苦笑しながら、缶ビールを開けて祝杯をあげた。
ヒルナンデス、見てる? 録画して見てるよ。 なあ、ハンバーグにはパスタじゃなくて、白いごはんが鉄板やで。ごはんじゃ誕生日って感じしないもん……たわいもない会話を交わしながら、私たちは1時間もしないうちに完食した。
「てか、なんでこんなハンパな時間にガッツリ食うてんねん、俺ら」
ソファーの上で猫のようにゴロゴロ横になっている彼のお腹の上に、私はプレゼントの包みを置いた。
「え?プレゼント?」
こういう時、彼は抱きしめたくなるほど可愛い笑顔になる。起き上がって、ニコニコしながら包みを開ける彼の隣に座って言った。
「ロサンゼルスで買ってきたんだけど、気に入ってくれたら嬉しいな」
Tシャツを取り出しながら、彼は驚いた顔で私を見た。
「ロサンゼルス?アメリカの?」
アメリカ以外のロサンゼルスってあるのかな?
「いつ行ったん?俺聞いてへん」
「連休前。あ、でも仕事だよ。現地にいたのはたった2日間だし」
「じゃあ、これ仕事中に買うてくれたん?」
「仕事中というか仕事の合間ね。あのね、たまたまクライアントの社長も行こうと思ってたショップだったの。で、じゃあ一緒に行こうよって」
「社長?男?」
「うん」
「若いん?」
「さあ、そんなん聞いたことないけど、30代かなあ」
「独身?かっこいいん?」
私は彼の手からTシャツを取り上げた。
「もう、一生懸命探してきたのに、なんでヤキモチ妬く?」
「アホか、ヤキモチなんか妬いてへんわ」 と言って、私の手からTシャツを奪い返した。
「俺、そんなヤキモチとかめんどくさいことせえへんもん」
「じゃあ、変なこと聞かないでよ」
「それは。興味があるからちょっと聞いただけやろが……」
言葉尻がデクレッシェンドの見本みたいに弱くなっていく。手にしたTシャツに視線を落としている彼は、今にもシャツに頭だけ突っ込んで隠れようとしているみたいに見える。意地悪な質問を振ってみた。
「男の人が独身か、かっこいいか、そんなんに興味あるの?」
「ない」
ふてくされた口元が可愛いらしくて、その唇に触れたくなって、だけど唇じゃなくTシャツを手にして彼の前に当ててみた。
「似合ってる」
彼は私をちらっと見ると、いきなりTシャツを挟むようにして私を抱きしめた。彼の息づかい、彼の体温、彼の匂い、私を包み込んだ彼のすべてに、体の芯が燃えるように熱く沸騰する。夏でもないのに溶けてしまいそうな感覚に、めまいを起こしそうになった。あの日から、同じことを何度も繰り返しているのに、毎回新しい刺激を感じるのはなぜなんだろう。使い込むほど風合いを増し、表情を変えていく備前の焼き物のように、彼と体を合わせるたびに、私の体も変化をしているのだろうか。
「なあ、ええか」
「なにが」
「今から……抱いてもええか」
もう抱いてるじゃん、と思ったけど、彼が言っているのは違う意味だということくらいわかる。今まで一度だってダメだなんて言ったことないのに。
「なんで、聞くの」
「髪。だって、せっかく綺麗になっとんのに……くしゃくしゃになってもええのかなて」
つい数時間前のことなのに、自分でもすっかり忘れていた変化に、彼は気づかないふりをしながら、ちゃんと気がついてくれていた。彼の不器用な優しさは、いつも思いもしないサプライズを私にくれる。
私は、いいよという言葉の代わりに、精一杯の熱いキスで答えた。髪なんて。あなたに愛されて乱されるのならちっとも惜しくない。
レコメンに遅れんように起こしてな、と唇と唇が一瞬離れた隙に彼が言う。うん、と頷いた私の体は、柔らかいソファーの上で二人分の重みで沈み込んだ。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
久しぶりの短編という気がします。
というか、今までがかなりのハイペースで書いていたんですよね。続きものを書いていたから。
えーと、今回は、彼の誕生日という話なので、とにかく早くアップしないと、え?いまさら?みたいな感じになってしまう~と、少々焦りながら仕上げました
今までにない料理のシーンなど入れてみたりしてみましたが、いかがでしたでしょうか。
最近は、自分でも書きながら赤面してしまうようなことも書いておりますけども…電車の中で携帯で書いてる時とか、私、こんなとこで何書いてるんやろ?と思ったりするんですよね
とはいえ、基本、楽しんでますが、何か?(笑)
あとはですね、また、美奈子さんを登場させたいなあ……と、いま考えています。
次回作まで、少々お待ちくださいませ
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短編集読ませていただきました
あまりにも自然なお話に完全に妄想ロックオンされちゃいました(笑)
横山クン素敵過ぎます
ドキドキしちゃいましたぁ
なんか…
ありがとぅござぃます(笑)
何度も読み返すはずなので、その都度、また違った感想が出てくるんだろうなって思いました
いつも素敵な短編集を作ってくださりありがとぅござぃます
今日はビターな彼がチューボーしちゃいますね
本当に 心から
ありがとうございます
キュン
幸せな気持ちになりました
骨董品屋さんの
茶碗と大皿のところ
こういうエピソード好きです
Tシャツのプレゼントと
ソファーのシーン
いいですね
「なあ、ええか」
「今から……抱いてもええか」
横山様の声が
聞こえてきそう…幸せだろうな…
読んでいて照れてしまいました
いいよという言葉の代わりの熱いキス…
そして
『髪なんて。あなたに愛されて乱されるのならちっとも惜しくない。』
この部分が
特に好きです
誕生日
ヒルナンデスとレコメンの間
なんか リアルな世界
私はこちら側から
横山様とるるりんさんのプライベートなところを 覗いちゃってる感じ
いつも るるりんさんの素晴らしい表現力に感動しています
私 最近いろいろありまして 精神的に かなりまいってます…
今回 短編集を読ませていただいて 心から楽しめたし ほっこり
楽しませていただきました
本当にありがとうございました
ただいま「チューボー」待ちです
しげさんのチューボー久しぶりだなあ
最近、横山さんが忙しすぎて(笑)ネタを作りにくくなってきて、若干スランプ気味でした
でも、ヒルナンデスとか見てるとやっぱり彼で何か書きたくて
もう少し最初の頃みたいに自由に書いてもいいかなと
また新しい感想も聞かせてくださいね
感想の中に新しいネタの発見もあったりするので
骨董屋さんの場面とソファーの場面は、自分でも納得いくまで何度も書き直した所なんですよ。
そこを気に入ってくれたなんて、めっちゃ感激です
頑張って書いて良かったー
私の作品で、ようてつさんの心が少しでも軽くなれるなら、これからも楽しんでいただける作品をお届けします
ただ、短編を書けば書くほど、彼の描き方が難しくなってきまして
勝手にイメージした彼を書いてもいいんですけど、やっぱり本人に近づけて書きたいなあと思うんですよね
横山さんのためにも