甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

塩釜神社の芭蕉さん

2021年08月12日 05時52分32秒 | 芭蕉さんの旅・おくのほそ道ほか

 一度か二度、そこを通ったり、ほんの少し観光したので、私は松島を知った気分になっています。塩釜神社は行きたいと思いつつ、たぶん行ってないと思うんです。後から奥さんに「行ったでしょ」と言われたら、怖いけど、たぶん行ってないです。

 テレビで見ていたら、港近くにあって、本殿には長い階段を上らねばならないような感じです。横からスコッと入る方法もあるみたいだったけど、行ってないからわからないのだと思います。

 芭蕉さんみたいに、塩釜でお泊りしなきゃ、落ち着いた雰囲気は味わえないのかな。これもまたいつか、味わいたいなあ。来年か、再来年か、クルマで行けるといいんだけど。行くのはたぶん夏なのかな。

 早朝塩竃(しおがま)の明神(みょうじん)に詣(もう)ず。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重なり、朝日あけの玉がきをかかやかす。

 早朝、塩竃の明神を参拝しました。国守が再興されて、柱は太く、その彩りはきらびやかで、石の階段は何段も重なり続き、朝日に輝く玉垣を輝かせていました。



 かかる道の果て、塵土(じんど)の境(さかい)まで、神霊(しんれい)あらたにましますこそ、わが国の風俗なれと、いと貴(とうと)けれ。

 ここのような、みちのくの道の境目のところまで、こうして神様がいらっしゃいますのも、わが国のありがたいところで、とても尊い思いがしました。

 というか、芭蕉さん、私たちは素敵な自然の造形に対して素直に感動し、それを拝むような人たちでしたよ。長生きした樹木とか、大きな石とか、浜辺に隣接した小島とか、何でこんなのがあるの? 不思議だなって、過去の人々はそこへ行き、有り難がり、何か拝めるようなところを見つけて、結界のしるしの鳥居を作ってきたはずですよ。



 神前(しんぜん)に古(ふる)き宝燈(ほうとう)あり。かねの戸びらの面(おもて)に文治(ぶんじ)三年和泉(いずみ)三郎寄進(きしん)とあり。

 お社の前には、古いしつらえの宝灯がありました。その扉の面には「文治三年 和泉三郎寄進」とありました。

 この人って、誰なんだろう。そう、あの藤原三代の秀衡さんの子どもさんで、後を継いだお兄さんの泰衡さんと、義経さんの処遇をめぐって対立した忠衡さんということです。そうか、芭蕉さんは、いよいよ平泉に向かってくから、義経さん的な気分を盛り上げなきゃいけなかったんです。

 それで、何かにつけて「ほら、和泉三郎だ! 義経さんに関係のある人だ!」と取り上げてしまうようです。



 五百年来(ごひゃくねんらい)のおもかげ、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。かれは勇義(ゆうぎ)忠孝(ちゅうこう)の士なり。佳命(かめい)今にいたりてしたはずといふことなし。

 五百年来のその面影が、今、私の目の前に浮かび、本当に珍しいのです。彼は忠義・忠孝の人物でした。その名前は今にまで伝わり、慕わずということはないのです。

 改めて、「和泉三郎さん」って、どんな人か読者に確認させようというところでしょうか。



 まことに人能く道を勤め、義を守るべし。名もまたこれにしたがふといえり。

 人は自ら決めた道に励み、義理というものを守るのでしょうか。そして、人々に伝わるに名前は、その行いにつれて広がるものなのです。

 その通り、人というのはどんなふうに生きたのか、そこを問われるのだと思います。私はどれだけ人のために尽くしたのか、というところです。昨日はダメでしたよ。さて今日は? 今日は奥さんのため、大阪の母のために何かしなくちゃ! 何だか内向きな行動ですけど、まあ、それくらいしかできないというとこかなあ。

 日すでに午(ご)にちかし。舟をかりて松嶋(まつしま)にわたる。その間(あい)二里あまり、雄嶋(おじま)の磯につく。

 時刻は昼に近くなっていました。船を借りて松島に渡りました。およそ八キロほどで、雄嶋の磯にたどりつきました。

 やっと松島に着いたんですね。そこら辺の位置関係というか、私の中の松島地図がモヤモヤしています。

 駐車場がなかった。そこから名古屋に向かうフェリーに乗った。イオンが近くにあって、お買い物をした。そんなこんなしかないです。

 芭蕉さんに連れられて塩釜まで来た気分ですけど、まだまだ私の松島地図、道があいまいです。歩いてないんだもんな。


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