m o n o l o g u e

taddy // graphic designer / artist / poet

b e l i e v e

2005-10-31 | cafe_monologue
人を「信じる」というのはとても難しい。
家族であれ恋人であれ友人であれ、大切な人をも「信じる」ことは難しい。
ある時は二度と離れられないくらいの心高まる結束感を感じるが、ある時は「自分のことを本当に大切に思ってくれているのか?」と不安になる。

ヘブライ語で「信じる」は「アニマーム」という。
はじめて「アニマーム」の語源を聞いたとき、僕は目からウロコが落ちる思いだった。

「アニマーム」とは「ぴったりとくっつく」ということ。
「信じる」とは「相手にぴったりとくっつくこと」、「相手と一体化すること」と言えると思う。
つまり、相手がどのような状態であれ、あるいは自分がどのような状態であれ、相手にぴったりとくっつき続けることなんだ。

これって、「愛」に通じるものがあるように思う。

以前、「愛」とは「自分という存在を無条件に相手に与えつくすこと」ではないかと僕はコメントした。
つまり、「相手がどのような状態であれ、常に無私に自分を与え続けること」。
これが「愛」。

「信」も同じ。
すでに述べたように、「相手がどのような状態であれ、常に相手にぴったりと寄り添うこと」。
これが「信」。

ココロが疑いや絶望に陥るときも、決して信じることをやめてはいけないんだね。

ツラくて周囲の人やこれからの展望を信じることが難しく感じるとき、いつも元気つけてくれる歌がある。
Mariah CareyとWhitney Houstonがテュエットで歌った、「When You Believe」。
その一部をご紹介したい。みなさんのココロも元気がもらえますようにと。

taddy

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"When You Believe"

Many nights we've prayed
With no proof anyone could hear
In our hearts a hopeful song
We barely understood

幾多の夜、私たちは祈ってきた。
誰かが聴き届けてくれるという証拠もなかったけど。
だけど、私たちの心の奥には希望の歌があった。
それが何かはわからなかったけど。

Now we are not afraid
Although we know there's much to fear
We were moving moutains
Long before we knew we could

私たちはもう恐れない。
心配事は限りなくあることは分かっているけど。
私たちはすでに山々を動かしていたんだ。
それが可能だと気づくずっと前にね。

There can be miracles
When you believe
Though hope is frail
It's hard to kill

奇跡は起こりうるんだ。
信じるときに。
希望は消えてしまうほどに弱々しいけど、
それを絶やすことはできない。

Who knows what miracles
You can achieve
When you believe
Somehwo you will
You will when you believe

いったい誰が知っているというの?
あなたがどのような奇跡をなし得るかって。
信じるときに、
それは可能なんだ。
信じるときにね。

In this time of fear
When prayer so often proves in vain
Hope seemed like the summer birds
Too swiftly flown away

恐れに陥っているとき、
祈りも虚しく感じるとき、
希望はすぐに羽ばたいていってしまう夏鳥たちのよう。

Yet now I'm standing here
My heart's so full, I can't explain
Seeking faith and speaking words
I never thought I'd say

だけど、私はここにしっかりと立ち続けている。
言い表せないけど、確信に満ちて。
信じ続けながら、
そして想像もしなかったような言葉を語りながら。

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2005-10-30 | cafe_monologue


朝崎郁恵。
奄美出身の唄者(島唄の唄い手)。

今日、天王洲アイルであった彼女のライブにいってきた。
僕が一押しの中孝介さんも出演していたこともある。
それにしても70歳とは思えない元気さ。
三線だけでなく、ピアノや中国の楽器、アルフー(二胡)を交えての島唄は、とても新鮮だった。
彼女の独特の歌声が原始の森と海へと導くよう。

しかし、今日唄ったのは島唄だけではなかった。
一番僕のココロに残ったのは「嘉義丸(かぎまる)のうた」。

戦時中の1943年5月。
戦火を免れる親と子供たち500人を乗せた嘉義丸が、奄美大島の沖合で米軍の魚雷によって撃沈される。
300人以上が海の藻屑と消えていったこの事件。
当時はその後も公に公表されることがなかった。

