舞蛙堂本舗リターンズ!~スタジオMダンスアカデミーblog

ダンス(フラ・ベリーダンス他)と読書と旅行とカエル三昧の日々を綴る徒然日記。

良いフラ・ダンサーになるための7箇条【プロ編】

2014-01-07 05:50:36 | ダンス話&スタジオM
さて、長らく宙ぶらりんになっていた以前の記事の続編でございます。

前回のはフラ・ダンサー全般のお話でしたので、「どんなにキャリアが短くても関係なく良いダンサーになれる」という結論だったのですが、もちろんプロの話となるとそうはいきません。
雨後のタケノコ状態の今、どんなプロなら信頼してよいのか、または誇りを持ってプロを名乗れるのはどういう人なのか、30年にわたって「生きる伝説」から「紛い物(笑)」まで様々な自称他称のプロの皆さんを見て来た経験から語らせていただきます。


一応ホントに投げっぱなしにしてたんじゃなく、このテーマについての構想は昨年からずっと練ってたんですよね。
でもいかんせん難しくて。
なにしろ私自身この業界の端くれにおりますから、下手打つとただの手前味噌になりかねません。
中立の立場を保ちつつ客観的にまとめるのが難しいテーマでした。
って自分で風呂敷広げといて愚痴ってもしょうがないんだけどね。


あ、ここでは具体的な知識や技術のレベルについては敢えて語りません。プロなら出来て当然だもの。

たとえば自分のレパートリーはクムから貰った資料の丸暗記でなく本当に意味を呑み込んでいるとか。
自分が今やってるモーションがどういう意味なのか分ってるとか。
初耳のハワイ語の曲でも大雑把なオモテの意味は分るとか。
生徒さんと向かい合って左右逆で踊れるとか。
そういう当たり前シリーズはもう始めるとキリ無いので省きます(笑)。


では前置きはこのくらいにして行ってみましょう。



1, 誰よりも優秀な学び手である 

これ、フラだけでなく全てのプロに重要な事ですね。
そもそも生徒として優秀じゃないと、優秀なプロにはなれません。
優秀というのは「才能がある」とか「飲み込みが良い」とかそういう意味じゃないですよ。
師匠(あるいはその道の先達)をリスペクトし、出来るだけ多くを学ぶべく、真摯にその教えを受ける事の出来る人が「優秀な学び手」なのです。


たとえばハワイのクムのワークショップを受けるにあたって、たんに振付を仕入れるだけというのは「優秀なプロ」ではありません。
授業の進め方、説明する時の言葉の選び方、振付の仕方、間の取り方、どれをとってもクムによって十人十色であり、すべてのクムにその方にしか持ちえない素晴らしさがあるため、指導者としてもダンサーとしても無数の事柄を学び取る事が出来ます。
たとえ自分とは異なるスタイルを持った先生であっても、真摯に学ばせていただくという気持をもって臨める人こそ真のプロたり得るのです。


数年前、母マミちゃんがとあるクムのワークショップを受けた際(※私は四代目に掛かりっきりでときおりレッスンの様子をうかがう事しか出来なかった)、明らかにどこかの先生とおぼしき日本人の受講者の方が、クムには目もくれずに座り込んでひたすらウチの母を凝視して振付を書き取るのに終始しているのを目撃した事があります(笑)。

まあ、そういうワークショップの受け方をする人はまずプロとしてロクなもんじゃないね。
というか、それじゃ勿体ないです。その時のクムも、振付そのものだけでなく、振りから振りへの繋ぎ方が芸術的に繊細で美しい方だっただけに、それを一瞥もしなかったその人は受講代をドブに捨ててるのとほとんど同じだと思いました(ご本人にとっては振付さえ仕入れればそれで良いのでしょうが…)。


もちろん、ワークショップを受講するときは必ず列に入って踊り続けなきゃならないってことはありません。
疲れちゃった時とか、長時間参加しているのが体力的にキツいという人は、横で見ているのも立派な「受講」です。
でも、そういう時に「どこを見ているか」で優秀な受講者とそうでない人に分れます。
一心に振付メモを取ったりするよりも、そのクムならではの踊り方の特徴とか、どういう授業の雰囲気を創り出しているかとか、そういうものを見ていた方がずっと自分のためになりますよ。
コレはプロに限らず、またはクムのワークショップに限らず、普通の人の普段のレッスンでも言える事です。



