
徒然草もまた読み直さなきゃいけない気がします。でも、その前に未整理のものを貼り付けてます。137段の、私にはしばらくしたらありそうな、いや、誰でもどこにでもある「日常の中の死」がテーマです。
かの(賀茂の祭り見物の)桟敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ。
かの(賀茂の祭り見物の)桟敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ。
あの(祭り見物の)桟敷の前をたくさん往来する人で、顔を見知っているものが多数いることによって次のようなことがわかりました。
えっ? 何がわかったんだろう?
都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。ひと日にひとり、ふたりのみならんや。
都の中に住んでいる多くの人が、死なない日はあるはずがない。それも一日に一人や二人だけであろうか。それはもう毎日たくさんの人たちが亡くなっているのです。まあ、わざわざ断る必要もないくらいにたくさんいらっしゃいます。だれもそのことに関してコメントはしないですけど……。

鳥部野(とりべの)、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。
鳥部野、舟岡などの火葬場や、そうでない外の野山にしても、死者を送り葬る数の多い日はあるけれど、亡くなった人を送り葬らない日はありません。
鳥部野は京都の東部、舟岡は京都の北部の地名です。どちらも火葬場があった所だそうで、死を語る時には兼好さんとしても、語らざるを得ないような場所だったのでしょう。
されば、棺をひさくもの、作りてうち置くほどなし。
ですから、棺桶(かんおけ)を商う者は、作ってそのままにしておく暇もないのです。商売繁盛を喜ぶべきか、悲しむべきか。
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。
若さに関係なく、強健さにも関係なく、予測できないのは死のやってくる時期である。
「死期」は、現代語では「しき」とよみ、「死期が迫る」などと使いますが、死ぬ時期、いまわの時、臨終の時という意味の「死期」は何と読むでしょう? 。、古語でのよみは? 「しご」と読むようで、微妙に使い方などが変わってきたし、読み方も違っています。

今日までのがれ来にけるは、ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかに思ひなんや。〈137段〉
今日まで死をまぬかれて来たのは、めったにない奇跡なのです。わずかの間でも人生をのどかなものと考えていられようか。
今日まで死をまぬかれて来たのは、めったにない奇跡なのです。わずかの間でも人生をのどかなものと考えていられようか。
それくらいに、私たちの日常は、戦場でいくさを始める直前の武士と同じで、ギリギリのところにいるのだと兼好さんは言います。
短い人の人生を上から見たら、それはもう人の生死なんて簡単にやって来るものだ。ちょうどよその家の子どもさんがあっという間に大きくなるのと同じで、人の生き死にもそんなもので、他人にとっても自分にとってもあっという間だし、すぐそこにある、ということなんです。
これは理屈ですね。みんなそれは理解しているのだと思います。でも、だからといってションボリしていられないし、いつでも私たちの死は大きく開かれている。とにかく、しっかり意識して生きていかなきゃいけないです。

この章段はとても長くて、冒頭は「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」というところからスタートしています。
桜の花は盛りだけを、月はくもりのない満月ばかりを見るものだろうか、いや、そうじゃないですよね。完全なものばかりに私たちの人生は取り囲まれているでしょうか、という問いかけでした。
確かに、毎日満月が出ていたり、ずっと桜の花がずっと満開だったら、誰も見向きもしないでしょう。常に移り変わっていくから、私たちはその変化の中の一番ステキなものを大事にしたりするのだと思われます。