しかし、生存者からの証言を聞いた朝崎さんの父親が、その話に心を痛めて一つの鎮魂歌を作った。
それがこの「嘉義丸(かぎまる)のうた」。

長くなるがその歌詞を紹介したい。
情景を思い浮かべながらゆっくりと読んでほしい。


「嘉義丸(かぎまる)のうた」

散りゆく花はまた咲くに
ときと時節が来るならば
死に逝く人は帰り来ず
浮き世のうちが花なのよ

戦さ戦さの明け暮れに
戦火逃れてふるさとへ
帰りを急ぐ親子連れ
嘉義丸たよりに船の旅

五月の二十日に大阪を
親子笑顔で船出して
屋久島みなとに入るまでは
雨風もなく波もなく

屋久島みなとをあとにして
二十六日十時半
大島岬も目について
宝の島の沖合で

ああ憎らしや憎らしや
敵の戦艦魚雷艇
打出す魚雷の一弾が
嘉義丸船尾に突き当たる

親は子を呼び子は親を
船内くまなく騒ぎ出す
救命胴衣を着る間なく
浸水深く沈みゆく

天の助けか神助け
ふたたび波間に浮き上がり
助けの木材手にふれて
親子しっかり抱きしめる

思う間もなくいつまなく
追いさらわれて海原へ
これが最期の見納めか
親子最期の見納めか

波間の響く声と声
共に励まし呼び合えど
助けの船の遅くして
消えゆく命のはかなさよ

親を恋しと泣く子らの
いとし子呼んで泣く親の
嘆きの声が聴こえたら
御霊よ天の星となれ


僕は情景を思い出しながら、消え行く親子の気持ちを考えると、ココロが締め付けられた。
たくさんの人のいる中だったが、涙が止まらなかった。

あなたは、あなたにとって大切な人たちを大切にしていますか?

taddy


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2005-10-29 | cafe_monologue


昨日の試合、隆平は負けてしまった。
出だしがいつも以上に好調で、動きにもパンチもキレがあった。
しかし途中で一度バランスを崩し、転んでしまった。
そこを相手に取られてしまった。
殴られ続けるのを見ていて、胸が裂けそうだった。
席を飛び出して駆け付けたかった。

試合の様子を思いだし、本人の気持ちを考えると眠れなかった。
これまでが好調で勝ち続けてたばかりに、なおさら落胆も大きいだろう。
今朝電話をかけると、元気そうな声を聞けてひとます安心した。
本人はまだ「悪夢」から覚めやらぬ状態だろうと思うが、とりあえずお互いの気持ちが通じたので安心した。

僕は格闘技の経験もない。
だから、格闘技を経験した者でないと分からない部分もたくさんあると思う。
余計な「お世話」をしているのかもしれない。

自分も以前はよくこう言ったものだ。
「放っといてくれ。」
周囲が自分の気にしてくれて、いろいろと声をかけてくれる。
だけど、いつもこう思っていた。
「自分の境遇にいないあなたは何も分かってないし、余計なお節介は焼かないでくれ。」と。

たしかに自分の境遇は自分以外の人には100%分かり得ることはない。
だけど、以前「u n d e r s t a n d i n g (10/21)」の所でも書いたように、相手をありのまま100%受け入れることは可能だ。
そしてそれが「相手を分かる」ということだ。
「相手の境遇」云々を頭で「理解すること」が大切なんじゃない。
「相手をありのまま受け入れる」こと、「相手とすべてを分かち合う」こと、が大切なんだ。

「放っといてくれ。」
この言葉の裏側にあるのは、「あなたと自分のことを分かち合う気はない。」ということ。
つまり、自分のココロの状態やココロの成長度を知るバロメータだと思う。
「相手にココロを開けているか?自分の殻に閉じこもっていないか?」という状態を知るバロメータ。

「understanding」は同時に「compassion」かもしれない。
「compassion」は「哀れみ、同情」と訳されるが、ちょっとニュアンスが違う。
「com(=共に)passion(=苦しむ)」という意味だから。
そこには、気持ちだけで相手の境遇をとらえるのではなく、「存在対存在」の全面的な関わりあいがある。

