甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

蟹に(啄木) 1907

2022年04月29日 05時21分43秒 | 一詩一日 できれば毎日?

 これは前に読んだような気がします。でも、ふたたび出会ったから、取り上げてみます。

   蟹に

潮満ちくれば穴に入り、
潮落ちゆけば這(は)ひいでて、
ひねもす横にあゆむなる
東の海の砂浜の
かしこき蟹よ、今ここを
運命(さだめ)の波にさらはれて
心の龕(ずし)の燈明(とうみょう)の
汝(なれ)が眼(め)よりも小(ささ)やかに
滅(き)えみ明るみすなる子の、
行方(ゆくえ)も知らに、草臥(くたび)れて
辿(たど)りゆくとは、知るや、知らずや。

 前半は、カニの生活が書かれています。横歩きする生き物で、あまり目立ったことはしません。とても控えめで、ヒトはあまり好きではないし、自分たちの生活を懸命に守ろうとしている毎日でした。

 カニは、何が楽しくて生きているのか、そんな疑問は必要ありません。人間だって、楽しいことがあるようにいうけど、本人も何が楽しいのか、楽しいことをしていても、どこからか寂しい風が吹いてきたりするし、ただ毎日を過ごしているだけのようなところもある。

 「かしこき蟹よ」と呼びかける後半は、何のことを書いているのか、わからなくなります。



 でも、「龕 ずし」というのがヒントになるのかもしれない。観音開きで開く箱ですね。カニのお腹は観音開きではなくて、体から下の部分が押し出てきて、そこにたくさんの卵があって、波にぶちまけながら、母親は「どうか、元気で育ってきてね」と祈ってたりします。

 そして、子どもたちは、大きくなって母親のもとに戻ってくる。そして、一人前のような顔をして浜辺で暮らしていく。そういう子どもたちの未来を語っているような気がします。

 親は、子どもたちがどこへ行くのか、わかっているようで、最後までは見守り続けることはできなくて、ただ無事であることを祈る、それだけしかできないのです。

 21歳の啄木さんは、そんなことを考えながらカニを詩にしてみたんですね。



 そして、あの短歌が生まれています。

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

 この歌も、彼の前からの視点で見ていけば、泣けてきたのは、彼の個人的な「かなしみ」にあるのではなくて、生き物の生まれては死んでゆく、そうした運命(さだめ)をつくづく感じてしまうと、涙は出ないけれど、それでも生きていかねばならないのかと思ったりして、磯遊びに時間を忘れたくなるような、そんな気分だったのではないか、と思えてきます。

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