私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳:第十五段落

2020-01-14 12:34:27 | T・S・エリオット「宗教と文学」翻訳
 ★思いがけず長い寄り道になりましたが、「宗教と文学」はあと六段落ばかりで終了いたします。そろそろ失楽園に手をつけねば……
 二行目の大文字の「ブレイクたち/Blakes」は、正直これでよいのか自信がありませんが、同じ行の「vision」からの連想でウィリアム・ブレイクではないかということにしておきました。ブレイクの作品についてはカテゴリ「W・ブレイク」でTigerとThe Sick Roseを訳しております。
 以下は雑感になります。今回の第十五段落の後半の'there never was a time'を三回繰り返すリフレインの部分には、理知的な散文作者のなかにふと詩人が顔を出してしまったような、おこがましいながら微笑ましさを感じました。そしてふと「バーント・ノートン」の冒頭を思い出しました。↓

  今在るときと過ぎたときとは
  おそらくは どちらもまだ来ぬときのうちに在り
  まだ来ぬときは過ぎたときのうちに含まれていた
  すべてのときが非時にただ今にのみ在るなら
  すべてのときはあがないえず
  在りえたなにかはただひとつの想にすぎないまま
  果てない見込みをとどめながら
  識の世にのみ留まる

  Time present and time past
  Are both perhaps present in time future,
  And time future contained in time past.
  if all time is eternally present
  All time is unredeemable.

近代、すなわち十七世紀以降の少なくとも知的活動に従事する人間の頭脳は、主として活版印刷の普及による文字資料の爆発的な増大によって、「音声/情動/無意識」に支配された部分を、「言語/理性/意識」に支配された部分が急速に圧倒し、双方の連結が破壊された結果、身体反応を伴う情動/パトスを知覚できない孤独なる理性/ロゴスのみを「我」と認識する、いわゆる近代的人間が生じたのではないか……と、長らく考えていましたが、このところその二分法に空間と時間の認識も含めるべきではないかという気がしています。端的に対比するならば「音声/情動/無意識/時間」⇔「言語/理性/意識/空間」。言語に裏打ちされた理性/ロゴスは、静止した空間の把握には極めて長けている分、時間の感覚を欠いている気がするのです。認識する側も認識される側も常に変化している時間の流れのなかで静止画のみを認識しようとするから諸々の矛盾が生じてくる。極度に肥大した言語能力の持ち主だったエリオットだからこそ、己に何かが見えていないことに気付けたのだという気がします。
 



T. S. Elliot
Religion and Literature
p.104

T・S・エリオット
「宗教と文学」
104頁

もし同時代の著者たちが本当に個人主義者であるなら、彼らのどの一人であれ、各々の別個の幻視によってブレイクたちに霊感を与えるだろうし、同時代の公衆の集まりが本当に諸個人の集まりであるならこの態度に対して何某かの語ることがあっただろう。しかしそうではないし、かつてそうであったこともなければこれからもないだろう。それは今日の〔あるいは何時であっても〕読書する個人が出版者の広告や論評家から押し付けられるすべての著者の「人生観」を吸収でき、一つを他と比べて熟慮することで賢さに至れるほどにも独立した個人となっていないからというだけではない。同時代の著者たちが同じほど個人ではない。リベラルな民主主義者である別個の諸個人による世界が望ましくないわけではない。単にその世界は存在しないのだ。そのため、同時代の文学の読み手は、既に認められた時代を問わない偉大な文学の読み手のようには、雑多な矛盾する諸人格の影響に対して己を晒していない。各々が自分は個人として何かを提供していると考えながらも、本当はみな共に同じ方向で働いている書き手の塊の動きに対して晒している。信じるに、読書する公衆が自らの時代の影響に晒されざるをえないほど大規模で無力だった時は未だかつて無かった。信じるに、仮初にも読書をする者が物故した著者たちの書物よりも生きている著者の書物をより多く読むような時は未だかつて無かった。それほどに偏狭で過去を締め出した時は未だかつて無かった。出版者は余りに多くいるのだろう。明らかに余りに多くの書物が出版されている。そして諸雑誌は出版され続けるものに「ついて行く」ようにと人々を駆り立てている。個人主義的な民主主義は絶頂に至っている。そして今日個人であることはかつてなく難しい。

 *ブレイク〔William Blake/1757-1827〕英国の詩人・画家

If the contemporary authors were really individualists, every one of them inspired Blakes, each with his separate vision, and if the mass of the contemporary public were really a mass of individuals there might be something to be said for this attitude. But this is not, and never has been, and never will be. It is not only that the reading individual today[or at any day] is not enough an individual to be able to absorb all the ‘view of life’ of all the authors pressed upon us by the publishers’ advertisements and reviewers, and to be able to arrive at wisdom by considering one against another. It is that the contemporary authors are not individual either. It is not the world of separate individuals of the liberal democrat is undesirable; it is simply that this world does not exist. For the reader of contemporary literature is not, like the reader of the established great literature of all time, exposing himself to the influence of divers and contradictory personalities; he is exposing himself to a mass movement of writers who, each of them, think that they have something in individually to offer, but are really all working together in the same direction. And there never was a time, I believe, when the reading public was so large, or so helplessly exposed to the influences of its own time. There never was a time, I believe, when these who read at all, read so many more books by living authors than books by dead authors; there never was a time so completely parochial, so shut off from the past. There may be too many publishers; there are certainly too many books published; and the journals ever incite the reader to ‘keep up’ with what is being published. Individualistic democracy has come to high tide: and it is more difficult today to be an individual than it ever was before.