ここ数年、僕自身もいろいろと変わってきた。
ココロの中に相手を招き入れることができるようになってきた。
魔法のようにある日突然、「今日からココロを開くことができるようになりました!」となるのではない。
周囲との交わりによって、一進一退しながらココロも成長していく。
自分の思惑通りにならない中も、忍耐してありのまま現状を受け入れていくことで成長していく。

TAK隆平剣ちゃん
この3人との関係が特に僕の成長を助けてくれている。
お互い、出会った頃との関係に比べると、はるかに深くなりはるかに本質的になっている。
ほんとうにありがとう。
隆平、次の試合、期待してるからな (^_^)

taddy


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o o p s !

2005-10-29 | cafe_monologue
ゴメンなさい!

「b i t t e r n e s s」の記事ですが、コメントができない状況
になってしまっていました・・・。

いろいろなコメントをくださろうとしたみなさん、ご不便かけて
ほんとすいません!設定を修正しましたので、これでOKです。

引き続きよろしくお願いします!

taddy

b i t t e r n e s s

2005-10-28 | cafe_monologue


「すこーしニガい感じがしますよー。」
虫歯を除去した歯の中にクスリを詰めたとき、先生がそう言った。

ニガさが口の中に広がる中で、「確かになー。」と思い浮かんだ。
「良薬、口に苦し。」
虫歯が再発しないためにも、ニガくてもそれを防ぐクスリは大切。

これって、人間の毎日の中でも同じだなと思った。

年齢を重ねるにつれ、そして責任のあるポジションを任せられるにつれ、「ホンネ」で接してくれる人が少なくなってくるように感じる。
仕事でもそういう場面によく出くわす。
ミーティングの際、「権威的」に話している人。
実際は大した内容でもないのに、含蓄ある話を拝聴しているかのようにうなずき続ける周囲。
自己満足的な冗談を飛ばし続ける人。
全然面白くもないのにわざと笑う周囲。

上下関係に重きを置く集団の中では、円滑なコミュニケーションをとる上で、こういったことも必要だろう。
けれど、その裏側にあるものに目をやると、こういったコミュニケーションは結局不毛なもののように思う。

周囲は、相手を思い遣ってそう反応しているのではなく、「自分は嫌われたくない」という思いがホンネだろう。
一方、周囲の反応によって自己満足感をくすぐられ、満たされる人たち。
つまり、まったく本質的でないコミュニケーションにしかなっていない。
うわべだけのやりとり。

そういう中で、いつも「ホンネ」で接してくれる人の存在は何よりも貴重。
自分の良い部分は、必要以上でも以下でもなく、等身大のありのままに「良い」と素直に評価してくれる。
自分の欠けている部分は、包み隠さず「欠けている」とダイレクトに指摘してくれる。

正直、自分の欠けている部分に目を向けることは難しい。
そう指摘されるとグサッとくる。
だけれど、謙虚に自分を見つめられないと、傲慢な人間に成り上がっていくだけ。
そうなると一番惨めな思いをするのは「自分」。

「良薬、口に苦し。」

常に僕のココロの健康を保ってくれる「良薬」である友人たちに感謝するばかり!

taddy


P.S. 今日、隆平の試合が後楽園ホールであります。みなさんの応援、よろしくおねがいします!
    メッセージ等はこちらへ↓
    http://blog.ryuhei-sato.com/


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2005-10-27 | cafe_monologue


「人マネ」と聞くと、なんだかネガティブなイメージを抱いてしまう。
仕事にしても、デザインにしても、誰もやってないこと、誰も作ってないもの、自分独特のカラーのあるものをやりたいと感じる。

だけど、ゼロから「独自のもの」ってあるんだろうか?と思った。

親の話方、親のしぐさなどマネながら育ってきた。
学校では先達が残したもの、「発見」したものを吸収してきた。
仕事でも、入社後に先輩に習ったり、仕事のやり方を参考にして来た。

僕たちは、「自分のものでないもの」を取り入れて、吸収することで、新しいものを作りだすことができるんだと思う。
それはちょうど「食事」に似ている。
「食べ物」となるのは「他者」だ。
お米にしても。野菜にしても、肉にしても、これらは「僕以外」の存在物。
それらをありのまま食べることで、それらが僕たちの血肉となっていく。
明日の自分の体を作っていく。

