甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

北の海/湖上(中原中也)の水

2016年02月17日 18時42分16秒 | 一詩一日 できれば毎日?
 どういうわけか、中原中也が日曜の午後から急に気になりました。もう瞬間的なもので、やがてすぐに忘れてしまうと思うのですが、とりあえず、気になった作品をいくつか取り上げています。

 夜、寝る前に文庫本を広げて、「オッ、これいいやん」と思ったのを、奥さんに読んであげました。日曜の晩は聞いてくれましたが、もう最近は聞いてくれません。読み方が下手だったのか、中也さんが気に入らないのか、私の声が気に入らないのか、「ウン、聞かせて!」とは言ってくれません。

 今晩は、もう無理矢理「読み聞かせ」はしないことにします。「ねえ、何か読んで!」なんて、たぶん言わないと思うので、もう1人で読むことにします。

 「北の海」は、とっかかりが気になりました。「人魚のことを書いているんだ。どんなメルヘンを書いてくれるんだろう」と、やたら気になります。

 海が荒れることの理由も解明してくれそうで、期待してしまいます。どんなことになるんでしょう。海は、気圧やら寒気団が来るから荒れるのではないのですね。知らなかった!



★   北の海

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。


 全部で三連の詩です。そんなに詳しいメルヘンは書けないはずです。ただ、神話的な感じで、とてもシンプルな内容です。

 海が荒れるのは、おとぎ話の世界では、人魚が激怒して嵐を起こすのだ、という理由説明が昔はありましたね。それをメルヘン推進主義の中也さんが否定します。「えっ、どうして?」と素朴なメルヘンフアンは不安になるでしょう。寝てたら突然海に投げ出された感じです。

 推進主義とはいえ、既成のメルヘンは認めないんでしょうね。独自の世界がないとダメというのが中也さんなのかもしれない。だから、最初は否定から入ります。

 一度落としておいて、あとでじんわり持ち上げるというパターンですか。どうかなあ。

 海には「浪」という独自の存在がいる、というのが中也さんの新説です。ここで私たちはビックリしなくちゃいけません。浪は独自の人格で、それ自身が意志を持つ存在らしい。海が荒れるのは、人魚起源説ではなくて、原因は「浪」ということです。イマイチよくわかりませんねえ。

曇つた北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪《のろ》つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。




 浪が「歯をむいて」「空を呪(のろ)」うなんて、こういう無生物が、人間のようなことをするんですから、擬人法ですね。少し意外な感じです。この展開にはついていけなくなりそうですけど、浪が空をのろう、なんて少しファンタジーというのか、空と浪との関係が、どうもわからない。

 でも、ああ、そういうことなんだ。空は浪にねたまれるようなことをしたというんですね。空って、そんなに悪いヤツだったんです。知らなかった。夕焼けにバカヤローと叫んだり、日の出に「家内安全、世界平和」と祈ったり、何だかわからないことをしている私たちですもんね。

 「いつはてるとも知れない呪(のろい)」とは、浪がそんなに怒りっぽいなんて、そして、ずっと呪い続けているなんて、どうしてそんなに強い感情を持っているんでしょう。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。




 この三連目、最初の四行と同じです。ですから、それを聞かされた私たちは、これはどういうことなんだろう。「浪」がそんなに怒りっぽいなんて、どういうわけだと、疑問が続いていくのです。

 どうやら水に人格があるというのが、中也さんの発明ですね。だったら、他でもそういうことをしているかもしれないと、もう1つ見てみましょう。



★   湖上

ポッカリ月が出ましたら
舟を浮かべて出かけましょう。
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしよう。

沖に出たらば暗いでしょう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえましょう、
あなたの言葉のとぎれ間を。

月は聴き耳立てるでしょう、
すこしは降りても来るでしょう、
われら接吻(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでしょう。


 水や波よりも、月が主役の詩です。それよりも、湖の上に舟を出すということが大事です。そして、舟の中の2人が、自然と共鳴しあって、自然の中で解放されるのが大切ですね。

 まあ、何となく、気分は上々です。舟の上でキスしてもいいかもしれません。個人的なことをいうのは何ですが、私はイマイチ自信がないので、暗闇に舟をこぎ出すことはできません。

 どこかに船底をぶつけるかもしれないし、湖の真ん中で突然ひっくりかえるかもしれないし、そうしたらキスどころではないですし、ロマンチックな雰囲気にはなれませんね。

 詩の世界だから、フィクションとしてとらえなきゃダメですね。現実的ではいけない。そして、水はどうなっているんでしょう。

 キスする2人をはやしたてたりしないですか。


あなたはなほも、語るでしょう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでしょう、
けれど漕ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮かべて出掛けましょう、
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしょう。


*歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにしてみました。せう→しょう などです。



 とうとう水は活躍しなかった。ふなべりを打つだけでした。それよりも、舟の上で、ひたすら「あなた」のおしゃべりを聴くということです。だったら、漕ぐのをやめて、ゆっくりすればいいのに、舟を漕ぐのはやめないそうです。

 どうして何だかせっかちなのかなあ。もっとゆっくり夜の水上散歩を楽しめばいいのに、やたらめったら漕ぐんですね。力自慢なのかなあ。

 私ごとでいえば、折角2人で舟の上なんだから、もっとゆったり波の音とか、森の響きとか、月の動き、星のささやき、そういうのを聴いて欲しいのですが、中也さんの世界だから、文句は言いますまい。

 水の人格は見つけられませんでした。何だかこちらに変な魂胆があると、中也さんの世界は遠ざかっていく感じです。もっとポッカリしなきゃいけません。

 今は、お腹が空いてて、ポッカリしてしまうのかもしれません。反省です。


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