戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

22/09/01 その3 防災記念日

2010-09-01 16:51:27 | Weblog
 そうだっけ、今日は関東大震災のあった日だ。うちのおじいさん、小山春治郎はその時自転車で東京から宇都宮まで来たという。道も悪くて大変だったろうなといつも思っているが、そんな事を云えば芭蕉だって誰だって昔は歩いたのだ。東武前にいた頃は父親が消防団に関係していた事もあり、防災の日には直ぐ上の4分団に必ずお酒を届けたものだった。今は何処にあるかも知らない。大正も昭和も遠くなりにけり・・・か?

22/09/01 その2 峠の茶屋はもう少しだ!

2010-09-01 16:30:02 | Weblog
 テレビは漫然と聞いているだけで大変に勉強になる。脳を休める為には視覚から入る光線をカットするのが良いと聞いて以来、いつも横になって眼を閉じている事が多くなった。眼を閉じていても耳には入ってくる。それだけでも大変な勉強になる。次の言葉はゲゲゲの鬼太郎でお父さんが呟いていたような気がする。
“人生40年、50年も生きてくる間には良い事も悪い事も沢山ある。悪い時にこそ人間の値打ちが出る”これも味わいのある言葉だ。多分、今、私は悪い時に入っているような気がするが、以前60台の後半に2,3年位酷い時があってもう駄目かと思いながら姉達の協力によって脱出出来た。その時に甥にいわれた言葉「おばさんはこれで70台を乗り越えられたね」が忘れられない。今も少し早いが80歳代を乗り越えているのだろう。もう少しで落ち着く・・・・・

22/09/01 昔の卵1個は今とは価値が全く違う。

2010-09-01 13:55:17 | Weblog
 いつもなら貧しいお昼のわけだが、今日は太田から姉がいつものようにサラダや煮物、焼き魚など数えるときりがないほど沢山持って来てくれた。とうもろこしの茹でたものや様々なお菓子、お茶の類いまで当分買い物に行く必要がないほどの種類だ。この慰問袋はでっけえ・・・お昼に何点か頂くとしても、しまうのに時間がかかる。今夜はプールは行かない日なので夜食も楽だ。その空いた時間でお料理をしようと思ったが、これでは約1週間は何もしなくて済む。今日サンユーで特売の卵10個98円を1つ買ってくれば良い。便利な世の中で、母の時代の苦労など今の若い人達に語って聞かせても理解するだけでも難しいだろう。卵で思い出すのは原眼科の南に住んでいた時の朝食の時で、1メートル以上もあるような黒い卓袱台を囲んでずらっと並んだ子供達が母の手元をじっと見つめている。
支那そばのどんぶり一杯のごはんに卵を1個割って入れ、かき混ぜてそれをそれぞれの茶碗に分けてくれる。今は軽く盛った1膳のご飯に1個の卵を割って入れる。その日の朝の光と大東亜戦争が始まった時の朝の光が全く同じに思い出される・・・