マネすることは、新しいものを作り出していくために必要なことなんだなと改めて思った。
マネすることから、「独自」のものが生まれてくる。
ひらがなやカタカナは中国の文字(漢字)から生み出された。
ゴッホは日本の浮世絵に影響されて新しい感覚の絵を描いた。

そう考えると、僕たちの生活はみんなつながっている。
人からいただいたものが、自分のものとなり、磨きをかけ、次の世代がそれをマネて、磨きをかけ、また次の世代へとつながっていく。
だから、人間の世界が終わるまで、すべてのものはブラッシュアップされ続ける。
すごいことだと実感した。

人間の世界はやはりどこにおいてもつながっているんだな。
だからこそ、ひとりで独占すること、自分の手柄のように誇ることはバカらしい。

taddy


P.S. 昨日、J-WAVEのGROOVE LINEに平井堅がゲストとして出演。
   その公開トーク参加に当たったので行ってきました。
   ライブには何度か行ったことあるけど、至近距離でお顔を拝見したのははじめて!
   奥目でした。
   あいかわらずの絶妙トークと女性陣の黄色い声に圧倒されました・・・。今日はふくらはぎが痛いです(>,<)


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f o r g i v e n e s s

2005-10-26 | cafe_monologue


日々の生活の中で、僕がいつも自分自身への「挑戦」だと感じること。
それは相手を「赦す(ゆるす)」ということ。

「あいつ、ゆるさないからなっ!」

実際に口にしたり、心の中で怒りを爆発させることが度々ある。
僕は短気な人間だから、ガマンにも限度を感じるときがしばしばある。
一度シャットダウンしてしまったココロを相手に再び開くのはなかなか難しい。
頭では「赦さないといけない」と分かっていても、ココロが拒否してしまう。

だけど、僕たちは相手を赦さないと前に進んでいくことはできない。
「赦さない」とは、過去のある一点に自分を留めてしまうことだから。
相手を拒むだけではなく、何よりも自分の成長を妨げるものだから。

感情は秋の空のようにコロコロ変わるもの。
今日は嵐のように吹きまくり、明日は穏やかな海のよう。
コロコロと変わるものに振り回されてはいけない。
感情に流されると、物事の奥に潜んでいる本当に大切なものを失いかねない。
ほとぼりが冷めたとき、僕たちは後悔することが多々ないだろうか?

誰しも間違いを犯すもの。
自分の足りない部分は棚に上げ、相手を責め立ててないだろうか?
自分自身に直さなくてはならない部分があるのに、相手の欠点ばかりを数え上げていないだろうか?
自分も誰かに赦されたいならば、自分を困らせる相手を赦さなくてはいけない。

「赦す」ことができたとき、人は本当の自由を得る。
ネガティブな感情のがんじ絡めから解放される。
過去から解放される。
そして、すべてが喜びに変わる。
そうすることで、真の人間になって行くことができるんだと思う。

taddy


P.S. 以前紹介したことのあるボブスレー選手の瀬間さんのblog開設をお手伝い
   させていただきました♪みなさんの応援、よろしくです。
   http://blog.goo.ne.jp/maccho_1973/

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t i t l e

2005-10-25 | cafe_monologue


社内便が届いた。
送り主を確認する。
以前はまれに僕の「肩書き」が書かれて送付されてきたものだが、最近つかなくなった。
よいことだ。
個人的に「肩書き」で呼ばれるのが大嫌いだから。

僕の勤務先はいわゆる大企業だが、「肩書き」というものが存在しない。
いや、実際にはあるのだが、「対外的な意味」での肩書きでしかない。

なので、社内ではみんな「さん」付け。
部長であろうと、役員であろうと、社長であろうと、会長であろうと、みんな「○○さん」。
自分の会社ながら素晴らしい社風だと思う。

