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急行特急は行く…

急行特急THが、気のみ気のままに形創るブログ

トレイントーク0102-6 その6

2008年01月02日 23時50分29秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
続いては車両を。
鉄道用地が地下であれば、比較的まだあるという事で、全ての路線が地下式だった。そうなると、車両の先頭車の前面形状が、まっすぐになっていては、運転の様子を展望することが出来ない。私は運転台後部にある「遮光幕」が大嫌いなので、何とかならないか…と川島令三氏の本を読んでいたら、どうも前面を完全に斜めに切った形状すると、遮光幕を省略することが出来るとあり、JRでは「ビュー」とつく特急車が該当するとあったので、それらを見て、画像のような電車になった。
この絵を描いた時は、南東京線時代で、“MTR”となっている。“Minami Tokyo Rail road corporation”の頭文字から来ているが、東京南急特鉄道になってからは、その表現方法は止めている。

トレイントーク0102-5 フリーランス大公開その5

2008年01月02日 23時30分58秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
たいへん解りにくいが、これはノースエッジラインの路線図である。
乗り入れ形態だが、仲間Aは多摩中央公園と武蔵台から、仲間Bは、多摩中央公園から乗り入れとした。
 仲間Aの多摩中央公園から乗り入れる路線は、山手線のような環状線で、「たまかん」と呼んだ。五日市や町田の小山田桜台(小山田中央という名称だった)、相模原の上溝、港北ニュータウンのどこか等を結んで環状する路線だったと記憶している。
武蔵台から連絡線を経て乗り入れるのは、五日市方面(多摩湖か陣馬高原)へ行ったと記憶しているが、ここからは、有料特急がやって来て、私の会社の車両も乗り入れる相互乗り入れだったが、何と朝ラッシュ時も平気で池袋までやって来る形態だった。但しノースエッジライン内は時間帯に限らず全列車が無停車だった。列車名は、『イレールトラン』号だった。フランス語で「幻想的な列車」という意味になるそうで、要は、素晴らしいサービスを提供するものだった(と記憶している)。1時間に2本の運転だったと記憶している。特徴的なのは、西武の特急よりも夜遅くに池袋を出る事だった。
一方で存在した列車は、急行特急(仲間Bの路線との直通有り)、通勤急行特急(仲間全員との直通だが、仲間Aは「たまかん」からくる列車のみ直通あり)、特急(仲間全員と直通有り)、通勤特急(仲間Aの武蔵台から来る路線との直通列車だけで設定)と普通そして『イレールトラン』号だった。
特徴として、通勤急行特急も多摩中央公園←→池袋間が無停車だった。このスジの後ろを『イレールトラン』号が走った。
急行特急と特急がそれぞれ20分ヘッドで運転され、その間に普通とイレールトラン(通常は急行特急の後ろを3分差で追い掛ける)が割り込んだ。
順調に見えた相互乗り入れだったが、仲間AとBの我が儘に耐えられなくなった事と面倒な要求をあれこれ特にBからされた事とAがB側についてあれこれ要求される気配があったことやもともと仲間AとBの仲が良くなかったのと、何より私の仲介役能力不足が災いし、相互乗り入れをする気が失せたので、この路線を閉鎖し、乗り入れも辞めにした。

トレイントーク0102-4 フリーランス大公開その4

2008年01月02日 22時51分51秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
解りにくいが、この画像に写るのは、私がフリーランス仲間達に渡した、ノースエッジラインへ乗り入れる為の規定書である。
トラブル回避の目的で極力相手の事情を考慮し、18mと20mの車両が行き交い、18m車3つドア8両編成車(有料特急のみ2ドア)と20m4つドア10両編成(急行特急は2ドアか3ドアだった記憶がある) で、ワンハンドルマスコン、18m車の最高速度120KM/Hで20mは130か140KM/H設定で信号はATSだった気がする。軌間は、私の路線は先述の通り京葉線に乗り入れる関係で、狭軌だったが、仲間達に合わせて、この路線のみ標準軌にした。
ダイヤは、多摩中央公園と池袋基準で、通勤時間が3分間隔でそれ以外は5分間隔を原則とし、適宜運行間隔を調整した。要は浅草線ファミリーに倣ったのだ。
今にして思うと有り得ない乗り入れだった。

トレイントーク0102-3 フリーランス大公開その3

2008年01月02日 22時32分39秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
右往左往しつつ、路線が出来て行き、最終的に、4路線に「東京南急特鉄道」はなった。画像は大変見づらいが、全路線の路線図である。
本線(館ヶ丘←→東京)、相東線(相東若葉台←→大島中央)、三鷹横浜線(三鷹←→横浜)、ノースエッジライン(多摩中央公園←→池袋)の4つで固まっている。だが、後にノースエッジラインは、閉鎖し潰す事になった。