2, 上達に上限が無い事を知っている 

これは1に関連した事です。
優秀なプロはかつて優秀な学び手だった人」ではなく、「今も優秀な学び手であり続ける人」でなければなりません。


私がそれを痛感したのは、昔ある人が「自分はもう100曲習ったから先生になる」と言ったのを耳にした時です。
こういう考え方の人はプロとしてロクなもんじゃない以前にプロには向きません。悪い事言わないから、やめておきなさい。

この人の決定的な間違いは二つあります。
まず第一、根本的に「ここに達したらプロ」という決まりはどこにも存在しません。通信講座の資格じゃないんだっつうの(笑)。
そして第二、こっちはもっと重要な事ですが、たとえプロになったとしても、自分が上達すべきところは際限なく存在します。「自分は○○○曲も踊れる」なんて言ってあぐらかいてる場合じゃないんです。
プロになってからも向上を続けていけるようでなければ、先生なんてとても務まりませんよ。


こんな毒舌の私でも「この人は素晴らしいプロだ」と感じた日本人の先生は大勢いらっしゃいます。
どの先生も人一倍の向学心をお持ちで、フラはもちろん私のハワイ語の授業でも、率先して学びたいという意欲が高く、そんな先生の姿を間近に見ている生徒さん達のモチベーションも高めているという、とても良い相乗効果が生まれていました。
そういう方を目の当たりにするたびに、やはりプロとはこうあるべきだと思いますね。



3, 自分の踊りを客観的に捉えられる 

これは技術の一種かもしれませんね。
よく「イベントの映像を観たら自分の踊りが思ってたのと違っててショックだった」という方がいらっしゃいます。
もちろん、趣味で踊っている人ならそれはむしろ当り前の事であり、全く問題はありません。
えてして理想と現実の間には差異があるものです。私も写真に映った自分の体型を見ると毎回軽く凹みます(笑)。

でもプロの場合、自分の踊りについては鏡一つ無い状態であっても「今自分がどう見えているか」をいわゆる神の視点から見ているように把握できなければなりません。
自分の一挙手一投足がどういう効果をもたらすかを把握した上で踊れるようになって初めてプロといえるのです。

「ああ、この人…自分がどう見えているか分ってないんだな…」という先生やインストラクターの人って結構いるんですよね…。
まあ具体的な話になっちゃうと色々ヤバいんで、あくまでも一般論として二つ例示します。

一つは、自分のキャラクターを分っていないパターン。
例えて言うなら、私が白やベビーピンクのロリヰタ服を身に纏っているような状態です(笑)。
どこをどう探しても色気など欠片も見当たらない人がセロファンスカートとか露出度の高い格好でセクシィ路線を狙った踊りを踊ったり、運動部の男子中学生の方がまだしもエレガントだというような人がロングドレスで格調高いスローナンバーを踊ったり、そういう事をしてしまった時にこの残念過ぎるパターンが発生します。
敢えて三の線を狙って行くのでなければ、出来るだけ避けたいものですね。


もう一つは、曲や舞台とのバランスが合わないパターン。
たとえばWeldon Kekauohaさんのような軽やかで湿度の無い人の曲に合わせてべったりねっとり踊ったり、逆にNatalie Ai Kamauuさんのようなドラマチックな歌い方に合わせて色気も素っ気も無い踊り方をしたり…といったものが曲に合ってないケース。

舞台とのバランスが合わないというのは、たとえば微塵も迫力の無い踊り方しか出来ない人がスカーンと広い大ホールで無理してソロをやっちゃうようなケースです。
しかもそういう人に限って衣装も舞台裏スタッフと見紛うほどしょぼかったりするんだ…。
「大舞台に向かない」というのはもう根本的な芸風の問題なので、自分はいまいちそういうタイプじゃないなあと思ったら、無理しないで群舞にしときましょうぜ。


尤も、いずれのパターンも真に優れたプロであれば踊り方を変える事でカメレオンのように順応できるものです。
一つめのキャラクター問題についても、可愛らしい女の子から純情な乙女、お色気たっぷりオトナのお姉さん、そして酸いも甘いも噛み分けたクプナまで、見事に演じ分けられる人もこの世には存在します。

そして曲や舞台とのバランス、これも技術でカヴァーできます。同じ曲でも演奏によって踊り方を変えるのはほとんどプロなら常識の範疇ですし、舞台のサイズとのバランスに関しても、大ホールと狭いライヴステージとで変えられるようでなきゃ本来プロとは言えません。
曲のイメージや歌い方、舞台の規模、それらのものから最も相応しい踊りを変幻自在に当てはめられるようになれば立派なプロと言えましょう。