肩書きとは、対外的に自分の職務や会社・組織内での位置を示すためのものに過ぎない。
だから、「肩書き=自分」ではない。
けれど、社会では「肩書き=自分」となってしまっている場合が多いように思う。
これも一つの自己満足の世界。
「肩書き」が自分を「何者か」にしてくれているように感じ、心地よいからだろう。

でも、 僕たちが死んだとき、神さまはこう聞いてくるだろう。
「お前の“肩書き”は?(what is your title?)」ではなく、「お前は誰か?(who are you?)」と。
その時、僕たちはどう答えるだろう?
自分の業績を並べ続ける?
でも、それらは自分の手柄でもなんでもない。
周囲の助けがあってのこと。つまり自分だけでやり遂げたものではない。

神さまは遮ってこう聞きなおすだろう。「で、お前は誰なのか?」と。
つまり、全てを取り去ったときに残る僕たちの本質部分に問いかけてくる。
もちろん神さまは僕たちのことをすべて知っているはず。
神さまが見ているのは「外面」ではなくて、僕という存在の「本質」部分。

この世での一生を全うしたとき、僕は人としてどのような存在になれているだろうか?
「Who are you?」と聞かれたときに、なんて答えられるのだろう?

taddy


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p u r i t y

2005-10-24 | cafe_monologue


電車の向かい側の座席に小さな男の子のいる家族が座っていた。

多分、2歳くらいだろうか。
目がくりっとしていて、すべすべの肌。
たまに見せる大人っぽい表情やしぐさが憎たらしいくらいに可愛らしい。
しばらく観察していると、そのうち目が開かなくなってウトウトし始めた。
そして、お父さんの膝の上に抱かれながら、横のお母さんに寄りかかって寝てしまった。

ありふれた光景。
でも、なんて美しい光景なんだろう!
見ているだけでココロの中に喜びがジワジワとあふれ、癒される。

両親の間で安心しきってる寝顔。
何気ない家族の日々の生活の中のワンシーン。
でも、何気ない生活の中にこそ、真の美しさがある。
真の生きる「神秘」がある。

この子は成長し、いつか今の自分と同じ視線から違う子を見るかもしれない。
その時、何を考え、何を思うのだろう?
その時、周囲はどういう環境になっているのだろう?

次の世代であるこの子たちの道を準備するのが、今大人である僕たちの役目。
子どもの清らかな顔を見ることで、気づかされることがないだろうか?
本来大人たちは、小さく大切な命を守るのがその役目なのではないか?
僕たちは、純真さを破壊してしまう「道」をせっせと作りあげていないだろうか?
自分たちの手で住みにくい世界を作りあげていないだろうか?
己の利ばかりを優先し続けることで。

taddy

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l o v e

2005-10-23 | cafe_monologue


今朝、実家の家族と電話で話した。

家族の一員の病気を通して、ココロどうしのふれあいが深まっているのを感じる。
今までお互いの間に作り上げていた様々な壁が、はがれてきているからだ。
そして、自分が家族を愛し、家族も自分を愛してくれていることを実感した。

「愛」ってなんだろう?
僕は次のように考える。

愛とは、「自分の存在全てを、無条件に、相手に、与え尽くすこと。」

僕はずっと思い悩んできた。
「自分は人を愛することができないんじゃないか?」
「自分は誰からも愛されてないんじゃないか?必要とされてないんじゃないか?」

だけど、30を過ぎて、そしていろいろな「逆境」を通して精錬されていく中で、見えてきた。
「自分は人を愛しているし、自分は愛されている。」と。

もう一度言おう。
愛とは、「自分の存在全てを、無条件に、相手に、与え尽くすこと。」

つまり、「愛」は「感情」じゃないんだ。
心を振るわす「甘い感情」が「愛」なのではない。
「感情」はコロコロと移り変わる。
「今日」は「好き」と感じても、「明日」は「嫌い」と感じているかもしれない。
相手が順風満帆ときは「好き」と感じても、相手がすべてを失ったら去っていくかもしれない。
だから「感情」の上には、「自分の存在全てを、無条件に、相手に、与え尽くすこと。」は打ち立てられない。