相東線は、もともとJR京葉線と乗り入れる目的で作られ、大島中央(東京都内の大島団地内に駅がある)が終点ではなく、東京だった。東京←→橋本間で考えたのだが、JR京葉線との乗り入れ車両キロのバランスを見て延伸の必要があった。そこで地図を見ていたら、若葉台という住宅街があることが解ったのでそこまで延伸すると、東京駅から41キロ位となり、車両キロのバランスも保てた。
この関係で、本線も当初は、館ヶ丘から東新橋(汐留)までの路線だった。大島中央は、その後、地図を見て大島団地があるのが解り、そこまで延長した。その時位に、本線と相東線との交差駅である平尾(新百合ヶ丘の奥地)を中心に路線を入れ替え、先述のルートになり、JR京葉線の車両が館ヶ丘まで乗り入れる事になった(車両キロのバランスも良かったと思う)。
三鷹横浜線は、当初は、染地支線(染地←→多摩区)という名前だった。武蔵野線の車両が乗り入れる計画の路線にその後なるのだが、三鷹←→染地間と多摩区(東三田団地というのがあったと思うがそこに駅があった)←→横浜が開業すると、取りやめになった。 もともとは、本線と相東線を結ぶだけの路線だったが、多摩地区を南北に走る鉄道路線が多摩都市モノレール以外に無いのを見たのと横浜に行くも路線も欲しいと思い、生まれた。三鷹は、それより先には西武が居たので止めたのとたまたま染地より北で、JR中央線の主要駅になっていたので選んだのもある。
ノースエッジラインは、池袋に行く路線が欲しかったのと、新都市線でフリーランスを開始した時に、「多摩市」駅というのがあり、復活させたいという願望もあり、誕生した。ここで、新たに加わったフリーランス仲間Bと共に相互乗り入れを展開する事になるのだが…。

トレイントーク0102-2 フリーランス大公開その2

2008年01月02日 20時22分52秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
「南東京鉄道」という社名で動き出したのが初歩ではなく、それより前は「新都市線」という名前を私の路線を見たかつての友人が口にしたので、それだった。
 今から12年前位にフリーランスを始めたと思うが、当初は、多摩中央公園から新宿を結ぶ路線で始め、後に東京まで延伸させ、染地から目黒経由で東京まで作った記憶がある。
しかし、かつて友人(仲間Aとよぶ)が、その後、「新宿には鉄道用地が無い」だの「東京駅近くにも鉄道用地が無い」と言いはじめ、「東京に、2つの路線が途中から分岐して同じ所に行くのは駄目」と言われ、1度、路線を潰した事もあった。
しかし、その後、川島令三氏の著書や縮尺の細かい道路地図を買ったりして、「地下深くにトンネルをほれば、行けない事は無い」事が解り、「新宿や類似する渋谷に東京が駄目なら、目黒に品川はあるじゃないか」と思いはじめ、そっちを通る様にした。また、多摩ニュータウンより八王子よりには、館ヶ丘団地があることに気づき、路線をそこまで延長したりしながら、路線を作った。

トレイントーク0102-1 フリーランス大公開その1

2008年01月02日 20時01分50秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
さて、年始のお宝大公開?的に、私が過去に手掛けた、フリーランスの資料を公開してみる。
まずは、社名。
当初は、この記事の次にくる「南東京」だったのだが、かつての友人が、地元バス会社が2年だか4年だかに1度行う「人員調査」のアルバイト(要は利用客数調べ)で、「南東京バス」というのを見たというので、社名変更を迫られた。
この社名になった理由は、
1.急行特急という名前を略称でも使いたかった事。
2.「東京」という名称を使いたかった事。
3.○○急行や○急、京○、○武と言うのを使いたくなかった事。4.東京南部をメインに走っていた事。

以上4つから、「東京南急特鉄道」は生まれた。

Mind Feeling0102- 13が日中日

2008年01月02日 15時43分07秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
3が日中日。
 「1-2」、1街区2号棟とここでは読むが、1月2日も15時30分を過ぎている。
寝正月的に、今朝も昼近くまで寝ていたが、今日も良い天候でなにより。
そういえば、昨日はこのブログ開始史上最大の方々に閲覧頂いたようで、心から御礼申しあげる。m(__)m ありがとう、と。