4, 自分のスタイルが確立されている

ハワイのクムが「スタイルの統一されていないフラは気持が悪い」とおっしゃるのを聞いた事があります。
ここで言う「スタイル」とは、たとえばアンティ・マイキとかアンクル・ジョージ・ナオペとか、特定のクムに習った人は必ずそのスタイルを受け継いでいるわけで、ウチで言うならイリマフラスタジオのアンティ・ルカ&ルイスの流れを汲んでいます。

母マミちゃんの踊りを観たハワイのクムやキャリアの長いダンサーは皆さん「誰に習ったの?」とお訊きになり→「イリマフラスタジオ」との返答を聞いて膝を打って納得する、という所までの一連の流れがまるで台本に書かれてでもいるかのように全く同じです。

ってコレ、手前味噌でもなんでもないよ。
きちんと習った人であれば当り前の事ですからね。


フラという踊りの受け継がれ方の特殊性として、「どういう流れを汲んで来たか」はそのダンサーのスタイルに決定的な特徴を刻みつけます。
それは「カホロが3歩か4歩か」なんて単純な特徴ではない、その人の踊り全体がまとっている確固たる「匂い」のようなものです。

一番近いのは方言ですね。ちょっとしたイントネーションや語彙など話し方全体から「この人は自分と同郷だな」と分るようなものです。
そして、優れた熟練のダンサーやクムなら、ちょうど方言学者の先生が具体的な地域を言い当てるのと同じように「この人のフラがどういう流れを汲んでいるか」を見てとる事が出来るのですね。
私程度でさえ、メリモのミスアロハフラに出場した人がずっとその教室にいる人か、それとも他から移って来た人かくらいは踊りを観れば分ります。


これが、「私は○○先生に習った」「私は○○先生の日本校のインストラクターだ」と言っている人が、その○○先生と全く異なるスタイルを持っていたりしたらどう考えても不気味です。
カホロのステップ数だけ○○先生と同じでもほぼ無意味。ばりばり栃木訛りの人が語尾だけ「~なんやで」とか言って関西弁を喋っているつもりになってるのと同じくらいキモい(笑)。
つーか、かつて京都への修学旅行中ずっと「関西弁の方が合っとんねん」などと怪しい関西弁を使い続けている同級生が二人もいて、よりによって二人とも友人だったもんですから、一緒にいる私は顔から火の出る思いでした。今思うとアレが中二病か……。


ああいかん、話が脱線しちまった。
ともあれ、プロであれば『もの○け姫』のアシタカよろしくあっちへフラフラこっちへフラフラするんでなく、何を踊ってもブレない己のスタイルが確固としてしかるべきです。



5, 「本人が」「踊りにおいて」優れている

ようは「看板や甘言に騙されるな」って事です。
この件に関しては幾ら言っても言い足りないから、またいつか独立した記事で取り上げるかもしれないけど、今日はとりあえずザックリと。


例えばレストランを見ても、ミシュランの星を貰っていようがザガットサーベイに載っていようが、最終的には自分で食べてみなくちゃ分らない。
まして、建物がお城のようなロマンティックな外見をしていたって味まで素敵とは限らない。むしろ、肝心の中身がショボいのを誤魔化すために、パッと見の体裁をことさらに取り繕っているのかもしれない…。

これと同じ事がフラの世界でも言えます。
虎の威を借る狐とはよく言ったもので、キンキラした看板を掲げてみたり、「私はかれこれこんなに凄いんだ!」と喧伝したりする自称先生も結構多いです。
でも、そういう人ほど中身はハリボテって事が結構多いんだなぁ。


今までで一番爆笑したのは、某ハワイのハーラウ××のクムに師事しているという日本人の先生が、ハワイ校のミスアロハフラでの入賞を受けてフェイスブックで「私達はメリーモナークで入賞した教室です!」と言いふらしてるのを見た時です。

って、アンタらハーラウ××じゃないから!
しかもミス(※ソロ部門)ってアンタとほぼ無関係じゃん!!!