「愛」は「意志」なんだと思う
たとえ相手の容姿がどうであれ、
たとえ相手の社会的地位や才能がどうであれ、
たとえ相手の状況がどんな状況であれ、
こういったものに左右されずに、自分自身を無条件に与えつづけること。
秋の空のように移り変わる「感情」の上では、これは成り立たない。

たとえば、息子が犯罪を犯したとしても、その母親は怒り悲しんでも、息子を愛することをやめないだろう。
どんなことがあっても、どんな時にも、息子を愛し続けるという固い「意志」の上に成り立っているから。

僕の家族も僕の周囲の親友たちも、みんな不完全な人間。
なので、愛の与え方もバラバラだし不器用なところもたくさんある。
それによって傷付けられることもある。
だけれど、バラバラで不器用ながらも、ずっと僕に愛を与え続けてきてくれている。
そして、僕も自分にとって特別に大切な彼らを愛している。
たとえ彼らが僕にひどい仕打ちをしたとしても、やはり愛している。彼らから離れるつもりは全くない。

今は亡きマザーテレサが言っていた。
「痛むまでに愛してください」と。
これからもいろんなことがあるだろう。山あり谷ありだろう。
でも、どんなにココロが痛むときも逃げないで、もっともっと自分自身を与えていきたい。
人生の終わりに、与えなかったことで後悔しないためにも。

taddy


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f u r u s a t o

2005-10-22 | cafe_monologue


今日はアンジェラ・アキのインストアライブに行ってきた。
彼女の心のこもった歌声に癒され、涙が出そうだった。
そんなアンジェラの曲でも有名な「HOME」。
そう、「ふるさと」という意味。

「ふるさと」ってとってもきれいな日本語だと思う。

ふるさとは、そこに帰るとほっとできる「所」。
自分が自分に戻ることができるかけがえのない「所」。

生まれ育って慣れ親しんだ場所も「ふるさと」。
家族、恋人、親友も「ふるさと」。
みんな「ふるさと」。

僕も誰かにとっての「ふるさと」でありたい。
「お帰り」って自分のドアを開けて迎え入れたい。
「家出」した人たちも喜んで迎え入れよう。
「ここ」は彼らの「家(home)」なのだから。
僕のもとを訪れる人が誰でも、僕のココロの中で憩ってくれることができますように。

そのためにもココロをいつも掃除しておかないとな。

taddy

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u n d e r s t a n d i n g

2005-10-21 | cafe_monologue


「理解する」って難しい。

「言ってること、よく分かるよ。」
「その気持ち、とても分かるよ。」

このような言葉を周囲にかけている自分がいる。
だけど、実際は分かっていない。
「分かっている」とあくまで「自分の視点から判断」しているだけだから。

自分という存在は世界には一人しかいない。
相手という存在も世界には一人しかいない。
世界に一つしか存在しないものどうし。
だから、自分のことを相手は100%理解することはできない。
同様に、自分は相手のことを100%理解することはできない。

では「理解する」ってなんだろう?

英語では「understand」。
「under(下に)」+「stand(立つ)」。
つまり、「相手を理解する」=「相手の下に立つ」。
「上」から頭ごなしに相手をとらえようとすることではない。
「下」から自分の存在全体で相手を支えること。
言い換えれば、「相手をありのまま受け入れること」。

頭で理解できなくていい。
相手の姿をありのまま受け入れればいい。
これが「理解」なんじゃないかな?
自分の身を相手の下におかないかぎり、僕たちはいつまでも相手を理解することはできないかもしれない。

taddy


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t o m o

2005-10-20 | cafe_monologue


家族が入院していることは以前書いた。
今、身体的な「痛み」や精神的な「痛み」と闘っている。

「痛み」について思い巡らせていた。
ケガによる「痛み」。
病気による「痛み」。
中傷による「痛み」。
いろんな肉体的「痛み」、精神的「痛み」がある。

でも、人間にとって一番の「痛み」はこれらの「痛み」じゃないように思う。
もっとも「痛む」のは、自分が「誰からも受け入れられていない」と感じることじゃないだろうか?
なぜなら、人間の存在そのものと直結しているから。
存在を否定されているのも同様だから。

僕たちはたくさんの人と日々関わって生きていく。
だけど、「友」と呼べる人って何人いるだろう?
損得なしに素のままでつきあえる関係ってどのくらい?
完全に信頼して自分のすべてをさらけ出せる相手がいる?

