一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

節目は重要

2018-08-27 22:32:07 | 日記
父方から遡るとおそらく私は五代目のカトリック信者かもしれません。母方から数えるともう少し代を重ねてるかもしれませんが、あまりこれに関しては調べたことがありません。
ただ面白いのは、父に幼児洗礼を授けた司祭から私も洗礼を受けたことです。その司祭は長生きされたようでしたが、約30年前に帰天されました。
先日あることをきっかけに考えてみました。霊魂に刻まれる秘跡は、まず洗礼そして堅振、叙階があります。司祭にならない限りは洗礼と堅振は多くの信者が受けることになると思いますが、幼児洗礼に対する批判として、よく要理を理解していない赤ちゃんに洗礼を授けるのは如何なものかということです。偉大な洗礼の秘跡を理解している者にしては、子供が産まれたらすぐに授けたい、子供の霊魂を最高の状態にしておきたいと思うのは親の心です。命の危険や様々の問題もありますし、議論の余地はありません。
さて、その赤ちゃんだった人が要理を学び初聖体を迎えることになります。私の場合小学校三年生の頃でした。当時の神父さまはフランシスコ会の神父で1952年に叙階されたフランス人司祭でした。私たちの神父さまのあだ名は「シャラップ神父さま」でした。なぜかというと、よく私たちに「Shut up!(静かにしろ)」って怒ってたからです(笑)
毎週ミサの後に私を含めて4人の初聖体クラスの子供たちは神父さまのところで厳しい授業を受けました。
私はその中でも最年少で、手前味噌ですが、神父さまの質問には臆することなく答えを返す優等生(笑)でカトリックの色々な事を学ぶ面白さを神父さまから学び幸せな時間を過ごしました。もちろんその司祭が初告解の神父さまで、告解中は冷や汗をかきました。なぜなら「まだあるでしょ!」と言われたからです。恐る恐る顔を見ると微笑んでおられましたが。
そして中学生になると主任司祭も何人か変わりましたが、そろそろ堅振を受けないかと神父さまから言われ申し込むことになりました。勉強はもちろん司祭館で勉強して、各教会の受堅者が一カ所に集まって、そこで司教様から堅振を受けました。司教様は神父さまよりも偉い方ということで、なかなか私たちの小教区にも司牧に来られたことが無かったこともあって、そのお姿に緊張したのを覚えています。
その初告解からの初聖体、そして堅振の秘跡を受けるという段階と節目を迎える度に信仰が強められていくのを私は感じましたし、大切なことだと思います。日本における成人洗礼の方は気の毒だと思います。成人洗礼の人もいつしか、堅振も同時に受けるようになって、多くの古くからの信者からは違和感を感じてる旨を聞いた事を覚えています。特に司教様から受けない堅振式ってどうなのか、とか洗礼と堅振は別の秘跡なのに同時に受けるのはなんか違うのではないかと、いう意見も聞いたことがあります。なぜなら洗礼の秘跡と堅振の秘跡がなんなのかを理解すればするほどに当然そのような声は出てきていました。洗礼というのも今では入門式みたいな扱いになっています。とりあえず洗礼受けてから勉強です、みたいな発言もあります。昔の信者は理解するのに何年も洗礼に時間をかけていました。成人洗礼はすぐに初聖体を迎えるわけですから、聖体に対しても本物の信仰が無いといけないというわけです。
しかし、これも慣れっこというか妥協というのか、残念ながら今ではこれをおかしく思う人の声も聞こえなくなってきています。

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4 コメント

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Unknown (抵抗キリシタン)
2018-08-29 11:05:55
幼児洗礼は確かに羨ましいです…

奥方様は、よく「幼児洗礼でよかった」とのたまわっておられます。
何より洗礼を受けるために公教要理もよくわかっていない信者さんの
講義を聞くために自分の時間を使って教会に行かなくてもいいからだそうです。
子どものころから普通に教会へ遊びに行き、教会で公教要理を学び、
普通に堅振を授かり、悪さをすれば告解して赦してもらえて…
「大人になってからの洗礼なんて理屈ばっかりになって面倒くさいだけ」
だそうです。私には、その理屈の勉強をさせたくせにですよ(:_;)

成人になってから受洗された方の一部は、2年~3年で教会へ来なくなると
聞いたことがあります。
たしかに、小教区のコミュニティは堅固で閉鎖的ですし、
家庭に一人だけのカトリックでは、主日の御ミサにも与りにくいかも
しれませんが、洗礼への期待を裏切る大きな躓きの種が
教会の中に隠れているように感じます。
信徒同士の分かち合いの強制とか、意味不明な信仰講座とか、
カラオケボックスのりの典礼聖歌絶唱とか…

