戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

“馬のべろ“とは何の事でしょう?      22/04/19

2010-04-18 16:45:53 | Weblog
昔は舌の事を“べろ”と云っていた。今も云う人がいると思うけれど、大体は“舌”で通っている。私が東武前の店に出ていた頃、群馬県館林市から電車に乗って宇都宮まで商売に来る人がいた。電車から降りると真っ先にうちの店に入り、カバンを置いてから、近所の自転車預かりに置いてある自転車を取って来る。それからおもむろにタバコを一服して、うちで出してやるお茶を飲む。一休みするとうちの注文を取り、倉庫に借りている田川のへりの建設会社に向かう。携帯電話など無い時代なので、商品が無い時はうちの電話を借りて東京に注文していた。あの頃はそのように1軒ずつ電気屋を回って注文を取って歩いた。秋葉原あたりに問屋はあるらしく、今ほど情報は流れていなかったし、電気屋はそれどころでは無いほど忙しかった。必ずお弁当を持って来てどこかの電気屋の片隅を借りてお昼にしていた。電気屋もお茶を入れてやったり、何か一品出してやる事もあった。お昼過ぎ、一応宇都宮の電気屋を何軒か回るとそれからは鹿沼にバスで向かった。鹿沼には宇都宮より大きい電気屋もあり、良い商売になっていた。この実直な人がある時私に「馬の“べろ“って知っているかい?」と聞いた。この人は小学校を出ると東京の電気の問屋に奉公し、戦争になってからは兵隊に行った。復員して今の商売を始め、結婚したが、そんな風で余り字や物事の知識が無く、いつも私に聞いていた。だから私が知らないだろうというような事は「知っているかい?サハリンて何処だか」とか良く聞かれたがいつでも聞かれた事の答えを知っている私に口惜しがって、何とか鼻を明かしてやろうとてぐすねを引いていた。そして「馬の”べろ”は?」となったわけだ。
さすがに私も馬の“べろ“は知らなかった。喜んだ彼は「ヤーイ知らないだろう。其処に飾ってある木蓮の事さ!」と云った。その時店には普通の紫の木蓮が大きい花瓶に沢山入れてあった。確かに馬の舌の感じはするが、花に失礼な呼び名だと思った。彼はその後、亡くなられたが、木蓮の季節が来る度に思い出す。馬のべろ”を・・・

死んでも良いと食事療法を止め、猛然と飲み、食べ始まった彼

2010-04-18 15:23:32 | Weblog
私は何もかも嫌になる時がある。仕事や対人関係、どうにもならない自分を含めて身内の病気との付き合い、これは高齢の我々姉妹にとって馬鹿に出来ない問題である。それと病気にならぬように節制を続けている食生活の管理など巧く行っている問題など余り無い。
随分前の事だが、知人で何という病気に掛かっていたか知れないが、勤務を終えて退職したあと、若い頃発病して殆ど治っていた病気が悪化した。病院では特別なメニューを指示し、まるで味の無いような食事にしないと余命は長くないと告げた。
リタイヤして時間が有り余る人の事、自分で徹底的に食事の管理をして、家族とは全く別の食事をしていた。その生活の様子をたまに奥さんから聞く事があったが、自分でいつも計算しながらやっているよ云う事だった。糖尿病でない事は事実であった。何の病気か、他人の事ゆえ言わない事には触れられなかった。数年その状態が続いた。いつでも彼は元気だった。管理は充分だった。家族もそれに慣れ、誰も何もいわなかった。十数年が過ぎ、私は彼の奥さんから夫が死んだ、という訃報を受け取った。
その後訪ねて来た奥さんは、彼はある日を境に食事療法をきっぱり止め、家族と共に同じテーブルで同じ物を食べるようになったのだという。十有余年に亘る薬のような食事、それは“えさ”と云って良いような3食であったに違いない。「好きなビールも飲めず、薬を食む(はむ)ような毎日を捨てて好きな物を腹いっぱい食べて夫はあの世へ旅立ったのよ」と妻は云った。或るアメリカの少女が火事で大やけどをして食道をやられ、直接胃へ食べる物を入れるようになったが、それでは満足が得られないだろうと、一応は口で嚙み、充分味わってから咀嚼した物を胃に入れるという方法を取ったという事を聞いた。直接胃に入れるのを胃瘻(いろう・胃に孔を開ける)と言うが、意識不明でもなければ可哀そうな気はする。まさにアメリカだなあと思った。
私の場合は節制はそれほどでもないから何とか生き永らえる事は出来るだろう・・・