伊藤唯真氏による略年譜を見ると、延喜3年(903)に〈空也生まれる〉とあるが、両親、生所不明と続く。出自については皇室の出身の説にもいくつかあるようで、醍醐天皇の皇子説を採る梓澤要さんの『捨ててこそ 空也』をようやく読み終えた。
よく知らない空也。虚構があることも忘れて読んだ。空也の生涯を描く歴史小説はこれまでになく、初めての作品となるのだと知る。
天皇家、貴族のためだった仏教を、貴賤、身分の差別なく、等しく仏は救いの手を差し伸べてくれるのだと念仏の教えを説いて歩いた。投げられた石に傷つき、野捨ての骸を荼毘に付し、飢饉や災害時には井戸を改修したり土木の作業に従事し、喜捨を求め、貧しい人たちのために施食をして…。
【他人のためにささやかでも力を尽くし、一人一人が仏とつながり、他者とつながる。より良い生き方を望み、善友(ぜんぬ)として互いに心を結びあって生きていこう】
叡山で受戒しているが、生涯沙弥(在家の僧侶)として庶民の中に生きたと言っていいのだろう。貧しい民衆の悲しみ苦しみを自身の痛みとして受け止め、救済の手を差し伸べていた。慈しみにあふれ、やさしい、いたわりの心満ちた言葉の数々が、人の世に生きる大切な心を改めて思い起こさせてくれる。
「人は誰しも弱いのだ。日々、心乱れ、悩み苦しむ」「人はみな、自分を守るために嘘をつき、自分さえよければと考え、人を傷つける。身に覚えがありましょう。毎日眠る前だけでいい。おのれをふりかえってみなされ」 …(はい)
「心から仏の名を呼んで願うだけで、どんな者にでも救いの手をさし伸べてくださる。南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏よ、あなたさまにおすがりします、という叫び声なのだよ」
「息精(いき)は念珠」、念誦か。
不断に唱えた南無阿弥陀仏の6文字の名号が、空也上人の口から6体の枝仏となって出現している。この像が収められた六波羅蜜寺では、12月13日から晦日まで連続して空也踊躍念仏が修される。
こちら『死してなお踊れ』はしばらく前の作品だが、かつて読んだこともないようなハチャメチャな?表現で一遍上人が描かれていた。空也から一編へ…。