平成二年、坂本○○氏(広島県福山市箕島町)が別荘用地として同地(阿蘇郡南阿蘇村河陰字小畑2909の2)の4105平方メートルを購入。
これが「開発造成中、ショベルカーのショベルが大きな岩石(後の当銭岩・御神体)に当たり、『宝くじを買いなさい』とお告げがあった」(同施設のブログに記載)という宝来宝来神社のスタート。
そして同ブログは「四国の友人がお詣りして、宝くじを買ったら途方もない大金が当たって、それで神殿を寄付」と続くが、この神殿、店舗、作業所も同じく同氏が登記所有。
後述する神官役のスタッフが「広島のオーナー」として認めた通り、宮司や宗教法人の責任役員ではなく、坂本○○氏は宝来宝来神社の事業主。
先の『宝くじの途方もない大金主』について所在を尋ねると、山本寛斎(著名なファッションデザイナーとは別人)と称する庶務担当のスタッフは「高知県の人…東京で教師をしていた…退職して全国を旅して回っている…高齢だから亡くなった可能性が高い」と二転三転の回答。
続いて「神事は誰が執り行っているのか」と聞くと、同スタッフは「阿蘇神社の元神官」と地鎮祭(出張)の担当者(先述の神官役)を紹介。
これには阿蘇神社、
「活動については論評する意思もないが、当神社の名前を出されるのは迷惑」
憤慨してコメント。確かに威厳に関わる問題。
そこで阿蘇神社に替わって同神社の参道に住む市民が、「追放された人で、身を寄せた奥さんの家の敷地内で別居と噂」
教えた。
先の庶務担当が「オーナーは離婚」と語ったが、この神官役スタッフの噂も重ねると、『縁結びの神』として施設に参る若者たちの心中とはどういうものか。
そこで最も理解のしやすいのが、
「あそこ(宝来宝来神社)については当初、観光客や市民からの問い合わせもあったが、あそこは宗教法人ではなく、宗教法人でなければ神道上の神社ではなく、神社として認められなければ神官、神事も不存在」
熊本県神社庁(護国神社境内)による説明。
確かに神道と紹介しながら、同施設内に鎮座する七福神。
その中の恵比寿神はともかく、他は仏教、道教、インドの神様。
この七福神、そしてお詣りの「ホギホギ」という唱語について、神官役に神道としての意味を尋ねると、「雇われる前から決まっていた」と無関係を主張。
ここで断っておくが、『信仰の自由』は国民の誰にも認められた権利(憲法第二○条)で、それを侵すつもりはなく、彼らのホギホギ(宝来宝来)信仰をとやかくいうつもりはない。これも信仰の自由。
だが宗教が不特定多数の社会と関わり、そこでの社会的問題と疑いを抱いた場合、それを質すという権利は国民の誰にもある。
「確かに宗教法人ではないが、宗教団体ではある」(同施設庶務担当談)
ところが一日150名もの入場者(10月14日)は、その大多数が氏子でも信者でもない、同団体とは関わりを持たない不特定多数の一般市民。
若者の「縁結びの神でパワースポット」、「宝くじが当たる(高額)神」という訪問理由はともかく、高齢者グループの「健康祈願」、また「安産の神という噂でお参りに来た」という妊婦の素朴な民族信仰、宗教心から考えると宝来宝来神社は果たしてどうか。
彼らは日本人の文化として伺い、20個近いお賽銭箱に投銭しながら参って帰る。
もちろん先に述べた実態を承知で、投銭し、お参りする市民なら何ら問題はない。これも信仰の自由。
ところが退出後、彼らは揃って「非宗教団体とは知らなかった」と憤慨。これが問題。
確かに宗教とは非現実的で、科学では証明のできないものだが、少なくとも日本人の文化でもある宗教心を別の意図で誘導するとなると、これは明らかに問題。断定はしないが、それだけに質す必要はある。
オウム真理教の当初が良い例で、自治行政、またマスコミも宗教と称する施設をタブー視し、弱腰になるのは確か。
多種信仰の日本人における素朴な宗教心と合致するかも問題だが、宗教法人としては認められない宗教施設には、社会的に重要な別の問題も存在。
非宗教法人は公益事業とは認められないわけで、施設内外での活動収入は営利事業における収入。
すなわち一日150名余りの投銭、インターネットでも紹介の多額な寄付、神米と称する穀物類の通販による収入は全て課税対象。
ところが南阿蘇村の課税、商工担当課は「事業者、事業所名は未確認」といったのだ。
「まともな宗教法人、神社だと信じていた」