僕にはそういう「親友」がいる。
いたらない僕を受け入れてくれる「友」がいる。
どんな状況でも「帰る」ところがあるから安心できる。
ツラいときもかたわらにいてくれるから安心できる。
自分にとって完全無欠な人間が「友」なのじゃない。
欠点がたくさんあるからこそ、たくさんのことを一緒に分かち合うことができる。
「友(とも)」は「共(とも)」に嬉しさもツラさもすべてを分かちあうから「とも」なんだ。

そのような「友」が一人いるだけで、人生はなんて素晴らしいものになるだろう!
ツラさも苦しみも、「友」のおかげですべてが喜びに変わる。

あらためて心から「ありがとう」。

taddy


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h u m i l i t y

2005-10-19 | cafe_monologue


通勤途中、昨日の雨でまだ湿っている土を見て思い出した。

「humility」。

英語で「謙遜」という意味。
でも、「謙遜」ってどういう意味?と聞かれても漠然としたイメージしか湧かない。
日本語でいう「謙遜」には若干の「いやらしさ」を僕は感じる。
「ゴマスリ」というか、「へつらい」というか。
表面的にはイヤイヤと自分の才能を否定していても、ココロの中ではニヤニヤと誇っているというか。
僕自身、そのように誇っているときがある。

「humility」の語源は、ラテン語の「humus(フムス)」。
「humus」とは「土」や「塵(ちり)」という意味。
つまり人間は、著名人であれ凡人であれ、社長であれ平社員であれ、肩書きはなんであれ、どんな人も一握りの「土」に過ぎない、
「土」から生まれ、「土」へと帰っていくものだということを認識しているのが「謙遜」。

何かを達成する「才能」もすべて「いただいているもの」だということに、僕たちは気づいているだろうか?
会社にはいろんな部署がある。
それぞれの部署がそれぞれの役目をあたえられている。
そしてそれぞれの役目の調和が会社を存続させている。
同じように、この世の中を存続させるためにそれぞれにユニークな「役目」があたえられている。
僕たちにはそれぞれに違った「個性」があるでしょ?
言い換えれば、「才能」とは自分の「役目」を実行するための「預かりもの」。

自分の命は自分で作ったものじゃない。
そこからすでに、つまり、自分自身の存在という原点からすでに、自分で達成したものじゃない。
だから、何かを達成しても、あたかも自分が全て創りだしたかのように酔いしれてしまってはいけない。
誰も一人でなにかを成し遂げることはできないのだから。
周囲のいろいろな人が支え、助けてくれて実現したのだから。

自分に酔っておごり高ぶる人間はどうなるか?
それは歴史が十分すぎるくらい繰り返し示している。
「おごれるものは久しからず。」
平家物語のコトバがココロに浮かんだ。


taddy

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t i m e

2005-10-18 | cafe_monologue


ふとカレンダーに目をやった。
もう10月も半分を超えている。
2006年もあとわずか。

誰もが感じていることだと思うが、「時間」が経つのがとても早い。
子どものころは、一年が永遠のように感じれたのに、今では一年は一日のよう。

年を重ねると共に、日々の生活も忙しくなる。
誰かに何かを頼まれたり誘われたりしても、「時間がないからごめん」が口癖になる。

でも、ホントに「時間がない」んだろうか?

いや、「時間はある」んだと思う。
「時間」はほっておけば当然ただ過ぎていくだけ。

だから「時間」は「作る」ものだと思う。
どれほど忙しいときでも、自分の興味あることだったら是が非でも時間を作る。
どれほど余裕があるときでも、自分に興味のないことだったら時間を割きたがらない。

つまり、「自分のためにはいくらでも時間は割けるが、人のためには割きたくない。」ということじゃないだろうか?

けれど、これまでの道のりを振り返ると、「人のために割いた時間」からの方が得るものがたくさんあったように思う。
もっと周囲のために時間を作っていかなくちゃ。
それがひいては自分のためにもなるのだから。

taddy


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