一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

信仰

2016-10-10 07:54:05 | カトリック
聖ピオ10世教皇様の公教要理の初めに

『あなたはカトリック信者ですか。

そうです。私は天主の恩寵によりカトリック信者です。

なぜ「天主の恩寵により」と言いますか。

カトリック信者であることは、神が全く無償で与えてくださった賜物のおかげですから、「天主の恩寵により」と言います。』

とあります。昔の信者さんはこのレベルの高い問答式の公教要理を暗記するまで読んだといいます。私の知っている現在90歳を超える老司祭も木の上で何度も何度も読んだものだ、と仰ったのを思い出します。
さて、宗教の基本中の基本である、この信仰はカトリック教会では、神様の恩寵であると教えているわけですが、すなわち信仰者は自分の力ではなく神に選ばれたということになります。
イエズス様は聖書の中で、信仰者の中にも、信仰の篤い者と薄い者が存在することを明言され、信仰は人によって違うということが分かります。違うといっても同じ者を同じように信ずるという前提での、上と下、強と弱ということです。
この信仰の度合いも、まさに神様の恩寵であると実感することがあります。口でいくら信仰者を語ったとしてもその行いで明らかになるものです。口で上司を敬っています!と言ってもふんぞり返って受け答えをしたり、上司が立ってるのに部下が座って話したり、敬語を使わなかったり、皮肉や悪い冗談を言うのを、端から見てこの人の言うとおり上司を本当に尊敬して敬ってるのだなぁ、と関心するでしょうか。むしろその逆では無いでしょうか。
御聖体が主イエズスだと口で言っても、教会内に入るとき御聖体に目を向けて、跪いたり、もしくは最敬礼をしないのはなぜでしょうか?例えば祭壇の前に天皇陛下や国王またはどこかの大統領が居たのならば、むしろその方が最敬礼かなにかしらのモーションをするのでは無いでしょうか。主の前ではその人たちさえ被造物さえあるのにです。
さて話は戻しますが、私にとってこの信仰は幼子のように単純なのが理想です。お母さんが子供に教えられるときの子供の信じて委ねるあの素直さです。
この信仰も全て恩寵によりです。
カトリック信者として選ばれた私達は、自分の力では無く主に請い願うことは、信仰をますます強くしていただく事です。
主の「あなたの信仰があなたを救った」という程の信仰を頂く恵みをますます願いたいと思います。
洗礼式で志願者または代父母が(代わりに)、「あなたは教会に何を求めますか」という問いに、「信仰です!」という(言った)ことを忘れてはいけません。

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