一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

祈る姿は人を導く

2017-01-11 07:26:35 | カトリック
1960年代始めの話。とあるカトリックの幼稚園では子供を預けた未信者の親御さん子供を含めて卒園する頃には半数以上が洗礼を受けていたという話を聞いたことがあります。
特にそこの司祭やシスターが積極的に布教をしていた訳ではありませんでした。
洗礼のきっかけは子供を迎えに行く時にふとなんとなくお御堂の中を覗くと、スータンを着た神父が祭壇の前で跪いて祈っていた姿を見たからだと異口同音にいうのです。つまり殆どの人がその敬虔な姿で回心したということになります。そしてミサに与り、聞き慣れないけども綺麗に聞こえるラテン語と美しいグレゴリオ聖歌を通して神様の存在を確信したといいます。
私の話で恐れ多いのですが、高校二年生頃です。私の友人は私がカトリック信者だということを知っていたので、彼は私に色々な質問をしました。彼は宗教に興味がありました。彼は読書家だったのであらゆる宗教の本を読んで特にキリスト教に興味がありました。ですから私に近寄ってきたのです。私は毎週両親と弟たちとミサには与るだけの普通の信者です。彼に満足な答えは与えられていないことを痛感していました。彼はとにかく読書家です。ニーチェから始まって最終的にチェスタートンに行き着きカトリック教会に興味を持ちました。とにかくミサに与りたいと言うので、イグナチオ教会に行きました。イグナチオ教会は私にとって数年ぶりでした。私の知っているあの荘厳な建物ではなく、会堂のような建物になっていました。友人にとっては初めての憧れのカトリック教会でしたが、お御堂に入るなり彼は「幼稚園みたいだな」と呟きました。非常に衝撃的な言葉でした。恥ずかしくなるくらいです。色々ハッとして気が付いた事もあります。
ミサが終わり、外に出ると「俺の想像とは違うな。これはお遊戯と変わらない」と言うのです。どうやら彼は立派な祭壇とラテン語でグレゴリオ聖歌の50年前までどこのカトリック教会でも行われていた聖なるトリエント典礼を想像していたようです。がっかりしただろうと残念だった私に向かって彼が言った言葉が今でも忘れません。
「最初に教会に入ったときに、跪いて祈ってるお前の姿を見て俺は感動したよ。見えないものを信じその前で謙遜になれるのは実に羨ましいよ!」と言ったのです。
その後彼は大学に進まずアメリカに行きました。アメリカから手紙が届き、「現代のカトリック教会は魅力を感じないがお前の言うとおりカトリックが真理なのはわかる。しかしこっちの英国教会(多分正教会かも)の教会は建物も綺麗だし、典礼も感動的で、心が揺れ動いている。いずれにせよ洗礼は受けるつもりだ」という内容を受け取りました。
それから彼との連絡は途絶えましたが、学生時代のこのような経験は私に大きな影響を与えたことは間違いありません。人は言葉だけではないという事です。その行いや姿勢を通しても人を神様に導くことがあるのです。
彼の読んだ文献とはかけ離れた教会ではありましたが、御聖体という本物の神様に跪いて祈る姿勢を通して彼は何かを感じ取ったのです。先の幼稚園の神父様の話もそうです。祈る姿勢だけで回心する人がいることを忘れてはいけませんね。