憤慨して語った入場者の投銭(該当者2千円)は、社会還元すらない疑いも浮上する…。(第四弾へつづく)
これが「開発造成中、ショベルカーのショベルが大きな岩石(後の当銭岩・御神体)に当たり、『宝くじを買いなさい』とお告げがあった」(同施設のブログに記載)という宝来宝来神社のスタート。
そして同ブログは「四国の友人がお詣りして、宝くじを買ったら途方もない大金が当たって、それで神殿を寄付」と続くが、この神殿、店舗、作業所も同じく同氏が登記所有。
後述する神官役のスタッフが「広島のオーナー」として認めた通り、宮司や宗教法人の責任役員ではなく、坂本○○氏は宝来宝来神社の事業主。
先の『宝くじの途方もない大金主』について所在を尋ねると、山本寛斎(著名なファッションデザイナーとは別人)と称する庶務担当のスタッフは「高知県の人…東京で教師をしていた…退職して全国を旅して回っている…高齢だから亡くなった可能性が高い」と二転三転の回答。
続いて「神事は誰が執り行っているのか」と聞くと、同スタッフは「阿蘇神社の元神官」と地鎮祭(出張)の担当者(先述の神官役)を紹介。
これには阿蘇神社、
「活動については論評する意思もないが、当神社の名前を出されるのは迷惑」
憤慨してコメント。確かに威厳に関わる問題。
そこで阿蘇神社に替わって同神社の参道に住む市民が、「追放された人で、身を寄せた奥さんの家の敷地内で別居と噂」
教えた。
先の庶務担当が「オーナーは離婚」と語ったが、この神官役スタッフの噂も重ねると、『縁結びの神』として施設に参る若者たちの心中とはどういうものか。
そこで最も理解のしやすいのが、
「あそこ(宝来宝来神社)については当初、観光客や市民からの問い合わせもあったが、あそこは宗教法人ではなく、宗教法人でなければ神道上の神社ではなく、神社として認められなければ神官、神事も不存在」
熊本県神社庁(護国神社境内)による説明。
確かに神道と紹介しながら、同施設内に鎮座する七福神。
その中の恵比寿神はともかく、他は仏教、道教、インドの神様。
この七福神、そしてお詣りの「ホギホギ」という唱語について、神官役に神道としての意味を尋ねると、「雇われる前から決まっていた」と無関係を主張。
ここで断っておくが、『信仰の自由』は国民の誰にも認められた権利(憲法第二○条)で、それを侵すつもりはなく、彼らのホギホギ(宝来宝来)信仰をとやかくいうつもりはない。これも信仰の自由。
だが宗教が不特定多数の社会と関わり、そこでの社会的問題と疑いを抱いた場合、それを質すという権利は国民の誰にもある。
「確かに宗教法人ではないが、宗教団体ではある」(同施設庶務担当談)
ところが一日150名もの入場者(10月14日)は、その大多数が氏子でも信者でもない、同団体とは関わりを持たない不特定多数の一般市民。
若者の「縁結びの神でパワースポット」、「宝くじが当たる(高額)神」という訪問理由はともかく、高齢者グループの「健康祈願」、また「安産の神という噂でお参りに来た」という妊婦の素朴な民族信仰、宗教心から考えると宝来宝来神社は果たしてどうか。
彼らは日本人の文化として伺い、20個近いお賽銭箱に投銭しながら参って帰る。
もちろん先に述べた実態を承知で、投銭し、お参りする市民なら何ら問題はない。これも信仰の自由。
ところが退出後、彼らは揃って「非宗教団体とは知らなかった」と憤慨。これが問題。
確かに宗教とは非現実的で、科学では証明のできないものだが、少なくとも日本人の文化でもある宗教心を別の意図で誘導するとなると、これは明らかに問題。断定はしないが、それだけに質す必要はある。
オウム真理教の当初が良い例で、自治行政、またマスコミも宗教と称する施設をタブー視し、弱腰になるのは確か。
多種信仰の日本人における素朴な宗教心と合致するかも問題だが、宗教法人としては認められない宗教施設には、社会的に重要な別の問題も存在。
非宗教法人は公益事業とは認められないわけで、施設内外での活動収入は営利事業における収入。
すなわち一日150名余りの投銭、インターネットでも紹介の多額な寄付、神米と称する穀物類の通販による収入は全て課税対象。
ところが南阿蘇村の課税、商工担当課は「事業者、事業所名は未確認」といったのだ。
「まともな宗教法人、神社だと信じていた」
憤慨して語った入場者の投銭(該当者2千円)は、社会還元すらない疑いも浮上する…。(第四弾へつづく)