昨日の十字架の二本の線の話でふと思い出したことが、またひとつ。去年のセントラルカンファレンス(在米日本人クリスチャンの集まり)で元宣教師だった方がこう言っていました、「私達は世の果てまでも、神様の愛を届ける使命がある。でも、地球をぐるっと一周廻って、今あなたの隣に居る人が、その世の果てかもしれないよ」と。では、横の線をずーっとのばしていくと・・・今日の私の隣り人は、誰なんでしょう?
(ここで、投稿記事を打つ手を止めて、近くにいた大先輩クリスチャンと「隣り人」論をした。)
まず、聖書辞典で“隣り人”を引いてみました。有名なものではマタイ19:19の「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ。」でも、隣り人って誰?もう一つはルカ10:29で、「しかし彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣り人とは、誰のことですか。』」おっと、ここにも私と同じ質問をしている人がいるじゃありませんか!しかも、自分を正当化しようとして、この質問をしているらしい。「でも、その隣り人が誰だかわからなきゃしょうがないでしょ。」とでも言いたげな・・・ そこで、イエスは“よきサマリヤ人”のたとえ話をされたのです。(ルカ10:30-37)強盗に襲われた瀕死のユダヤ人の脇を、3人の人が通り過ぎます。彼を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、彼等に忌み嫌われていたサマリヤ人でした。イエスは先の律法学者に質問を返します。「この3人のなかで誰が、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカ10:36)
「私がこの話を好きなのは、隣り人はただそこに居る人ではなくて、自分が相手に対してなるものだ、と教えてくれるところね」と大先輩。確かに。このたとえ話では3人とも隣り人になることができたはずだけど、自分からなろう!という選択をしなければ、自動的に隣り人になることはないんだな。
てなわけで、この投稿記事を書き始めたときの題は「隣り人は誰ですか?」だったんだけど、「隣り人になりますか?」に変えました。“Who?” じゃなくて “Be!” なんですよね。
(ここで、投稿記事を打つ手を止めて、近くにいた大先輩クリスチャンと「隣り人」論をした。)
まず、聖書辞典で“隣り人”を引いてみました。有名なものではマタイ19:19の「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ。」でも、隣り人って誰?もう一つはルカ10:29で、「しかし彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣り人とは、誰のことですか。』」おっと、ここにも私と同じ質問をしている人がいるじゃありませんか!しかも、自分を正当化しようとして、この質問をしているらしい。「でも、その隣り人が誰だかわからなきゃしょうがないでしょ。」とでも言いたげな・・・ そこで、イエスは“よきサマリヤ人”のたとえ話をされたのです。(ルカ10:30-37)強盗に襲われた瀕死のユダヤ人の脇を、3人の人が通り過ぎます。彼を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、彼等に忌み嫌われていたサマリヤ人でした。イエスは先の律法学者に質問を返します。「この3人のなかで誰が、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか。」(ルカ10:36)
「私がこの話を好きなのは、隣り人はただそこに居る人ではなくて、自分が相手に対してなるものだ、と教えてくれるところね」と大先輩。確かに。このたとえ話では3人とも隣り人になることができたはずだけど、自分からなろう!という選択をしなければ、自動的に隣り人になることはないんだな。
てなわけで、この投稿記事を書き始めたときの題は「隣り人は誰ですか?」だったんだけど、「隣り人になりますか?」に変えました。“Who?” じゃなくて “Be!” なんですよね。