御聖体に対する思いについても、聖変化の際の跪き禁止は
大きく影響していると感じます。
御聖体への思いは、信徒中心の傲慢なカトリック教会に
変貌してしまうかどうかの分水嶺ではないでしょうか…
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Re:Unknown (ジュゼッペ)
2018-08-29 12:47:26
幼児洗礼も成人洗礼ももちろん色な人がいますが、幼児洗礼も成人洗礼も、結局は同じ唯一の洗礼です。ですから同じ信仰と同じ知識を結局は共有することになります。
幼児洗礼の人は初聖体の時に、成人洗礼の方が受けるような「理屈」を学ぶのです。
当時のシャラップ神父は偉大でした。御聖体のホスチアは何かと子供達に尋ねたところ、一人の子供が「キリストのパンです!」って答えたらげんこつが飛んで、「キリストの体だ!」と言いました。その場にいた子供たちは一瞬にしてキリストの体であることを悟ったのです(笑)
その子は大きくなってから厳しくされたことを、その司祭に感謝していたのを覚えています。そしてさらに、堅振の時にはまた「理屈」を学びました。ですから最低二回は幼児洗礼の人は学び場があります。でも普段の教会学校で学ぶことももちろんあるのですが、今の日本のカトリック教会だと最短で3ヶ月で洗礼を受けるところもあるそうで、理屈(理性)では無く感覚的に信仰があれば十分な扱いで洗礼受けた後からが勉強だ!洗礼後に考えればいい!とかすぐに洗礼と堅振が同時に授けられてしまいます。本来は洗礼後は原罪も自罪も赦され聖人になるわけです。その場で死ねば天国です。つまりゴールに近いのです。
しかし、浅い知識で洗礼を受けた人たちが後に教会難民になるならまだ救いはありますが、まったく教会から離れていくのは不思議ではないと思います。
もともと教会に行くことがなんなのか、ミサが何かであることを理解出来たならば、そのような人間関係とかに躓くこともありません。ミサに食卓や集会の概念を導入してから多くの人は教会に出会いや癒やしを求めています。教会は知り合いや親戚や仲間に会いに行くところではありません。主に礼拝に行くところです。
公教要理をしっかりやった人は教会から離れることはありません。私の従兄弟はかつて堅振のテストに二回落ちて何年も堅振が受けられませんでした。
ですから聖なる司祭が与えられるように祈りましょう。
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痛みと希望とともに (たのきゅう)
2018-09-08 20:47:46
ジュゼッペ様、

わたくしは、たのきゅうと申します。
「日本における成人洗礼」を受けた「気の毒」な者です。

今回のジュゼッペ様の『節目は重要』の記事を読ませていただきました。
どうぞこの「気の毒」な者のためにお祈りをお願いいたします。
ごミサに与りたくても、赦しの秘蹟を受けたくても、
それが今もって叶わぬ「教会難民」でもあります・・・。

この「難民」が助けられているのは、所属の教会で、ある方からいただいた以前使用されていた公教会の祈りの本と、小野田神父様が発信してくださっている「聖ピオ十世会だより」や「Credidimus Caritati」のおかげなのです。

わたくしのような者は「気の毒」には違いないでしょうし、「教会難民」であるのも事実です。
「新しいミサ」に与ることはできませんので。

しかし、わたくしはこの生活の状態をイエズス様にもマリア様にも、またすべての天使たちと聖人たちにもに知られていると思っておりますので、悲しみ、苦しみ、怒りなどに見舞われることがあっても、毎日祈りつつこれを受け入れてまず感謝をしております。

洗礼に与ってから、苦しみは増していました。精神的にも物理的にも。それでも、わたくしはひとつのことに気づかされました。精神的・物理的にどんなに弱った状態にあっても、希望は少しもわたくしの中で損なわれてはいないことに。これは大きな喜びでした。
そして今も変わりなくそうなのです。

わたくしの心に痛みもまた変わりなくあるのです。

痛みと希望とともにコメントをお送りいたします・

ジュゼッペ様のためにお祈りしております。
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Re:痛みと希望とともに (ジュゼッペ)
2018-09-10 08:09:37
たのきゅう様
アヴェ・マリア!
初めまして!でしたよね?
コメントありがとうございます。非常に感慨深く興味深いコメントでした。
あなたが洗礼をお受けだった頃まさか私たちのカトリック教会がこんなにも危機的状況であることなど知る由も無かったと思います。
そういう意味では「気の毒」なのですが、実は私を含めて全世界のカトリック信者は気の毒なのです。多くの人が信仰破壊の真っ只中にいることさえ気が付かないでいます。下手をすれば信仰刷新の影響を受けているだけのみならず、信仰破壊にいつのまにか加担させられているのかもしれないのです。
私も学生の頃突然始まった子供のためのミサで異変に気が付きました。子供の頃はミサの内容が分からないからとか、ミサを楽しくてしてほしいなどとは思った事が無かったので、突然1ヶ月に一回は子供たちのために楽しく分かりやすいミサを挙げようということになりました。実情は、押し付けのミサでした。私はすぐに書面で「子供のため」のミサではなくそれは、「子供化」したミサだからミサをそのように扱わないで欲しいと書きました。しかし、一向にそれを止める気配も無く続きました。
そしてその週だけは私は他の教会に行くことにしました。それが私の教会難民の始まりです。
そして善い司祭、聖なる司祭を探すきっかけにもなりました。聖なる司祭は時間を経過するごとに帰天されてしまっています。その多くは公会議前の規律で多くの時間と厳しい修練を経て養成された司祭たちでした。
聖なる司祭の特徴は伝統・聖伝主義です。長い伝統で培われた信仰をそのまま私たちに伝えて下さいました。現代の近代主義に染まった神学校で叙階された司祭の多くの司祭像はカトリック教会の伝統や秘跡を執行するのではなく、社会奉仕のため、貧しい人のため、平和のため、という司祭でなくても出きることを掲げています。このような司祭が果たして私たちを聖化し、天国へ導けるのでしょうか。
ですから祈り求めることが大切ですね。私のためにもお祈りして下さるということ、本当に本当に嬉しくそして感動と感謝をしています。私たちは確かに追いつめられてきています。
しかし、希望は捨てないようにしましょう。なぜならば私たちには聖母マリア様が元后でいらっしゃいます。
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