Yさんの閑日好日雑記

徒然に、気まぐれに何かが見つかれば

東横線・渋谷駅ガード跡

2014年11月30日 | 日記
渋谷駅山手線のホームに立っていたら、撤去作業中の東横線のホームが
すべて消えていた。
今年の7月30日に『ある日の渋谷駅ホーム』で山手線のホームから
前方が見渡せるようになったことを書いた。

今回は、東横線のホームの影に隠れていたガードが綺麗に見えた。
長い間、ホームで遮られて外観を見ることのできなかったガードを見ると
不思議な感慨である。

このガードは、もしかすると東横線開業時から架けられていたものだろうか。
長い間、東横線の車両を支えてきたガードだと思うと涙が出そうである。
それは嘘ですが。
『縁の下の力持ち』という諺があるが、まさしくこのガードはそれだったので
あろう。
取り壊される前に、写真に収められて幸いであった。

沖縄の夢・鉄道線路を

2014年11月29日 | 日記
またまた東京新聞の記事の引用で恐縮だが、11月24日朝刊に『つなが
るか沖縄鉄道構想』と云うコラムがあった。

沖縄の鉄道施設は、県民の夢であり知事選が終わって新知事に翁長雄志氏
が当選した。前知事である仲井間弘多氏もそうであったが、「南北縦貫鉄道
構想」。那覇―名護間70キロを結ぶ案は両知事選の公約が同じであった。

鉄道施設の計画は、交通渋滞の解消にある。車社会の沖縄では、那覇を
中心に朝夕の渋滞が深刻である。
2015年までに計画案を策定し、着工目標は那覇空港の第2滑走路が
完成する2019年度だ。とする内容が書いてあった。

また沖縄には、戦前は製糖産業を支えた3路線の鉄道が走っていた。
那覇起点の県営鉄道で、東の与那原までの9、4キロの与那原線、北の
嘉手納までの23、6キロの嘉手納線、南の糸満まで18、3キロの
糸満線があった。

レールの幅は、JR線の在来線の狭軌より狭い「軽便鉄道」の規格が
採用され、県民からは『ケービン』の愛称で親しまれたとある。
通勤通学客を含む年間利用者は約百万人に上ったらしい。
あの沖縄戦で線路はズタズタになり、進駐してきたアメリカ軍の払い下げ
トラックで砂糖キビなどを運ぶようになり、鉄道は消えてしまった。

現在、那覇空港から首里まで約13キロの沖縄都市モノレールが走って
いる。ただ単路線で距離も短く、車の渋滞解消にはなってないようだ。
いずれにしても、南国・沖縄に鉄道が走れば、鉄道ファンには嬉しい
ことであり、沖縄県民と共に夢を現実のものにしてもらいたい。

落ち葉の助っ人

2014年11月28日 | 日記
11月27日
一昨日、昨日の2日間の雨で、これだけの桜の落ち葉が散乱した。
これは清掃にたいへんだなと思いつつ、晴れたらやるかで見守っていた。

以前に書いたと思うが、隣が50年来の付き合いがある植木屋さんである。
年末までに、植木の剪定などを頼んでいたのであるが、その植木屋さんが
素早く動いてくれた。
『これから落ち葉で大変でしょうから、桜の枝を多少切り落ち葉を払落し、
さらに他の植木の剪定もやってしまいましょう』と仕事に入ってくれた。

2月に半壊したガレージを直してからの方が、仕事をやり易いと思っていた
ところなのであるがこれは助かる。
毎年12月の初旬頃まで落ち葉の清掃をやっていたのが、今年はこれで
やらなくて済む。
何故隣の植木屋さんが素早く動いてくれたかは分からないが、外構の草取り
とか放っておいた状態をせっせとやったことに関係しているのかな。

拙宅のような狭い土地でも、植木や草木などに手を掛けないとならないのは
悩みの種だが、家人が普段から土に接していない証明であろう。

四ツ谷へ

2014年11月27日 | 日記
11月26日
今日も雨である。私が所属している写真サークルの例会があり、四ツ谷の
日本写真文化協会まで行く。今年最後の例会である。

秋季撮影会の『浅草酉の市、水上バス』撮り歩き作品を、参加メンバーがこれぞと
選んだ写真3点を液晶プロジェクターで披露した。
各々の写真を見ていると、どこに集中して撮ったのか、何を目的に撮ったのかが
見えてくるから面白い。皆さん上手いと思った。

私は、水上バスでの写真はパスして、『浅草酉の市』のスナップポートレートに
したが記録的な写真になってしまった。
熊手を売る店に親子三代らしい、祖母、母、娘さんが居たところで粘った。
眼の前ではレンズを向けられないし、少し離れると手前にお客の頭やらが入り、
苦労する被写体であった。
娘さんも美人だが、お母さんも美しい感じ、お婆さんも昔は美人だったと思われる
整った顔立ちである。そんな親子三代の写真を披露した。
この被写体は、何人かのメンバーも撮っていた。やはり見るところは同じだな。

発表したのはこの写真ではないが、ブログでは肖像権の問題もあり、熊手で半分
程度隠れた娘さんのギリギリの写真、これなら許されるかな。

半蔵門

2014年11月26日 | 日記
11月25日
雨中まだまだ続く日本写真協会の公募展・応募パンフレットの封筒詰め
作業のため半蔵門へ通う。この内容に関してはもう書くことがない。

そんな折り、11月22日の東京新聞に半蔵門界隈(特に番町)の見るべき
ところや、グルメ情報などが掲載されていた。
半蔵門は、地下鉄の駅名であり町名としては番町と平河町になる。

東京新聞のコラムで荒俣宏氏の文章を引用させていただく。
『半蔵門は江戸城の主要門にあって例外的に土橋になっている。なぜ堀を
またぐ橋にしなかったかというと、その名称にヒントがある。忍者として
有名な服部半蔵の一族がここを守っており、将軍がここから甲州街道の方向
へ逃げる「からめ手」だったからと云われる。大手門から見ると確かに真裏
であり、しかも周辺は将軍家を守る旗本の戦闘部隊「大番組」が固めていた。
それで番町と呼ばれ、一番から六番町まであり現在も町名として残っている』

新宿通り(甲州街道・20号線)を挿んで、平河町、永田町に比べると番町
は現在でも静かな佇まいである。
日本写真協会の事務所は、JCIIのビルの本館にあり、隣りのビルが新館で
カメラ博物館と宝島社が入っている。
住所は、千代田区一番町である。以前にも書いたが隣りは英国大使館の広大な
敷地で、荒俣宏氏も番町の静けさの源泉はこの大使館の存在にあるのではと
書いている。

そんな雰囲気の街で、今日もせっせと封筒詰めに精を出した。