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taddy // graphic designer / artist / poet

b i r t h

2005-11-03 | cafe_monologue


11月は僕にとって特別な月。
両親が結婚した月であり、僕が生まれた月でもある。

だから何というわけでもないけど、この一か月は自分の中でどこか特別な雰囲気がある。
「“生”の神秘」というものを意識させられるというか。

同時に家族はもちろん友人たちの誕生日も、僕にとっては自分の誕生日同様、特別な日。
いや、もしかすると自分の誕生日以上にうれしいかもしれない。
あらためて自分の人生をすばらしいものにしてくれていることを痛感するから。
彼らのおかげで人生がすばらしいものだとわかるから。

「この世に来てくれてありがとう。
 僕と時間と心を一緒に分かち合ってくれて、心からありがとう。
 君がそこにいてくれることが何よりもうれしい。」って。

birth(誕生)の語源は、breath(息)と同じ語源と聞いたことがある。
「生まれる」ことは「息」をしはじめること。
「生」と「息」は密接に結びついている。

日本語でも同じ。
「いきる」と「いき」。
どちらも「いき」という言葉から発している。

そして、「いき」とは単に「生物学的に生きる」ことじゃない。
そのことは昔の人たちは洋の東西問わず知っていたのかもしれない。
日本では「いき」は「意気」とも書く。
漢字の「息」は「自分の心」と書く。
ラテン語の「spirare(呼吸する)」の名詞は「spiritus(精神、霊)」。
「生」とは「ココロ」と言えると思う。

だから昨日の記事「b u s y」にもつながるが、ココロを亡くしてしまうことは、人と
して「死んでしまっている」状態なんだと言えるのかもしれない。

その一方で、周囲の人のココロの中に輝く何かを見いだすとき、ちょっとした優しさ
であったり、子どものような純粋さであったり、謙遜さであったりするが、僕は最高
に幸せな気分を味あわせてもらえる。「生きるってすばらしい!人間ってすばらしい!」
というよろこび。

特に「友」として密接につながっているのは、こういった部分を交わりの中でより強
く感じさせてもらえるからなんだと思う。「ココロを」、つまり「生」を、もっと言
えば「生きること」を分ちあっていることだから。

taddy


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