
四川大地震から4日目。
死者は5000人から7000人、12000人、19500人と報道され、なんと今日の新聞では推定50000人にのぼるという。地震のエネルギーは阪神大地震の30倍という。まさに歴史に残る災害である。
迅速な救援と二次災害に対し、万全の対策を願うばかりだ。昨日は日本の救援部隊を中国が受け入れ、その第一陣が成田を発ったというニュースを観た。従来では考えられない中国側の対応だ。
1976年7月28日に中国では「唐山大地震」という悲劇があった。この時の死者は24万人と言われている。後にマイナーな「中国大地震」という映画で知ったのだが、その規模は今回の地震と比べても解るはず。極端な報道規制の為、海外ではあまり知られていない。インターネットの普及や観光客の受け入れが進んだ今、情報は防ぎようもない。また、オリンピックをまじかに控えた中国としては、不謹慎な言い方だが、この悲劇を利用もできる。チベットの人権問題は、中国にとって頭の痛い問題だったが、この地震報道で吹き飛んでしまったのも事実である。
救援を素直に受け入れ、これを機に「開かれた中国」をアピールし、人権問題にも柔軟な対応をしてほしいと思う。
唐山地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
唐山地震(とうざんじしん)とは1976年7月28日3時42分(現地時間、UTC+8)に、中国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュード7.8の直下型地震である。市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな水平右ずれが発生し、激震によって当時中国有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。
この地震による死者は公式記録によれば242,419人を数え、これは20世紀最大の被害である。日本人も火力発電所建設のために派遣されていた日立製作所の社員3人が犠牲になった。
中国では1975年2月4日に起きた海城地震の直前に予報を出して被害を大幅に減らす事に成功しており唐山付近で地震が起きる可能性が高い事もわかっていたが、今回は予報を出せず地震予知の難しさを知らしめた。
当時中国は文化大革命の真っ只中であり、政府は「自力で立ち直る」と外国からの援助を拒否した。このことが犠牲者の拡大をもたらした一因だといわれている。また、政府の方針により被害実態の多くが伏せられたとも言われ、死者の数についても非公式には60万から80万人、もしくはそれ以上とも言われている。
唐山市への影響
唐山市ではこの地震によって14万8000人が亡くなり重傷者は8万人以上と被害は市民の21.2%に達し、住宅の全壊率は94%だった。これによって再建がほぼ一段落するまでの約10年間、外国人の立ち入りが制限されていた。現在は抗震記念館が設けられて倒壊した建物や断層の一部が地震遺跡として保存されている。2006年7月28日、中国共産党は唐山市で30周年記念大会を開催、およそ700人が出席して「唐山抗震記念碑」に献花などを行ったと発表した。
写真は外灘3号・7階のレストラン「ニューーハイツ」5月12日撮影。まさにこの時間に地震は起きた。