あまりに堂々とした偽装っぷりにフェイスブックに「いいね!」じゃなくて「わるいね!」があったらよかったのにとすら思ったものです(笑)。


まあそこまで酷いのは流石に滅多にありませんが(無いと信じたい)、まだフラを見る目が確かじゃない人にくれぐれも注意していただきたい落とし穴は「看板」です。


ぶっちゃけ、立派な「看板」はお金で買えます。


もちろん、掲げている看板と実態がちゃんと合っているところもあるでしょう(あいにく個人的な知り合いに居ないだけで)。
ただ「看板だけならお金で買える」、この事は事実として知っておいた方がいいです。

個人的に知っているだけでも、お金を積む事でハワイアンネームを授ける、ウニキを授ける、さらに日本校や認定校といった称号(?)を売るケースも見ています。
高額な契約金が続かなくて看板を掲げ続けられなくなったところとか、逆に看板だけ貰ったらトンズラする人、コンペで有利なクムを求めて看板を二転三転掛け替える教室なんてのも、知人の知人程度にはゾロゾロいます。
ウチにそういう契約を持ちかけて来たクムもいらっしゃいますよ。誰とは言いませんが。一人じゃないし。


そういうものを売る人も買う人も私は否定しません。それ自体は悪い事じゃない。
でも「看板だけではプロとしての良し悪しを判断する材料にはならない」という事はハッキリ強調しておきたいです。
最終的には本人の技量のみがモノを言うのです。



6, 観る事の重要性を知っている

1や2で言及した「よき学び手」の条件の一つとして、「見て学び取る能力」が挙げられます。
良いものを見極める能力、何故良いのかを分析する能力、それを自分自身に反映させられる能力、ここまでがセットで「見て学び取る能力」と言えます。


さらに、指導者であれば自分の生徒さん達のこの能力を伸ばす事も重要な責務です。
生徒さん達が質の良いフラ・本物のフラを観て「見る目」を養えるよう適切に導くのは、大切な指導内容の一つです。

という事は、大前提として「自分自身が『生徒さんに見る目を養われちゃうとボロが出るような実力』じゃダメ」って事ですね。

堂々と自分の生徒さん達にハワイのダンサーの踊りを見せて「これが本物のフラだ」と言える。
それと自分自身を比べられても「アレ?この先生なんか違くね?」とか馬脚を顕されたりしない(笑)。
先生たるもの、そうでなくっちゃいけません。



7, 根拠のある誇りを持っている。

最後の項目。そしてこれが一番重要です。
フラは誇り高き踊りです。曲がりなりにもプロであるならば、誇りをもって踊れなければなりません。
そして、今まで言及して来た1~6がクリアできるなら、自分自身にプライドを持っても無問題です。

ただ「誇り」と「自己満」を取り違えると悲惨な事になるから気をつけてね(笑)。

いやホント、自己満に終始しているフラほどイタいもんは無いっす。
でも、自分が自己満に終始しているのか、それとも本物を知る人にも堂々と見せられる誇り高きフラなのか、自分で判断するのはかなり難しいのよね~。


まあ、判定する方法が皆無というわけではない。
それはたとえばメレフラの時なんかに、いかにも「私フラやってます!しかもプロです!!」な格好をやめて、キンピカにメッキされた看板を持ってる人もそれは見せないで、身一つの状態で確かな見る目を持つ人(出来ればハワイの人)の前で踊る事です。
それも言外に「どうよ見てよ上手いでしょ!!」とアピったりせず(笑)、出来るだけ軽やかに。
それで相手があなたの踊りに(社交辞令レベルでなく)賞賛の意を示してくれたなら、あなたは自己満にとどまらぬフラを踊れているという事です。


数年前、ロバート・カジメロ様のお教室の発表会にうかがった際、あるロバート様の同窓生の女性が飛び入りで踊られました。
彼女はおよそ普段着であり、「いかにもクム/ダンサーです」といったものは何一つ身につけていなかったにもかかわらず、弾き語りをするロバート様の方を向いて=客席に背中を向けてごく軽く踊り出した、その僅かな動作だけで私も母も彼女に魅了されました。

本当に誇りを持つに値するフラが踊れる人なら、仰々しい金看板も力一杯のパフォーマンスも必要ありません。
僅かな一瞬のほんの少しの動作を切り取っただけで充分に「誇り高きフラ」が踊れるのです。


ま、もっとも、かく言う私も日々精進の身でございまする。
明日からレッスン始め!
今日の記事を自らへの戒めとして、気持を新たに無限の彼方へさあ行くぞ!!(違)





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