24【甚(はなは)だしいかな。吾が衰(おとろ)えたるや。久し、吾れまた( )に周公を見ず】
ひどいものだね。わたしの衰えも。もう長い間、○に周公を見なくなっている。
→あこがれの人はどこに現れる?
* 日常に流されて、過去の理想や○を失っていると気づいたら、使ってみましょう。
「あれっ、私、周公を見ていないなあ」
「何それ?」
「高校球児にとって甲子園、高校ラグビーにとって花園が見えないということよ」
「へーっ、シューコウってスポーツするとこなんだ!」
「うん、そういうことよ!」
というように、日常会話で使いたいものです。
周公の名は旦(たん)といいます。周の武王さん(初代の王様です!)の弟さんです。お父さんの文王さんが生きているときからずっと親孝行で、兄弟たちにも思いやりが深かったそうです。お父さんが亡くなってからは、兄の武王さんをサポートして、周がやがて殷を滅ぼすまで、ずっと兄を支え続けて、建国の功労者になります。
普通なら、中国の中心部を押さえたところで、それなりの取り分を要求し、ある程度の領地をもらってそこの王になるでしょう。けれども、周公さんはそんな山分け派ではありませんでした。そんな自分の利益よりも、家族で作り上げた周という国家が安定することが何よりも大事だと、領国の王になることはしませんでした。家来の1人として仕えていました。
だから、周という国の安定のために、周とは正反対の方向の地域を任されました。現在の山東半島のあたりが、太公望・呂尚(りょしょう)の領国になりました。やがて「斉(せい)」という国になります。北方・東方の押さえとしてここに座ることになった。その南側、山東半島の付け根のあたり、ここが一族の中の功労者・周公旦(しゅうこう・たん)の領国になります。二重の守りで中核にある周を守ろうとしたのでしょう。
もともと中国の西側から出てきた国の「周」は西側には安心感でもあったのでしょう。心配は北方・東方の異民族だった。南には長江があって、そこを越えて侵略する者はいないし、南の人は自分たちの世界だけで満足していた。それに、長江の南側は、当時の中国の世界には入っていなかったのかもしれません。
さて、周公旦です。国家が成立したのだし、自分の分け前ももらった。だったら、そちらで自分の土地のことを考えればいいのです。けれども、彼はそちらには行かなかった。息子をやっておいて、自分は周の国家を安定させるために努力するのでした。
殷を滅ぼしてから何年かして、兄の武王さんが病気になりました。すると、献身的な周公さんは、その快癒(かいゆ)を祈り、兄が元気になるのなら自らが犠牲になってもよいという誓いを立てます。その時に、たまたま神様から武王を助けるというおことばをもらい、神のお告げを兄に話すと、見事にお兄さんの病気は治癒します。
武王さんが亡くなってから、あとを継いだ成王をサポートします。そんな周王朝の文化を創建した人で魯の国の始祖。理想に燃える若い孔子のあこがれの対象だったそうです。《論語・述而》
答え 24・夢
★ 夢は実現するものだと、メジャーに行った直後の松坂大輔くんは語っていた。最初は良かったのに、ヒジのけがで9年ぶりに日本復帰。彼はふたたび昔の輝きを手に入れられるのか、この9年間のアメリカ生活で苦労したことを、もっと素直に表現して、人々への感謝を表明できたら、ふたたびやれるかもしれません。
アメリカへ渡ったときと全く同じ心構えなら、しばらくしたら引退かもしれない。どっちにしても、彼の人生なので、ぜひたくさんの人々に感謝できたらいいですね。
これは私への自戒でもあります。生意気になるな。自分をのさばらせるな。いつも謙虚であれ。そう念じていきます。
ひどいものだね。わたしの衰えも。もう長い間、○に周公を見なくなっている。
→あこがれの人はどこに現れる?
* 日常に流されて、過去の理想や○を失っていると気づいたら、使ってみましょう。
「あれっ、私、周公を見ていないなあ」
「何それ?」
「高校球児にとって甲子園、高校ラグビーにとって花園が見えないということよ」
「へーっ、シューコウってスポーツするとこなんだ!」
「うん、そういうことよ!」
というように、日常会話で使いたいものです。
周公の名は旦(たん)といいます。周の武王さん(初代の王様です!)の弟さんです。お父さんの文王さんが生きているときからずっと親孝行で、兄弟たちにも思いやりが深かったそうです。お父さんが亡くなってからは、兄の武王さんをサポートして、周がやがて殷を滅ぼすまで、ずっと兄を支え続けて、建国の功労者になります。
普通なら、中国の中心部を押さえたところで、それなりの取り分を要求し、ある程度の領地をもらってそこの王になるでしょう。けれども、周公さんはそんな山分け派ではありませんでした。そんな自分の利益よりも、家族で作り上げた周という国家が安定することが何よりも大事だと、領国の王になることはしませんでした。家来の1人として仕えていました。
だから、周という国の安定のために、周とは正反対の方向の地域を任されました。現在の山東半島のあたりが、太公望・呂尚(りょしょう)の領国になりました。やがて「斉(せい)」という国になります。北方・東方の押さえとしてここに座ることになった。その南側、山東半島の付け根のあたり、ここが一族の中の功労者・周公旦(しゅうこう・たん)の領国になります。二重の守りで中核にある周を守ろうとしたのでしょう。
もともと中国の西側から出てきた国の「周」は西側には安心感でもあったのでしょう。心配は北方・東方の異民族だった。南には長江があって、そこを越えて侵略する者はいないし、南の人は自分たちの世界だけで満足していた。それに、長江の南側は、当時の中国の世界には入っていなかったのかもしれません。
さて、周公旦です。国家が成立したのだし、自分の分け前ももらった。だったら、そちらで自分の土地のことを考えればいいのです。けれども、彼はそちらには行かなかった。息子をやっておいて、自分は周の国家を安定させるために努力するのでした。
殷を滅ぼしてから何年かして、兄の武王さんが病気になりました。すると、献身的な周公さんは、その快癒(かいゆ)を祈り、兄が元気になるのなら自らが犠牲になってもよいという誓いを立てます。その時に、たまたま神様から武王を助けるというおことばをもらい、神のお告げを兄に話すと、見事にお兄さんの病気は治癒します。
武王さんが亡くなってから、あとを継いだ成王をサポートします。そんな周王朝の文化を創建した人で魯の国の始祖。理想に燃える若い孔子のあこがれの対象だったそうです。《論語・述而》
答え 24・夢
★ 夢は実現するものだと、メジャーに行った直後の松坂大輔くんは語っていた。最初は良かったのに、ヒジのけがで9年ぶりに日本復帰。彼はふたたび昔の輝きを手に入れられるのか、この9年間のアメリカ生活で苦労したことを、もっと素直に表現して、人々への感謝を表明できたら、ふたたびやれるかもしれません。
アメリカへ渡ったときと全く同じ心構えなら、しばらくしたら引退かもしれない。どっちにしても、彼の人生なので、ぜひたくさんの人々に感謝できたらいいですね。
これは私への自戒でもあります。生意気になるな。自分をのさばらせるな。いつも謙虚であれ。そう念じていきます。