花だより

花のいのちは結構長い?
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吉本隆明氏の考える現代の「老い」

2006年09月20日 | しみじみしたこと
先日の保育園の祖父母参観日のことから、年をとるということと、周囲から老人扱いされるということとのギャップについて少し考えていたところへ、今朝の朝日新聞大阪版27面に吉本隆明さんの聞き書きの記事が掲載されていました。
 吉本さんの記事の最後の「老人が直面する問題はやっぱり老人になるまでわからなかった。いい年をしていろいろな目にあって、ようやくそれが見えてきた」という一文が近頃の氏の心境を物語っています。

 少し前にも書きましたが、私は詩人永瀬清子さんのアパートの住人の恩師の所を良く訪ねていました。昔、岡山に講演があった時に永瀬清子さんの所を訪ねてきた吉本隆明氏は、永瀬さんに敬意を払って大変礼儀正しかったそうです。まだ壮年時代で、台風が近づいてきていたというのに、沙美海岸で海水浴を楽しんで帰ったと聞きます。でも寄る年波、記事によると、真正面に立っている1m離れた人の顔がよくわからないほどに糖尿性の「眼筋まひ」で、道もうかうか歩けないそうです。

 冒頭はこうです。「『老人』と一口に言っても、何十年もそれぞれの職業ごとに千差万別の人生を生きてきたのだから(中略)・・・ところが病院ではそうした配慮は一切なく、『年齢』というたった一つの基準で患者をくくってしまう。そしてその1つだけの基準に基づいて治療や介護やリハビリテーションが行なわれていく。(中略)老人のわがままだといわれてしまえばその通りかもしれない。だが、その画一性が一人ひとりの患者に及ばず、心身への絶望的なまでの影響というのは計り知れない。医療や治療の専門家が患者の個人差を本気になって考えないというのは致命的ではないか。
 (中略)
 「自分の気持ちは少しも鈍くなってはいない、それどころかある意味ではより繊細になって、相手の細かい言葉にいちいち打撃を受けているのに、そのことを表す体の動きは鈍くなっているという矛盾。そしてそれを理解されないジレンマ。その点に絶望している老人が多く存在するという現実を、医師や看護士、介護士はどの程度知っているのだろうか。・・・

 長いのと、後の部分は割りと難解なので割愛させていただきますが、吉本隆明氏といえばカリスマ文芸評論家ですが、氏も体の老化と少しも衰えないどころか繊細に研ぎ澄まされた心とのギャップに悩まされ、そしてお世話になっている医療関係者にそのことがなかなか理解されていないこと、画一的に扱われることに不満を持たれているようです。同じような理由で、画一的な老人クラブへの参加お誘いに納得いかない人が多いのでしょう。