上海万博が10月31日をもって閉幕するが、今年だけで4回ほど上海に行く。
何度行っても飽きない。なぜ、上海に魅力を感じるのか。そこで、思いつくままに上海の魅力について書いてみようと思う。
その第1回。
上海は大都会だ。
上海を初めて訪れた日本人が感じる事は、上海が東京をはるかに凌ぐ大都会であることに衝撃を受ける。浦東(プートン)空港から市内に向けて移動すると、次第に、高層ビルが視界に入ってくるのだが、その高層ビルが少しずつ増えてそして延々と続く。どこまでいっても高層ビルが連なっているのである。それもそのはず、2000年からの10年間で、上海では4000棟以上もの高層ビルが建設されたのである。繰り返そう、4000棟である。400棟ではない。
私の地元名古屋では、近年、駅前に高層ビルが建設されはじめ、高さ200mほどのビルが、やっと7~8棟建った。それだけでも風景は一変したのだが、ここ上海では、そのクラスのビルが4000棟が建っており、建設中のビルは数えきれない。高層ビルの数だけではない。ビルの高さでも、浦東地区の中心では、世界第2位の500m級の高層ビル=上海環球金融中心(写真)をはじめ、200m以上の高層ビルが立ち並んでいる。
つまり、数と高さのスケールの違いに圧倒される。
中国のなかにあって世界都市として最初に発展したのが上海だ。それは1842年の南京条約によって欧米列強に門戸を開放したことに端を発する。1858年に日本がアメリカと結んだ不平等条約、日米修好通商条約に遡ること16年前である。もともと小さな漁村にすぎなかった上海は、開国前後の横浜と同じように貿易の街として発展した。英仏米などの外国人らは外灘(ワイタン)地区に、西洋風の豪邸を競うように建設した。こうした租界(居住区)を中心に上海は、1920~30年頃には世界10大都市に、極東最大の都市に発展していった経緯がある。
1949年に中華人民共和国が成立すると、今度は一転して、資本主義的廃頽の巣窟として上海はパッシングを受けることになり、富は北京に収奪され、その発展の勢いは削がれていった。40年あまりの苦難の時期に光が灯ったのは1978年に改革開放政策が開始されたことによる。とりわけ1990年に、政府が上海浦東(プートン)新区の開発と開放を決定し、長江沿岸都市の開放を進めたことで、上海は再発展のきっかけを得た。中国は2001年にはWTO(世界貿易機関)へ加盟し、2002年には胡錦涛政権が発足して2020年までにGDPを4倍するという国家目標を掲げた。これで上海の発展はいよいよ加速することになった。その結果が、10年間で高層ビルを4000棟も建築するという途方もない投資となったのである。
上海の魅力は、高層ビルに象徴される近未来都市の先駆者である一面と、租界時代の外灘(ワイタン)の歴史的な建物群をはじめとするレトロな建築群とが共存しているところにあると思う。
さらに言えば、上記のような発展する高度成長の上海と地方からの出稼ぎ労働者が低賃金で働く層が混在しているのも上海である。都市化がハイスピードで進む一方、市内の一部には、まだスラムのような地区や下町のような地域では低層庶民の生活がある。信じられないような金持ちと月収1万円で暮らす労働者が混在している大格差の街でもあるのだ。
いきつけのマッサージ店で、地方から出稼ぎにきたマッサージ嬢に「上海万博は観たのか」と聞いてみた。
答えは、誰一人観ていないとの返事だった。心ない質問をしたと後悔した。
何度行っても飽きない。なぜ、上海に魅力を感じるのか。そこで、思いつくままに上海の魅力について書いてみようと思う。
その第1回。
上海は大都会だ。
上海を初めて訪れた日本人が感じる事は、上海が東京をはるかに凌ぐ大都会であることに衝撃を受ける。浦東(プートン)空港から市内に向けて移動すると、次第に、高層ビルが視界に入ってくるのだが、その高層ビルが少しずつ増えてそして延々と続く。どこまでいっても高層ビルが連なっているのである。それもそのはず、2000年からの10年間で、上海では4000棟以上もの高層ビルが建設されたのである。繰り返そう、4000棟である。400棟ではない。
私の地元名古屋では、近年、駅前に高層ビルが建設されはじめ、高さ200mほどのビルが、やっと7~8棟建った。それだけでも風景は一変したのだが、ここ上海では、そのクラスのビルが4000棟が建っており、建設中のビルは数えきれない。高層ビルの数だけではない。ビルの高さでも、浦東地区の中心では、世界第2位の500m級の高層ビル=上海環球金融中心(写真)をはじめ、200m以上の高層ビルが立ち並んでいる。
つまり、数と高さのスケールの違いに圧倒される。
中国のなかにあって世界都市として最初に発展したのが上海だ。それは1842年の南京条約によって欧米列強に門戸を開放したことに端を発する。1858年に日本がアメリカと結んだ不平等条約、日米修好通商条約に遡ること16年前である。もともと小さな漁村にすぎなかった上海は、開国前後の横浜と同じように貿易の街として発展した。英仏米などの外国人らは外灘(ワイタン)地区に、西洋風の豪邸を競うように建設した。こうした租界(居住区)を中心に上海は、1920~30年頃には世界10大都市に、極東最大の都市に発展していった経緯がある。
1949年に中華人民共和国が成立すると、今度は一転して、資本主義的廃頽の巣窟として上海はパッシングを受けることになり、富は北京に収奪され、その発展の勢いは削がれていった。40年あまりの苦難の時期に光が灯ったのは1978年に改革開放政策が開始されたことによる。とりわけ1990年に、政府が上海浦東(プートン)新区の開発と開放を決定し、長江沿岸都市の開放を進めたことで、上海は再発展のきっかけを得た。中国は2001年にはWTO(世界貿易機関)へ加盟し、2002年には胡錦涛政権が発足して2020年までにGDPを4倍するという国家目標を掲げた。これで上海の発展はいよいよ加速することになった。その結果が、10年間で高層ビルを4000棟も建築するという途方もない投資となったのである。
上海の魅力は、高層ビルに象徴される近未来都市の先駆者である一面と、租界時代の外灘(ワイタン)の歴史的な建物群をはじめとするレトロな建築群とが共存しているところにあると思う。
さらに言えば、上記のような発展する高度成長の上海と地方からの出稼ぎ労働者が低賃金で働く層が混在しているのも上海である。都市化がハイスピードで進む一方、市内の一部には、まだスラムのような地区や下町のような地域では低層庶民の生活がある。信じられないような金持ちと月収1万円で暮らす労働者が混在している大格差の街でもあるのだ。
いきつけのマッサージ店で、地方から出稼ぎにきたマッサージ嬢に「上海万博は観たのか」と聞いてみた。
答えは、誰一人観ていないとの返事だった。心ない質問をしたと後悔した。
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